北部エチオピア旅行記 (プロジェクト専門家が 2004 年イギリス留学時に旅行した時の雑文です。)

エチオピアへ行って来ました。大学が3月 27 日より2週間のイースター休暇に入ったためで、昨年からこの時期にどこかへ旅行しようと計画を練っていました。ヨーロッパの美しい街と景色にあまり興味のない僕としては、まず最初に西アフリカにあるマリ共和国の名前が頭に浮かびました。ニジェール川が国の真ん中を流れ、その川沿いの街ジェニには世界最大の泥作りのモスクがあります。ご存じですか。ところがガイドブックを買っていざ準備に取りかかってみると、「3月から4月にかけては砂嵐が吹き荒れ、マリを旅行するには最悪の時期」という一文が目に留まりました。せっかく出かけて行っても砂に目もカメラもつぶされてはたまったものではないとあっさりあきらめ、次に名前が浮かんできたエチオピアへ行くことに決めた次第です。

では何故エチオピアなのか。まだニキビ面の若かりし頃、大学入試で僕が選んだ社会系科目は世界史でした。その世界史の試験に出題されたのが何とエチオピア史です。恐らくその試験問題を作った教授だか助教授の専門がそうだったのでしょうが、高校生を対象とした試験に出題するにはあまりにも不適当な問題です。もう一つの問題も中国の貨幣史だったので点の取りようがなく、僕の成績は 60 点満点で 16 点でした。それでもまあ大学には合格して獣医にもなれたわけですから文句はないのですが、あの世界史のために泣いた学生も多かったことでしょう。しかしその時に初めてエチオピアには日本と同じく 2000 年近い歴史があり、皇帝が政治を司っていた時期があったということを知りました。それ以来、いつかエチオピアを旅行してみたいと思うようになったわけです。

ですから野生動物を見に出かけたわけではありません。歴史的な街、遺跡巡りをしてきました。エチオピア航空の 761 便はローマ経由でロンドンとアディス・アババを9時間で結びます。空から見たエチオピアは、肥沃そうな深い茶色をした大地を粕毛のようにうっすらと緑が覆い、屋根が銀色に輝く家が点在していました。行きがけにエジンバラへ向かうバスの中から見た、スコットランドの牧野を覆う圧倒的な深さの緑とは対照的でした。エチオピアの首都であるアディス・アババは丁度国の中央に位置しています。北から南にかけて国土の真ん中を険しい山々が連なり、それが西部へ繋がっていきます。それゆえアディス・アババも含め、エチオピアの西側半分は標高が 2000 メートル前後もあって気候的には非常に恵まれており、日が強くても肌がさらさらするくらいさわやかでマラリアの心配もありません。僕が訪れた歴史的な街は国の北部に位置しているため、日中は暑いものの湿度が低くて凌ぎやすく、夜はひんやりとした空気が心地良いほどでした。実際、どこの街でも驚くほど害虫が少なく、夜、ホテルの部屋の窓を開け放していても蛾が入り込んで来ることなど全くないどころか、蚊に刺されることすらありませんでした。しかしエチオピアの東部へ向かうと標高が低くなり、砂漠に覆われた不毛の土地が広がっています。

首都のアディス・アババは僕の予想とはかなりかけ離れた街でした。以前訪れたことのあったナイロビやハラレ(ジンバブエの首都)の印象から、またイタリアの植民地下にあったという歴史的背景から、アディス・アババがかなり洗練された都会だと勝手に思いこんでいたのですが、どっこいそこは都会と呼ぶには勇気のいる、その上これといった魅力も独特の雰囲気もないアフリカの田舎町でした。恐らくこの街で一番有名なのは人類の起源とされるルーシーの化石でしょうか。医者であり冒険家でもある関野吉晴さんがグレート・ジャーニーの最終地点に選んだあのルーシーです。実際に国立博物館に展示されていたルーシーの化石はレプリカだったのですが、小学校低学年の子供くらいの大きさで、見た印象は「へえー」といった程度でした。

