閑 話 -- 桃太郎 --

日本に帰るとよく落語を聞きに行く。母の実家の近くに鈴本演芸場があったせいで、中学に入った頃からたまに寄席へ出かけていた。特にお気に入りの落語家がいたわけでもなく、古典落語に詳しかったわけでもない。むしろ古典の噺は退屈で、そこに入る前の「まくら」と言われる、いわゆる落語の導入部が好きだった。最近の出来事の中から面白そうなニュース、これから始まる本題にうまくつながるような話題を選び、心から自然に笑わせてくれる。ここがまずいとまず落語も楽しめない。橘家円蔵などはススッと登場し、客を爆笑の渦に巻き込み、ササッと去っていく。足が悪いので座りもしない。筆者が聞いたときには肝心の噺さえせず、最初から最後まで世間話的な話題で終わったが、それでも十分に満足できた。寄席には色物と呼ばれる手品、切り紙などが登場するが、こちらもテレビで見るのとは大違い。その技術の高さに目を見張るばかりである。

ここ数年のお気に入りは春風亭小朝で、帰国前にオンラインでチケットを手に入れておく。世の中、便利になったものである。小朝は「まくら」でよく相撲界の話をする。落語界と相撲界、日本の伝統芸能と国技であり、二世が多いという共通点もある。何でも貴乃花、若乃花の花田家があまり好きではないらしく、いつもチクチクとつつきまわる。最近では朝青龍がいじめの的になっている。落語会には出来のいい二世がいないそうだ。その最たる噺家が義理の兄弟であった正蔵 (こぶ平)、いっ平だという。甘やかされて育ったからか。そこで「子供を甘やかしてばかりいると、三田佳子さんところのご長男みたいになってしまうんですよ。」と、言ってみたりする。しかし同じ二世でも血のつながらない娘婿にはいい落語家が多いのだそうだ。もちろんその代表が小朝である (昨年、離婚したので既にこの話はしなくなったが)。

小朝の噺では古典といえども大幅にその中味が現代風に変えられている。ほとんど創作落語に近い。つい先日、八木忠栄さんという方が書かれた「落語はライブで聴こう」という本を読んでいて、その中の小朝についてのくだりに大笑いをした。「桃太郎」という落語についての解説である。自分自身、以前にライブでこの噺を聞いたことがあり、その時の衝撃が蘇った。著作権の侵害と責められるかもしれないが、以下にその一部を引用したい。

      お父つぁんが昔話の「桃太郎」を子供に話して聞かせる。しかし、今の子供は黙って素直に寝入るわけではない。反対に意味を今日的に説いて聞かせて、逆に親を寝かしつけてしまうという落語である。そのパターンはもはや珍しくはなくなった。古びつつある。だから、その通りに演るのではなく、昨今の日本語の乱れをまくらで振って、小朝は危ういまでに金坊を全面に出してトレンディな解釈を展開させていく。
      お父つぁんの名前は金倉金蔵で、自分は金坊、と親子の名前の「金」尽しをまず嘆く。両親の出来が悪いから、自分もたいした者にはなれない。将来の夢はせめて区役所にでも勤めたい。そして老人二人 (両親) の面倒を見なくちゃならない。住宅ローンを借り、中小企業の経営者であるおじさんにいろいろと相談に乗ってもらいたいけれども、おじさんは相談だけでなく母ちゃんにも乗るだろう。
      昔話のことに及んで、「舌切り雀」や「浦島太郎」は集団リンチの話だし、「鶴の恩返し」は監禁してハタを織らせるという罪にあたる、と金坊は解釈する。これは金坊の口を借りて、小朝が解釈していることは言うまでもない。お父つぁんは「桃太郎」をしゃれたつもりで「ピーチボーイ」と呼んで、さて話に入る。
      ところが、たちまち金坊につっこまれることになる。曰く「昔あるところに.......」という様式美は否定しないけれども、「おじいさん、おばあさんはどう生計を立てていたの?」。それに始まって、「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に.......」というのは環境破壊にあたる。そうではなくて、山へは植林に、川へは鮭の稚魚を放流に行くべきだ。流れてきた桃を拾って切るのは器物損壊罪にあたる。もしも桃から赤ん坊が生まれるのだったら、フルーツパーラーのまわりは赤ん坊だらけになる。まあ、それからそれへと口が減らない今どきの子である。
      さらに「鬼ヶ島の鬼たちはどんな悪いことをしたの?」「だいたい鬼が恐いからといって、人を見かけで判断するのはいけない」とたしなめられる。鬼を退治して利権を手に入れた桃太郎はブッシュであり、桃太郎に従う猿や犬はまるで日本じゃないか、とも。最後に寝てしまったお父つぁんのことを、「親なんて無邪気なものだ」と嘆くサゲはこの落語本来のもの。

とまあ、こんな調子である。しかしこの作者、八木忠栄さんの小朝評は結構辛口で、「噺にソツがなくスマートにおさまっていて、客を強引にひきずりこんでいくがむしゃらなパワーが抑制されている。出来のいい頭が邪魔しているのか? 腰をもう一段も二段もずっしりと落としたうえで、噺の崖っぷちをも覗かせてしまうような、さらにダイナミックな造型を期待したいと思う。」とあった。自分はもう何度も小朝の独演会に足を運んでいるが、これでもかこれでもかとたたみ込んでくる小朝の仕掛けに、常に会場は笑いの連続であった。これだけの笑いがとれる噺家がそうざらにいるとは思えない。これ以上のものを客に期待されては、噺家もつらいだろうなあ、、、(2008 年 5 月 6 日 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記)


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