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サイアム通信 第四号(プロジェクト専門家から友人への近況報告)

        アパート近くの国営タバコ工場内を毎夕、ジョギングしていることは以前にも書いたかと思います。その工場の敷地内は広くて車も少なく、バンコクの喧噪からはある程度隔絶されているため、野良犬が多く住みついています。信心深いタイ人は野良犬といえども決して厄介者扱いすることなく、毎日のように車で餌を与えに来る人の姿もよく目にします。当然のごとく僕が走っている時にも多くの犬が路上で寝そべっており、すぐ近くを通ってもほとんど反応さえ示しません。しかしその中に1匹、僕の姿を見かけると必ず吠える犬がいました。他の痩せた犬よりもふた周りくらい体の大きい、なかなか栄養状態の良い犬です。だいたいいつも工場内の同じエリアで見かけるので、おそらく縄張りでもあるのでしょう。そのエリアのボス犬といった態度のでかさで、何が気にくわないのか僕が重い体を引きずりながらそのエリアを走るときには、必ずといっていいほど吠えます。
        最初はあまり気にもとめていなかったのですが、走っているだけで毎回吠えられるうちに、その犬に対する憎しみが沸々とわき上がってきました。他の犬は吠えないのに何でその犬だけ吠えるのか、他の人には吠えないのに何で俺にだけ吠えるのか、公共の場でありながらあの態度のでかさは何なのか、と考えるうちに、「これはいつかぎゃふんと言わせてやらなければならない」と心に誓ったのはしごく当然の成り行きといえましょう。
        そんなある日曜日の朝、願ってもないチャンスがやってきました。いつもは夕方に走っていたのですが、気まぐれに朝のジョギングを楽しむことにした日のことです。そのエリアにさしかかると、あの天敵犬が道の真ん中で寝ている姿が目に入りました。そこで近くの茂みで手頃な石を2つ拾い、静かに近づいて行きました。敵はまさか朝に僕が現れるとは思っていなかったのか、起きる気配もありません。そこで至近距離まで近づき、寝ている無防備な犬に臆することなく続けざまに石を投げました。もちろん2つとも見事命中し、面食らったその犬は何が起こったのかもとっさには判断できないといった様子で逃げまどい、反撃に出ることもできずに離れた場所から負け犬の遠吠えで応戦という体たらく。このエリアの他の犬たちも一部始終を見守っていたので、ボスの面目丸つぶれといったところです。なんと気分の良かったことか、その日はこれまでで一番充実したジョギング日和となりました。
        その数日後にもう一度、石を投げるチャンスがありました。その犬が寝ていたわけではないのですが、何を血迷ったか僕の実力を侮ったのか、またしても近くで吠えたので、石を拾い追い払うつもりで適当に投げたら当たったという感じでした。実は、僕は犬に石を投げるのがとても下手なので、かなりの距離があったにもかかわらずちゃんと命中したこと自体に自分でも驚いてしまいました。マレイシアにいた頃、ジョギングルート沿いの家で犬を放し飼いにしているところが何軒かあり、甘やかされてかなりアグレッシブになっている犬がうろうろと徘徊していました。明らかにタイのおバカなグータラ犬とは質が違うので、時折恐怖に感じて石を投げたりしていたのですが、一度も当たった試しはありませんでした。
        その後、その犬は僕が走っていても近づいて吠えたりすることはなくなりました。常に距離をおいて吠えるだけで、「負け犬の遠吠え」を絵で描いたような姿に成り下がっていきました。そんな体たらくをまわりの犬たちも見てとったのでしょうか、そのエリアにおけるその犬の存在感はどんどん小さくなり、ついには見かけない日も多くなってきました。
        ところがある日、ふと気がつくとジョギングルートのすぐ脇で寝入っているその犬の姿が目にとまりました。とっさに石を拾おうかとも考えたのですが、「彼は既に"負け犬"のレッテルを貼られた落伍者だからかわいそうかな」という仏心が出て、そのまま通り過ぎることにしたのです。と、ちょうど通り過ぎようとしたその時、犬が目を覚まして吠えたてるではないですか。「石を投げるのを見逃してやった僕の親切心を仇で返しやがって」という思いから頭に血が上り、蹴っ飛ばしてやろうとくるっと振り向いたところ、左足首をグキッと捻挫してしまいました。それはそれはものすごく痛かったのですが、その犬に足を捻挫したことを悟られてはいけないと、角を曲がるまでは平常を装ってジョギングを続けたのは言うまでもありません。アパートに戻るとどんどん腫れてきて、翌朝は床に足をつくことさえできないくらい痛みました。
        幸いなことに腫れは1日程度で退き、ジョギングも1日休んだだけでまた再開したのですが、鈍い痛みは取れずに残りました。その2週間後に一時帰国となってジョギングもお休みモードに入ったため、タイへ戻るまでには治るだろうとタカをくくり、久しぶりの日本を楽しんでいました。ちょうど気候も良く、尾道へ出かけたり、寄席や芝居やコンサートに足を運んだり、もはや若くない友達と飲みに出かけたりと、それなりに充実した1年ぶりの日本でした。ところがどっこい足の痛みは全く快方へ向かわず、未だにジクジクと傷んで生活に支障を来しています。ましてやバンコクに戻ってからジョギングも始めているので、次の治すチャンスは出張中ということになりそうです。このスローリカバリーも年のせいでしょうか。
        さて、多くの方は「獣医なのに動物を虐待して良いのか」とか、「石を投げた罰が当たって足をくじいたんだろう」と思われたことでしょが、それは浅はか雪路というものです。これは動物愛護とはまた別の問題、その犬と自分との間のごく個人的な確執なのです。動物は愛すべきもの=守ってあげるべき=弱者、という考え方にはどこかついていけない部分があります。たとえは悪いですが、途上国の人間=善人とか、被害者=弱者といった図式もそれに似たところがあります。世間一般で思われがちなそういったステレオタイプのイメージは、得てして当てはまらないことも多いのではないでしょうか。
        というわけで、周りの人が「犬がイイモノで僕がワルモノ」という図式をあてはめる以前に、僕の中では「その犬=嫌なヤツ」なのです。他の多くの犬がゴロンと寝そべってジョギングをする人には何も関心を示さないのに、何故その犬だけが僕に向かって執拗に吠えたてるのか。まあ、その犬にはその犬の理由があるのでしょうが、ただ走っているだけの人間にそういうことをすれば、吠えられた方だって黙ってはいないのだということを教えなければなりません。そこで石を投げて反撃に出た、というのが僕側の理屈です。まあ幸いなことに、一時帰国から戻ってからはその犬の姿を見かけていません。メンツがつぶれてその場にいずらくなり、他のエリアにねぐらを移したのでしょう。「ザマアミロ」と言いたいところですが、足首の痛みが取れるまでは控えることにしておきましょう。