さてそのアディスを早々と切り上げ、北部に点在するヒストリック・ルートへと飛びだちました。アディス・アババを6時の位置とする南北に細長い時計とすると、3時の位置にあるラリベラ、12 時のアクスム、10時のゴンダール、そして8時に位置するバハル・ダールという街々を訪れたことになります。アディスとアクスムが直線距離で約 500 キロといったところでしょうか。最もこれではあまりイメージが湧いてこないでしょうが。

最初の訪問地ラリベラは山間にある村と言った方がぴったりします。急峻な山々が連なる地域であるため飛行場も近くには建設できず、土地はいくらでもある田舎でありながら村から25キロも離れていました。この外界から隔離された村は 12 世紀から 13 世紀にかけてのザグウェ王朝時代に首都として発展しました。ラリベラ王の命を受けて岩を削り教会を造ったのが始まりで、その後何世紀かに渡っていくつもの教会が造られました。つまりラリベラの教会はほぼ全てが岩盤を削って造られており、それがアフリカのペトラ(映画「インディアナ・ジョーンズ、最後の聖戦」で、ハリソン・フォードとショーン・コネリーが最後に馬に乗って飛び出してくる神殿がある遺跡、ジョルダンにあります)と呼ばれている所以です。最も規模的にはペトラに及びもしませんが、ペトラの神殿郡は正面だけが岩盤から削り出されているのに対して、ここラリベラの教会は教会そのものがそっくりそのまま岩盤から削り出されており、最初に目にした時には言葉を失うほどのショックを受けました。
ラリベラの岩窟教会群。12 世紀にエチオピアのラリベラ王 (King Lalibela) は岩を掘りこんで 11 の教会を建造した。これらの教会は、てっぺんが地面と同じ高さにあり、それぞれが 12m の深さまで地面を掘り下げた溝で囲まれている。教会には入念に彫刻を施された壁や線彫装飾を持つ窓があり、まるでれんが造りのように見え、内部には通路やトンネル、排水用の深い溝なども組み込まれている。この珍しい教会には、世界各地から巡礼や観光客が各種の祭儀に参加しようとやって来る。ラリベラの教会は、1978 年に世界遺産に指定された。写真左:聖ジョージ教会。ラリベラの教会群のなかでは最も新しく造られたもので、巨大な穴の中に浮かび上がった十字架型の建物は、ラリベラの岩窟教会の象徴とも言えるもの。


さてこの村で遭遇した問題がふたつ。ひとつはハエです。一歩ホテルを出て村を歩き始めるとハエがたかってくるのです。しかも顔のまわりになので、常に追い払わなくてはなりません。最初は何で僕だけハエにたかられるのだろうかと不思議に思ったのですが、よく見ると地元の人たちもしきりにハエを追い払っていました。一生、ハエを追い払い続ける人生というのも大変でしょうね。エディー・マーフィーが主演した Trading Places(恐らく邦題は「大逆転」ではなかったかと思います)という映画をごらんになったことがありますか。その映画の中でエディー・マーフィーがカメルーンからの留学生を演じ、馬だか牛だかの尻尾の毛が先についた棒を使ってしきりにハエを追い払うシーンがあったのですが、それと同じものが村で売られていて、特にお年寄りはそれを常に携帯してハエを追い払っていました。映画を見た時はあれは単なる飾りものだろうと思っていたのですが、実際に使っているところを見ることができ、得したような損したような気分でした。

