建造物の規模の壮大さ、高さ65mにも達する圧巻の高塔建築、壁面を飾る浮彫に代表される華麗な造形美術などがアンコール遺跡の特色で、東南アジアの「ギリシャ」とも喩(たと)えられるアジア最大級の文化遺産となっている。遺跡は、それが造られた当時の社会の産物で、そこには往時の時代精神と技術力が凝縮されている。
フランス人アンリ・ムオー(1826-61)が1860年1月22日にアンコール・ワットを訪れてから、アンコール地域は急に世界の人々から注目をあつめることになった。それ以前、16世紀に、この地を初めて訪れたスペイン人やポルトガル人たちも、崇高な大寺院に胸を打たれた。彼らは近隣の住民に、いったい誰がこの寺院を建立したかを質問したが、何の返答もなかった。そのため彼らは、建立者はアレキサンダー大王ではないだろうかとか、ローマ人ではないだろうかなどと想像しながら、ただ自問自答を繰り返していた。
ところが、ムオーのアンコール紹介記事以降に、アンコール地域を訪れた旅行者たちは、寺院の壮麗さに魅せられると同時に、柔軟な頭でその数々の謎に挑戦した。彼らは、過誤だったのだが、もっともらしい説を繰り返し提起し、それらを反論の余地がないほどに展開した。その後の研究者の中には、これらの異説をそのまま信じ込み、史料批判も行わないままに、それらに立脚した研究をはじめた学者さえもいた。
根も葉もない俗説が、年月を経るにつれて一人歩きした。碑刻文などの解読とその裏付け作業から、アンコール諸遺跡の最終的な年代が確定するのは、1930年代に入ってからのことであった。(石澤良昭著「壮大なる宇宙世界への賛歌−アンコールワット小史」から引用)
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