イポに住む・・・
マレイシア編でありながら、ここまでマレイシアの人や文化とは全く関係のない病気やコウモリのことばかりを書いてきたので、そろそろ話を本題に戻すことにしよう。
任地のイポはクアラルンプールの北約200キロにあるマレーシア第三の都市で、ペナン島から車で約一時間という距離か。岩山が林立する地形の直中にある町のため、なかなか珍しい景色の中で暮らしている。タイのパンガーと似ているのだが知っている人は少ないだろう。かなり貧弱な桂林といった感じである。
マレイシアに赴任して間もない頃、こんなニュースを耳にした。マレイシアの各州にはスルタンと呼ばれる君主がいる。イポ市のあるペラ州のスルタンは既に60代、奥方は57才である。高い地位にあるスルタンには珍しく、長いこと第二、第三の妻を娶らず、この夫人と仲むつまじく暮らしていた。ところがどっこいこのスルタン、最近になって20代の美女に心を乱され、第二の妻として宮殿へ迎い入れてしまった。そしてどこへ出かけるにもこの若い妻を伴うようになっていく。収まらないのは第一夫人、嫉妬に狂ってギャングを雇い、この若い第二夫人を殺させてしまったのである。橋から川へ突き落とし、一応不慮の事故に見せかけてはいたのだが、すぐに見破られてしまって失敗。犯人が捕まって夫人の陰謀が暴かれてしまった。その後、第一夫人がどうなったのかは定かでないが、回教の君主スルタンのまわりでも、今時テレビドラマでさえ扱わないような色恋沙汰が起こるのかと、少しこの国に親近感を覚えた。
この街は1870年に錫が発見されてからというもの、中国からの移民によってにぎわいを見せた。そのおかげでイポにはおいしいレストランが多いと言われるようになったのであろう。マレイシアではマレー、インド、中華と色々な料理が楽しめるが、日本人の口に合うのは何と言っても中華料理だ。種類が豊富で味にもメリハリがある。
庶民の食べる中華系の料理は、いわゆる普通のレストランで食べる中華料理とは少し違っている。日本料理でいうと昼に食べる丼物に近い感覚だ。そのひとつにバック・テーという鍋料理があるのだが、この味付けが日本人好みでなかなかいける。グツグツと煮えたぎっている土鍋がのふたを開けると、白い湯気とと甘い香りがたちのぼる。上に浮かんでいるのは香菜とレタスがたっぷり。軽く火が通ったレタスは歯ごたえも良くなかなかいける。醤油系クリア・スープの中を探ると、骨付き肉をメインにモツや肝臓などの臓物、椎茸、湯葉、油揚げなどなど盛り沢山。きざみ唐辛子が浮かんだ醤油にこの具をつけ、茶碗一杯の白いご飯といっしょに食べる。味付け用に丸ごとひとつ入れられたニンニクもなかなかうまい。
昼によく食べるのは、皿に盛られたご飯の上にきざんだチャーシューとポークをのせ、そこに甘酸っぱ辛いタレをかけて食べる料理だ。このタレがいい味を出していて、毎日食べても飽きがこない。僕は贅沢な大食漢なので、このチャーシュー・ポークの他にもワンタン・スープを注文する。週に一度くらいは焼きそば(これもまたうまい)と浮気をしたりもするが、毎日の昼食の基本はチャーシュー・ポークにワンタン・スープである。昼からこんなに沢山食べるのだから、当然体重の方も増加する。そのためうまい具合にもうすぐ始まるイスラム教の断食月ラマダンに挑戦しようかと考えた。協力隊員としてシリアに赴任していた頃、2年続けてラマダンに挑んだことがある。当時はラマダンが5月から6月にかけてだったために日中の時間が長く(朝4時前に夜が明けて日没は8時近くだった)かつ気温も40度を超えており、かなりしんどかったのを思い出した。
それでもせっかくイスラム国に来たのだから今回もやってみようかと思った。しかしモスレム人口が60%程度のマレイシアでは、90%を越えていたシリアとは比べものにならないほど緊張感に欠け、街全体に「やるぞ」という意気込みが感じられなかったので馬鹿馬鹿しくなってきた。それで禁酒と夕食抜きを自らに課し(逆ラマダンというところか)、いつまで続けられるか試してみたが、大した努力をすることもなくあっさりとやりとげた。空腹感で眠れないのではないかと心配したのも始めて3日まで。その後はいとも簡単に眠りにつけ、かつ食事の支度や後かたづけの時間が浮いて読書量が格段に増えた。ベルトの穴もひとつ締まり万々歳。ただしお酒だけはラマダンが明けてすぐに飲み始めた。
せっかく減り始めた体重を元に戻してはならないと、ウルグアイ、ベトナムと続けてきたジョギングを再開することにした。最初のうちは30分ぐらいの軽いジョギング。それが徐々に時間を延ばして、最近では1時間くらい走るようになってきた。コースはアパートの周りに建ち並ぶ豪華な住宅街。ほとんどの家主は中国系の人たちらしく、どの上でも犬を飼っている。イスラム教徒は犬を忌み嫌うので、マレー系の人が住んでいるとは思えない。そんな閑静な住宅街を犬に吠えられながら毎夕、日の暮れる頃に走っている。
その日灯し時は天気が崩れやすい時間帯でもある。ポツポツ来たなと思っていると、にわかに雲が渦を巻き始めて風を呼び、大粒の雨が降り始めたりする。しかしそれがなかなか気持ち良いことに気がついた。すぐに全身が濡れてしまうほどの雨なので、途中でアパートに逃げ帰っても仕方がない。むしろ熱く火照った体が冷やされて快適なのだ。汗を拭く必要もなければ、水たまりを気にする必要もない。学生の頃にユーミンのコンサートへ行ったとき、「曇り空」を歌い終わった彼女が「雨の中のジョギングもいいものよ」と言っていたのを思い出した。面倒なのは濡れた服の洗濯だけである。
