マンダレー地域診断センターでの活動(2005 年 9 月)
今年度の In-Country Activity のひとつ、豚コレラに係る疫学調査をマンダレーの地域診断センターにて実施することになり、そのために必要な技術の移転を始めた。
もともとタイにおいて ELISA法を開発してそれを使う予定であったが、タイで使用しているモノクローナル抗体が ELISAで使用できるほど特異性もアフィニティーも高くなく、かつ豚がウイルスの培養細胞であるSK-6に対して抗体を有することから非特異反応を除外することが難しく、ELISA法の開発は断念せざるを得なくなった。
それゆえその代替えとして中和ペルオキシダーゼ試験(NPLA)を疫学調査に使わなければならなくなり、そのために必要不可欠な細胞培養法をマンダレーの診断センターにおいて確立することとなった。ELISA法を使えなくなったのは大きなセット・バックであるが、
中和試験
は血清ウイルス診断の標準法であるため、これはその技術を各国の診断センターにおいて定着させるいい機会として前向きに捉えるべきであろう。
マンダレーはミャンマーの中央部、乾燥地帯のまっただ中に位置する歴史の古い街である。街の中央には昔の王宮があり、丘の上にはパゴダが街を見下ろしている。第二次世界大戦の折に日本軍がそのパゴダにたてこもり、最後までイギリス軍と銃撃戦を繰り広げたらしい。近くには東南アジア三大遺跡のひとつとして知られるバガンもあるため、ミャンマーにおける観光地の中心都市としても栄えている。そのために政府は2年ほど前に空港を建てかえ、現在では首都のヤンゴンよりも立派な国際空港を抱えている。しかしその大きく立派な空港には未だ到着便数が少ないため、節電のためか広いロビーは薄暗くガランとしている。また真っ平らな広い土地が続いているにもかかわらず、空港は街の中心より30キロ以上も離れており、不便なことこの上ない。
マンダレーの診断センターは思ったよりも機材類が揃っており、蒸留装置なども自前のものが動いていた。血清・ウイルスの部屋にはベンチ、倒立顕微鏡、蛍光顕微鏡、孵卵器が揃っており、使用されてはいなかったが炭酸ガス孵卵器も備えていた。当初、水の良し悪しが細胞培養の鍵になると考えていたが、培地を作って培養を始めてみたところ、細胞は特に何の問題もなく増殖していた。むしろ問題は頻繁に起こる停電で、第二日目などは朝から停電し、とうとう終業時刻まで電気は供給されなかった。無菌操作をしている最中などにこのような停電が起こると作業を中断せざるを得ず、今後、このような活動を続けて行くにあたって大きな足枷になるであろうと思われた。
クリーンベンチで無菌操作をするドクター・ティン・ティン・タンと、それを見守るスタッフ。
また、信頼のできる冷凍庫がないことも心配要因のひとつである。唯一、デジタル表示のついている冷凍庫は、-20度と表示が出ているにもかかわらず中に凍っていない液体の試薬などがあり、表示が全く当てにならない。センターのスタッフはこのことに全く気がついておらず、筆者が指摘して始めて納得したようだ。仕方なく温度変化に弱い試薬類はもうひとつある冷凍庫に移したが、そちらの方はデジタル表示が壊れており、中のものは全て凍ってはいたものの、いったい何度くらいであるのかもわからない。
細胞の凍結は、発泡スチロールを用いて特別なアタッチメントを作り、液体窒素タンクを使ってできるように工夫した。一度凍らせたストックから細胞をリカバーできたのでこの方法で大丈夫だろうと思われるが、色々と煩雑な手順が必要になるため彼らだけでうまくできるか心配でもある。
診断センターでは持ち込まれる動物の治療も行っている。右の猫は後ろ足の間に大きな裂傷を負い、これから縫合を受けるために麻酔を注射されたところである(右の若い男性が飼い主)。
センターのスタッフには細胞培養をタイにおける研修で習ってきている者もいるが、ほとんどプロトコールに書いてあることさえ理解しておらず(読んでいないのだろう)、全くの初心者と言ってよい。彼らのたっての希望で細胞培養を始めるのであるから少しは下調べをしておくべきなのであるが、ほとんど専門家に頼り切りという感じであり、これから先、本当に彼らだけで続けていけるのか不安感は否めない。しかし時間をかけて定着を図るしかなく、再度足を運んで続けていくつもりである。まがりなりにも今回で細胞培養はできるようになったので、次回はウイルス・タイターの測定法を指導し、できれば NPLA に係る技術移転も行いたいと考えている。
クーラーはあるものの全く効かず、日本人ばかりを選択的に刺す蚊が日中でも飛び交う中での仕事であったため、ホテルへ戻るとどっと疲れが出てまずミャンマー・ビールを1本。その後は夕食を食べに外へ出る気にもなれずに9時前にはベッドに潜り込み、朝まで10時間近くぐっすり眠る1週間であった。
(2005
年
10
月 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記
)
後列左端が所長、その隣がヤンゴンのワクチン生産部のドクター・アウン・キン
マンダレーからヤンゴンへ戻る途中の飛行機からの眺め。肥沃な農地がパッチワークのように続く。
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