ルアンプラバン写真館 その1ルアンプラバンの地図を見る
1353年にクメール人に支持された征服者 Fa Ngum がこの地に最初のラオ王国 Lan Xang Hom Khao を築いてから、1545年に King Phothisarat がビエンチャンに行政府を移すまでの間、ルアンプラバンは Lan Xang 王国の首都であった。山々に囲まれた標高700メートルの街は、ちょうどメコン川とカン川の合流点に位置している。光り輝く寺院の屋根とフランス風の建物が混在する町並みが旅行者を魅了してやまない。
そのふたつの川によって形作られた半島のような地区の真ん中に、Phu Si と呼ばれる丘がそびえており、街のどこからでも目にすることができる。ほとんどの歴史的建造物である寺院は、この丘とメコン川の間に集まっており、商業地域は丘の南側に広がっている。それゆえ観光地区のほとんどは徒歩でも1〜2日で巡ることができるが、より深く街の雰囲気に浸るために滞在予定を延ばす旅行者が多い。
毎朝6時になると各寺院の僧たちが列を作って托鉢に歩く。特に Sakkarin 通りやそれに続く Sisavangvong 通り沿いには寺が多いために、オレンジ色の長い列ができる。僧といってもほとんどが10代の若者、というよりはまだあどけない顔をした少年である。本当に僧侶になるために寺に入った子供達もいるが、貧しい家に生まれ家庭の事情から寺に送られた子供達も多いらしい。ルアンプラバンで約 300 人いるという彼らは、寺ごとに決まったコースを毎朝たどり、右肩に下げた大きな器に少しばかりの食べ物を受け取って歩く。裸足だ。墓のないラオスでは檀家制度などないであろうが、地区によってサポートする寺が決まっているのだろうか。彼らは午前中、11時前に2回食事を取るだけで、午後は飲み物以外口にしない。それでも夕方のお勤め(お経を読む)が終わると自由時間があるらしい。夕飯を食べに街へ出かけた時、僧衣のままネット・カフェでコンピュターの前に座り、ゲームに興じているオレンジ色の姿を見かけ、少し安心した。
Royal Palace Museum complex

Royal Palace Museum
フランス植民地時代の 1904 年に、Sisavang Vong 国王と家族の住居として建設された。このメコン川岸の場所は、政府の公式な訪問者がルアンプラバンへの川旅を終えた後、すぐに王宮へ迎え入れられるようにとの配慮から選ばれた。
    建築様式は 、19 世紀のエコール・ド・パリのスタイルにラオの伝統的なモチーフを取り入れたものであり、設計は二重の十字形をした建物の一方へエントランス・ホールを取り付けた形となっている。
王宮敷地内の東北の区画に立つこのパビリオン(Sala Pha Bang)の建設計画は、君主制が廃止された 1975 年以前に遡るが、実際に建設が始まったのは 1993 年であり、完成したのは 2004 年である。
    同敷地内、東南の区画には Sisavang Vong 国王の大きな銅像が建ち、その背後にもうひとつの王宮の建物(現在は王立劇場として使われている)が配置されている。

Sala Pha Bang
Wat Mai Suwannaphumaham
1821 年に落成したこの寺は、Sangkharat (ラオ仏教の最高の指導者) がビエンチャンの Pha That Luang に移るまでの間、Wat Aham に継ぐルアンプラバンでの第二の居住地としたところである。
    その入り口に当たる正面のベランダには、装飾を施された柱の数々や、贅沢な金のレリーフで埋め尽くされた壁が配置され、訪問者の目を楽しませてくれる。
この寺には一休さんのような坊主が沢山修行に励んでおり、僕らが訪れた時には右の写真の少年が入場料を徴収するために現れた。なかなか愛想のよい小坊主くんで、一緒に訪れたラオ人とタイ人の同僚にこの寺について色々と説明をしてくれた。寺での生活がどんなものなのか、僕には想像もつかないが、彼の屈託のない笑顔を見る限りまあそれなりに楽しいこともあるのだろうと思う。いったいどんな青年に成長していくのか、先を見届けたいと思わせる雰囲気を漂わせていた。
  
夕方5時を10分か15分も過ぎた頃だろうか、大きな太鼓の音が境内に鳴り響いた。映画「ファンシーダンス」の中でも紹介されていたが、日本のお寺の決めごとのひとつ、時刻を告げる鳴り物のようなものであろうか。しかしその割には時間が中途半端だ。何人かでがむしゃらに叩いているという感じで、特別なパターンなどはないようだった。そういえば日本では寺といえば鐘だが、タイやラオスでは大きな鐘のある寺を見たことがない。
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