ベトナムの古都、フエ写真館 その1
      フエ(Hue)はベトナム中部の都市で、フランス語風にユエと呼ばれる事もある。漢字名は順化(トゥアンホア)。香江(フオンジャン, Perfume River)が市の中央を流れ、およそ15km下流で南シナ海にそそぐ。年間平均気温帯25度。
      19世紀に越南阮(グエン)朝の都がおかれた。
阮朝(Nguyen Dynasty)は、ベトナム(越南)の最後の王朝。1802年 - 1945年。阮福暎(グエン・フック・アイン)がフランスの宣教師および義勇兵の援助を受け、ベトナムを統一して建国した。阮朝は清に朝貢を行って形式上従属したが、国内や周辺の諸民族・諸国に対しては皇帝を称し、ベトナムに小中華帝国を築き上げた。阮氏広南国がチャンパ王国を併合した時代からそれまで100年の間統一王朝は存在しなかったため、阮朝は現在のベトナムの領域を支配した最初の統一政権でもあった。
      フエが位置する中部中央二省(広治(クアンチ)省、承天化(トゥアティエンフエ)省)は1306年まではチャンパー王国の烏里(ウリク)州であり、大越陳朝領有後に北の順州(今のクアンチ省)と南の化州(今のトゥアティエンフエ省)に分割されて、現在に至る。広南阮氏時代の名称は順化都城、阮朝時代の正式名称は富春京師。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されている。
      市内には世界遺産の王宮南門、宮殿と帝廟が残り、碁盤の目状の方形都市の中にニャーヴオン(園宅)と呼ばれる旧貴族・皇族の住宅があって、首里城や京都御所のような佇まいがある。ジャロン帝(嘉隆帝、阮世祖、阮映)が1805年から造営させたフエ城の城郭は、フランス帰りの建築家レー・ヴァン・ホク(黎文学)が設計したもので、五稜郭と同じフランス式の星型城郭で、ヴォーバン様式と呼ばれる。
      城郭内部の建築は構造的には中国建築とは無関係なベトナム特有のもので、全国から招聘された職人の流派の影響で北部・中部やホイアン(会安)華人の様式が融合している。後期の建築物にはこれにフランスの影響が加わる。
フエの市街は,香江を中心として北岸の旧都城を中心とする旧市街と、南岸のフランス植民地時代の建物が並ぶ新市街とに二分される。旧市街はヴォーバン式とよばれる多角形の城壁を廻した都城が占め、その外に鉄道と香江に沿って商業地域が連なる。
バイクによる交通事情の悪さはフエも例外ではない。
      フエの建築中、最も興味深いものは歴代の皇帝陵であろう。都城の南西方に広がる丘陵地帯には阮朝歴代皇帝の陵墓が点在する。それら嘉隆・明命・紹治・嗣徳・育・同慶・啓定の7つの皇帝陵は、各々が建築的に独創性を持つだけでなく、総体として阮朝の歴史的な流れをも体現化している。
      
皇帝陵は一般的に河か池を前面に持ち、拝庭はいてい・碑亭ひてい・段台状テラス・廟殿・円陵あるいは多重の周壁に囲まれた石屋、の5つの要素から構成される。拝庭には左右に侍衛の石形や石象石馬が並び、円陵や石屋は多くの場合前方に一組の花表柱(オベリスク)を伴う。これらは明・清代に確立された中国の陵制に使われる諸要素である。しかし、中国の陵制に倣う一方で、皇帝達は各々自らの趣味に合わせて陵を計画したため、共通の要素を持つにもかかわらず各皇帝陵は驚くべき多様性を見せる。また、配置計画におけるフエの自然環境の巧みな利用も共通した特徴である。
Tu Duc Tomb - 嗣徳帝 (トゥドゥック Tu Duc) 阮福蒔 Nguyen Phuc Thi (1847 年 - 1883 年)
      阮朝の君主の中で最も長く35年に渡ってベトナムに君臨した嗣徳帝は、詩人であり哲学を好んだが、しかし統治能力に欠けていた。彼はヴィエトナムが西洋の帝国主義に直面した困難な時期に王位に就いたが、彼に嫡子がいなかったことはさらに状況を悪化させ、彼を厭世的にしていった。そうした彼は、隠居して詩を詠む仙境とするべく陵を調え、終生かつ死後の休息の地とした。
      嗣徳帝陵(1864〜1867年造営)も陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれるが、ここでは陵ではなく離宮として営まれた廟の方が中心となっている。敷地は長さ1.5kmの牆壁に囲まれる。南の努謙門を入り、敷地の東半を占める謙湖に沿って行くと湖に臨んで廟である謙宮が建つ。謙湖に浮かぶ中島には3つの亭が建ち,また湖畔には愈謙射と沖謙射のふたつの台射が乗り出す等、中国の離宮に見られる典型的な構成である。
      段台状テラスを上り宮門を入ると、そこには3つの中庭を囲んで和謙殿をはじめ9つの殿閣が並ぶ。その一角には鳴謙堂という小劇場も設けられた。
嗣徳帝陵のまわりには色とりどりの線香を売る露天が並んでいる。
      陵は謙宮の斜め後方にあり、謙湖から引いた小謙池を前に拝庭、碑亭、石室が並ぶ。また、陵内には儷天皇后や養子の建福帝の陵も置かれている。
Khai Dinh Tomb - 啓定帝 (カイディン Khai Dinh) 阮福昶 Nguyen Phuc Tuan (1916 年 - 1925 年)
啓定帝陵(1920〜1931造営)は配置構成だけを述べると急勾配の大規模な段台状テラスに拝庭・碑亭・廟を配したコンパクトなものである。明命陵以来のひとつのコンプレックスにまとめられた陵は,しかし,明命陵のような大庭園は持たず、フランスのバロック様式で過剰なまでに装飾された。
特に廟である天定宮は、鉄筋コンクリートの駆体にスレートの屋根を葺き、内外の壁面や付け柱を漆喰細工あるいは陶片で造られた多彩な龍のモザイクで飾るなどして、驚くべき折衷様式を造り出している。入口の階段から見上げるそれは圧倒的でさえある。覇王嘉隆帝の実権を失った末裔がフランス趣味で造った瀟酒な陵墓、啓定帝陵。しかし、これは間違いなく今世紀で最も重要なべトナム建築のひとつであろう。
フエ写真館その2へ ベトナム"旅行記・他"トップへ戻る