        さてお仕事はと言えば、数週間のブランクが空くとそれなりに元の状態に戻るまでには時間がかかるということを身に染みて感じています。周辺国のスタッフとのやりとりは帰国中もマメに行っていましたが、ラボで進めていた色々な仕事がいったん中断してしまったので、それを再び元に戻すのが厄介だといったところです。
        日本ではこのところ鳥インフルエンザのニュースも少なくなりましたが、援助関係ではまだまだトレンドで、ボケッとしている僕の頭の上をお金や情報や各国の思惑が飛び交っているような印象を受けます。こういった援助のあり方でいつも思うのは、「これをするためにこれだけの金額が必要だから、では日本政府が負担しましょう」という要請ベースではないということです。たいていは小泉さんあたりが外遊に出かけて「日本は鳥インフルエンザ対策でこれだけの拠出を約束します。」と言い、それを受けてお役人さんが「じゃあ、この国にはあれをあげてこの国にはこれを買ってあげて」と予算の帳尻を合わせるような援助をすることです。まあ、こんなところを数え上げたらキリがないし、愚痴になるだけなのでやめておきますが、ひとつ言えるのは、少しの予算でもそれを有効に使うということは、非常に骨の折れる作業だけれどもやりがいのある仕事には違いないということでしょうか。
        うちのプロジェクトは間もなく最終評価団を迎え、終了に向けたプロセスに入ります。鳥インフルエンザの追い風を受けてフェーズ2に移行する話が進んでいますが、今の体制を大きく変えない限りフェーズ2で満足のいく成果を上げることは難しいでしょう。何をやるにしても、やっぱりそれにかかわる人の質が問われるのだとつくづく感じています。(20065月 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記)

自宅アパートから南側の景色。中央、三角屋根の長い建物群とそのむこうの白く横長の建物一帯が国営タバコ工場。古い工場らしく、枝振りの良い大きな木が多く、野良犬の他にリスもよく見かける。タイには何故か野良猫が少ない。遠景にはサトーン通り沿いのビル群と、その向こうにはチャオプラヤ川に架かる橋も見える。

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