もうひとつはこの村の中学生くらいの子供達が変な日本語を知っていたことです。観光地に行って地元の人たちに日本語で話しかけられるのはよくあることですが、たいていの場合それは「こんにちは」であったり「ようこそ」であったりと挨拶に関するものです。しかしここではそれが「ち○こ、ま○こ」であったために、最初に言われた時には飛び上がるほど驚きました。一度は2−3才くらいの子供が近づいてきて「ジャパニー、ジャパニー、ま○こ」と言うではないですか。何と反応して良いのかわからず、しばらく呆然としてしまった程です。道を歩いていると頻繁に声をかけられるためにしばしば無視を決め込むこともあるのですが、そういう時には決まって「ち○こ、ま○こ」と捨てぜりふを吐く子供がいました。彼らは実際にその言葉の意味がわかっており、英語の"Fuck You"のかわりに使っていたんだろうと思います。恐らく脳天気な日本人観光客が教えたのでしょう、全く面白がって馬鹿なことを言うもんじゃないなあと自分も肝に銘じた出来事でした。幸いなことに他の街ではそんな日本語で話しかけてくるエチオピア人には出会いませんでしたが。

そのラリベラからアクスムへ向かう飛行機の中でアメリカ人のジェルといっしょになりました。彼はニューヨーカーで、法律事務所で働く弁護士です。これだけ聞くと何かすごく女の子にもてそうですが(実際ハンサムでした)、しかし常にテンションが高いというか何とも奇妙に神経質なところがある青年で、まあニューヨークに長年住んでいるとこんな風になってしまうのだろうと勝手に想像していました。その彼に誘われ、車をチャーターして2泊3日の予定でティグレイというラリベラとアクスムの中間あたりの山中にある教会群を見に出かけることにしました。しかし出発前からジェルは我が儘のし放題。「銀行へ行かなくてはならない」、「電話をかけなくてはならない」と言っては運転手と僕を待たせ、そのせいで大幅に予定が狂って運転手は自損事故を起こしてしまうし、時間がなくなって予定していたところに行けなくなるとそれを運転手のせいにするし、、、全くイライラのさせられどおしでした。でもまあジェルに誘われなければこんないい景色を見ることもなかったわけで、自損事故の弁償をしなければならなくなったドライバーにはかわいそうなことをしましたが、これはこれで良い経験でした。やっぱり気心が知れた人以外とは旅行何かいっしょにするもんじゃあないというのが教訓です。そのジェルのお薦め本が "The Da Vinci Code" です。現在アメリカでベストセラーになっている本らしく、フランスのルーブル美術館で起きた殺人事件の謎解きにレオナルド・ダ・ビンチが残したコードが関わってくるという小説だそうです。そのうちに日本でも翻訳本が出版されるでしょうから、興味のある方はご一読下さい。

アクスムの街からティグレイ地域に向かって行くと、写真左下のようなテーブル・マウンテンが現れる。そのうちのひとつ、デブレ・ダーモには修道院があり、今でも修道僧達が外界とは隔絶された空間で信仰に捧げた日々を送っている。写真左:修道院を見学するために切り立った崖を登っているところ。とは言っても実際には上で 2 人がロープを引き上げてくれているので、全くの自力で登っているわけではない。そのうちのひとりが写真右下の男性である。彼が親切に内部を案内してくれたのであるが、最後にはやはりチップを要求され、ジェルが差し出した金額では全然足りないとさんざん文句を言っていた。本当に敬虔な修道僧なのだろうか。写真右:ティグレイ地域の風景。真ん中の岩山の中腹に教会が建っているのがわかるだろうか。草木の中に白っぽい屋根が見える。


さてそのティグレイという地域には、小規模ではあるもののラリベラと同じような教会があちこちの山の頂に建っています。当時は外界と隔離された場所に好んで教会や修道院を造ったためだそうで、それゆえ現在でもそれらの教会を訪れるのはなかなか容易ではありません。その中でも一番古い修道院はエリトリアとの国境に近いテーブル・マウンテン(頂上が真っ平らの山で、そのまわりは断崖絶壁になっている)の上にあり、中へ入るためには 20 メートルほどのロック・クライミングをしなければなりません。最も腰にもロープを巻き付けて上にいる子供2人が引っ張り上げてはくれるのですが、それでも自力でこの重い体を何とかしなければいけないことには変わりなく、久々に肉体的にきつい精神的に怖い思いをしました。

