アンコール写真館 その 1 アンコール遺跡群の地図を見る

左奥にアンコールワットを望む
      アンコール遺跡は、このカンボジア北西部、シュムリアップ州のトンレサップ湖北西岸一帯に展開している。アンコール王朝治下(802年頃〜1431年頃)に、石や煉瓦で建設された、大小の寺院や祠堂(しどう)(神仏をまつる小さい建物)、貯水池、橋梁などの膨大な数の遺跡群である。現在、カンボジア国内で約1080ヶ所が遺跡として登録されている。とくにシェムリアップ市(プノンペンから北西313キロ)郊外には、有名なアンコール・ワットやアンコール・トムなど主要な63の遺跡があり、最近、多くの観光客が訪れるようになっている。

      建造物の規模の壮大さ、高さ65mにも達する圧巻の高塔建築、壁面を飾る浮彫に代表される華麗な造形美術などがアンコール遺跡の特色で、東南アジアの「ギリシャ」とも喩(たと)えられるアジア最大級の文化遺産となっている。遺跡は、それが造られた当時の社会の産物で、そこには往時の時代精神と技術力が凝縮されている。
      フランス人アンリ・ムオー(1826-61)が1860年1月22日にアンコール・ワットを訪れてから、アンコール地域は急に世界の人々から注目をあつめることになった。それ以前、16世紀に、この地を初めて訪れたスペイン人やポルトガル人たちも、崇高な大寺院に胸を打たれた。彼らは近隣の住民に、いったい誰がこの寺院を建立したかを質問したが、何の返答もなかった。そのため彼らは、建立者はアレキサンダー大王ではないだろうかとか、ローマ人ではないだろうかなどと想像しながら、ただ自問自答を繰り返していた。
      ところが、ムオーのアンコール紹介記事以降に、アンコール地域を訪れた旅行者たちは、寺院の壮麗さに魅せられると同時に、柔軟な頭でその数々の謎に挑戦した。彼らは、過誤だったのだが、もっともらしい説を繰り返し提起し、それらを反論の余地がないほどに展開した。その後の研究者の中には、これらの異説をそのまま信じ込み、史料批判も行わないままに、それらに立脚した研究をはじめた学者さえもいた。
      根も葉もない俗説が、年月を経るにつれて一人歩きした。碑刻文などの解読とその裏付け作業から、アンコール諸遺跡の最終的な年代が確定するのは、1930年代に入ってからのことであった。(石澤良昭著「壮大なる宇宙世界への賛歌−アンコールワット小史」から引用)

Angkor Wat
Phnom Bakheng
アンコール・ワットからアンコール・トムへ向かう途中にある遺跡で、小高い丘の上にあるためにかなり急な坂道を登らなければならない。観光客をゾウに乗せて坂を上るサービス(もちろん有料)もあり、このゾウのうちの数頭が皮膚病になった。遺跡からはアンコール・ワットの尖塔が霞んで見え、戦争写真家としてアンコールで命を落とした一ノ瀬泰三の映画「地雷を踏んだらさようなら」にも登場する。
Angkor Thom

The Bayon

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