さて現在僕が住んでいるアパート(プリマ・イポ・コンドミニアムという)の管理人はインド系の30代半ばくらいの女性でアマルジットという。彼女はかなりのやり手で、本来であれば不動産業者が斡旋するような空き物件を仲介したりしている。かくいう僕のユニットも彼女の口利きで借りることになったのだが、口ばかり調子良くてやることはかなりいい加減。だけどお金に関してはがめついという、よくいるタイプの人だ。
入居の折、毎月の電気代や電話代の支払いを彼女が代行してくれるというので頼んでいたら、2ヶ月目の支払い時に手数料が欲しいと言い出した。「いくら位」と聞いたら、50リンギット(1600円位)と言うではないか。100円あれば腹一杯昼飯が食べられるこの国であまりにも馬鹿げていると反論したら「じゃあ30リンギット(約1000円)」。何か面倒くさくなり、その時は2ヶ月分の60リンギットを渡してしまった。ところが後になってから無性に腹が立ってきたのである。いつものことだが反応が遅いのだ。しかも入居の時に返してもらっていなかった、色々な支払いのお釣り40リンギット(チップの代わりにあげてもいいやと思っていた)の件も思い出し、余計に怒りがこみあげてきた。そんなこんなで彼女にしつこくつきまとい、何とかその40リンギットだけは取り返してようやく溜飲を下げたのである。ちょうどそんないざこざがあった時、アパート内にある怪文書が出回った。その内容は以下の通りである。
「プリマ・イポ・コンドミニアムで泥棒や器物破損行為等が頻発している。10月22日には7−2号室に住む住人の車のフロントガラスがたたき壊されるという被害が発生した。これはアマルジットが組織するブントン・ギャングの一団によって行われた蛮行である。アマルジットは普段は天使のように振る舞っているが、実はこのコンドミニアムで犯罪を重ねているホモセクシュアルでバイセクシュアルな野郎である。」
こんな感じで怪文書は続いていく。アマルジットは確かに昔は美人だったであろうと思われる面影はあるものの、今ではかなり肉が付いてきてとても天使などと呼べるような容姿ではない。だいたい「ホモセクシュアルでバイセクシュアル」っていったいどういうこと、ってなわけで、「ああ、これを書いた人はあんまり頭が良く無いんだろうなあ」と感じられてしまう書き出しだった。しかし英語の文章自体はかなりこなれているので、ものすごい馬鹿というわけでもなさそうである。怪文書はさらに続く。
「アマルジットはコンドミニアムで行われている犯罪全てに関わっており、この先も殺人、盗難、誘拐が起こることが予想されるため、それを防ぐ対策が緊急に取られるべきである。彼女は直ちに解雇されなければならない。彼女は自分の犯した犯罪をセキュリティー・ガードのせいにして彼らを解雇し、その後任に自分のギャング団を雇っているのである。"モスクワの恐怖"が"プリマの恐怖"に取って代わる前に、住民のみなさんは直ちに彼女を追放しなければならない!」
さてこの"モスクワの恐怖"とは、あのモスクワでの劇場占拠事件のことを指す。あんな大事件をこんなアパート内の問題の引き合いに出すとは、これだけとってみてもこの怪文書を書いた人間の知性を疑わざるをえない。
「アマルジットは北部で売春婦をしていたのだが、その後、ヒラ・シン氏の妾となった。そしてアマルジットがヒラ・シン氏にエイズと脳腫瘍を感染させたため、彼はその後パンパースをはいて車いす生活を余儀なくされている。現在ではアマルジットはプリマ・イポ・コンドミニアムのダイレクターであるウー・カイ・クワン氏の妾であり、彼がパンパースをはかされるのはいつの事だろうか。住民よ、手遅れにならぬうちに目を覚ませ!! 一致団結して会合を開き、コンドミニアムを住みやすくしよう。統一は力である。みんな、直ちに行動してアマルジットを追い出そう。」
とまあこんな調子で、文章が進むにつれて筆者の頭の弱さが露呈され、右翼団体的な色合いも帯びてきた。だいたい脳腫瘍は感染症ではないし、アマルジットがエイズを感染させたというならば、何で彼女は発症しないのかという疑問も湧いてくるわけだ。最後に、「アマルジットは週末にはウー・カイ・クワン氏の相手をしなければならないが、ウィークデイは空いているので一回100ドルでやらせてくれる。電話番号はーーーである。」と続き、「次の犠牲者になるな! もしも彼女を追い出さなければ、あなたの車は壊され、子供が誘拐され、殺されるぞ。」と締め括っている。
まあ、ジョークだとしたら面白くて好きなのだが、ちょっとやりすぎでしょう。いずれにしろこの文書を書いた人間がものすごくアマルジットを憎んでいるのは事実だろうし、また彼女が恨みをかってもおかしくないようなずるい部分を持っているとも思う。この文章の内容が事実だとは到底思えないが(車のガラスがたたき壊されたのは事実)、かといって全てが嘘というわけでもなさそうだ。これまでの長い海外生活を振り返ってみてもこんな怪文書を手にしたのは始めてで、マレイシアのように穏やかに見える国でもこんな泥臭い憎しみ合いがあるんだなあと、少し驚き少しホッとした。ちなみにアマルジットはこの文書が届けられた一週間後に、事実無根だというレターをダイレクター名で各ユニットへ配った。(2003年 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記、「動物におけるニパウイルス」研究協力プロジェクト 元短期専門家)
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