アクスムは紀元前 10 世紀頃のシバ女王国の首都であったと言われている街であり、その後紀元1世紀から 10 世紀にかけてはアジアとの貿易で非常に栄えた要衝だったそうです(今ではその面影を全く感じさせないほどにさびれていますが)。ここにはその当時、王の墓標として建立された石柱や墓が残っています。現在でもまだ立っている石柱の中で最大のものが24メートル、倒れてしまったものの中で最大の石柱が 33 メートルあります。これらはエジプトのオベリスクのように石を繋ぎ合わせたものではなく、人類が切り出したひとつの石片としては最大のものだそうです。

長くなってしまったので端折りますが、次に訪れたゴンダールは 17 世紀、ファシラダス皇帝時代の首都で、山間の閑静な街中に当時の城塞やそれに関連した建物が残っています。

最後に立ち寄った街、バハル・ダールはタナ湖のほとりにあるエチオピア人向けのリゾート地であり、ここだけは山脈からはずれた標高も低い場所にあるためか開放的な印象を受けました。このタナ湖に浮かぶ島々に修道院が点在しているため、それが観光資源になっています。またこの湖はブルー・ナイルの源としても知られており、街から約 30 キロ離れたところにあるブルー・ナイル・フォールズ(滝)を見に来る人も多いようです。最も僕が訪れた時は乾季だということと川の水の大半が発電に使われているということで、雄大なはずの滝は伊豆の修善寺にある浄蓮の滝と大差ない有様でした。白ナイルの源流であるビクトリア湖岸の街、ウガンダのジンジャへは、以前リサーチワークに行った折りに訪れたことがあるので、これで両ナイルの源流を制覇したことになります。

4月 10 日、朝のフライトでバハル・ダールからアディスへ飛び、そのまま午後のフライトでロンドンへ戻る予定でした。朝、6時前に起きて荷づくりを済ませ、フロントで宿泊料の精算している時に航空会社から電話が入りました。「アディスへ行く朝のフライトがキャンセルになった」と告げられ、血の気が引く思い。実は 13 日までに提出しなければならないかなり難問の課題が出されていたのです。予定では 11 日の午前中にセント・アンドリューズへ戻ってすぐに取りかかり、2日間で仕上げるつもりでした。ですから1日帰宅が遅れると提出までに丸1日しかなくなり、終わるかどうかも危うくなります。成績の半分を左右する課題なので手を抜くわけにもいきませんし、かといって航空会社の人に当たり散らしたところで飛行機が飛ぶわけでもなし。とにかく午後のフライトでアディスへ飛ぶことにしました。


ゴンダールはアクスム、ラリベラに次ぐ、第三番目の首都として 1632 年にファシリダス帝(1663 年~1667 年在位)によって築かれ、1864 年までの 2 世紀に亘り栄えた。写真上:ゴンダールの街中心部に建つ不思議の城。17 世紀から造られた6代皇帝の城塞で、敷地内に6つの城と 12 の城門がある。これは1代目のファシリダス帝のお城で、ダイニングやバルコニーが見学できる。石造りの4階建てで、非常に重厚な感じがする。
写真上左:アクスムの教会内部。写真上右:ゴンダールの幼稚園で遊んでいた子供達。かなり裕福な家庭の子供が通っているようだ。写真左:ゴンダール、デブレ・ベルハン・セラシエ教会内部。1674 年、イヤス帝によって建設された教会で、天井には 80 体の天使の顔が、壁には新約聖書とエチオピア正教の宗教画が描かれている。天井の一部にはギース語で「天使の数は数えられない」と書いてあるらしい。
1時半発のフライトだったのですがホテルで待っているのももどかしく 11 時前には空港へ到着。しかし飛行機がやって来たのは1時半、出発は1時間遅れの2時半、飛び立ってホッとしたのも束の間、飛行機が北へ飛んで行くではないですか(アディスはバハル・ダールの東南にあります)。機内放送を聞くとメケレ経由と言っています。メケレといえばあのティグレイ観光の基地となっている街です。そんなこんなで直通であれば 45 分で到着するはずのアディスに着いたのが5時ちょっと前。エチオピア航空に文句を言ってホテル代を出させようと思っていたものの、空港のオフィスには誰もいなかったので仕方なくあきらめ、タクシーで街へ向かい以前泊まったホテルにチェックインしました。その日、長いことバハル・ダールの暑い空港で待たされて疲れがたまっていたところに、夜、風が吹きすさぶ肌寒い中をTシャツのまま屋外のレストランで夕飯を食べたことが追い打ちをかけて、すっかり体調を崩してしまいました。その晩、寒気と頭痛と倦怠感に襲われ、同じ悪夢を繰り返し見て何度も夜中に目が覚めました。こんなんでイギリスへ帰ってから課題ができるのだろうかと心配したものの、幸いにも朝には随分と体調が良くなっていました。

翌日はほぼ予定通りにエチオピアを脱出、飛行機は約1時間遅れでヒースロー空港に到着しました。入国審査で1時間も列に並ばされ、地下鉄の駅に出てきたたのがもう夜の 10 時です。10 時半にビクトリア・バスターミナルから出るエジンバラ行きの夜行バスに乗りたかったのですが間に合うわけもないのであっさりあきらめ、ユーストン駅へ向かいました。夜 11 時 17 分発の夜行列車があったはずなので、時間だけ確かめてあわてて乗り込んだら全然違う近郊の街へ行く列車で、終点まで行ってまた逆戻り。ユーストンへ戻った時には既に午前1時をまわっていました。駅で聞いたらエジンバラ行きはキングズ・クロス駅から出発するとのこと、何か全ての歯車がどんどん噛み合わなくなってきているという感じです。もうやけのやんぱちで午前2時発のミルトン・ケインズ行きバスに乗り込みました。ミルトン・ケインズがどこにあるのかもよく知らなかったのですが、ロンドンの寒い駅で朝まで列車を待っているのも嫌だったし、ホテルを探すには時間が遅すぎたので、まあバスに乗っている方が暖かいかなあと思って飛び乗った次第です。3時半にミルトン・ケインズ到着。駅の構内は暖房が利いていてホッとしました。グラスゴー行きが6時 20 分にあったのですがそれまで暇だったので、20 分先のノースハンプトンまで無賃乗車で往復してきました。グラスゴー行きの列車が走り出した時には「これでようやくスコットランドへ帰れる」と肩の力が抜けていくのがわかったくらいです。北へ向かうにつれて車内放送に耳を傾け、まずカーライルでエジンバラ行きに乗り換え、次にヘイマーケットでアバディーン行きに乗り換え、セント・アンドリューズに近いルーカーズ駅に降り立ったのが午後1時 15 分。そこからタクシーで家に向かい、長かったこの 17 日間の旅行を終えました。その日の夕方から課題を始めたのですが何とか夜 12 時までにはカタがつき(久しぶりに俺って頭がいいんだと実感)、翌日の午前中にきれいに仕上げて午後の授業までに間に合わせることができました。あのアディスでの最後の晩、寒い中で食事をしたせいか左肩が神経痛になってしまい(風が左側から吹いていた)、未だに時々、特にコンピューターに向かうと左腕に鈍痛やしびれが走ります。まあ、そのうちに治るとは思いますが、エチオピア航空に対する恨みが晴れることはないでしょう。

大学の方はほとんどの講義が終わり、各人リサーチの準備に入りました。この後5月後半にある後期試験を終えると、本格的にリサーチを始めることになります。僕は6月から7月にかけてウルグアイの小島でフィールド・ワークを行うことになっているため、次回の通信も番外編になりそうです。(2004 年 4 月 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記)


"エチオピア"のスライドショーをダウンロードする。(File Name: Ethiopia.mov)
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