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人種について考える・・・

職場は国で唯一の獣医研究所。スタッフの数が少ないのが気にかかるものの、建物は立派、機材も立派である。これまで僕が働いてきたタイ、ウルグアイ、ベトナムの研究所もここと同様の機関であったが、薬品やプラスチック類などの消耗品を買う予算の確保に四苦八苦していた。しかしここマレイシアではそれも潤沢に供給されている。さすが、石油が出る国は違うと感心する。

その研究所で働くスタッフの7割近くがマレー系だろうか。マレイシアの平均的な割合よりも多いように感じる。そして残りの2割が中国系で1割がインド系である。そしてこの職場には女性が多い。職員の7−8割はいるだろう。もちろんマレー系の女性はほとんど例外なくモスレムだ。そのため頭にはスカーフをかぶり、全身を覆い尽くす様な服を着ている。この服がどうしても寝間着にしか見えず、これほど魅力の乏しい服というのも珍しいのではないかと感心している。アラブの女性が着ているコートのように、黒やくすんだ紺色といった地味な出で立ちではない。色彩や絵柄自体は非常に派手なのだが、どれを見てもひとつとして「素敵だなあ」と目を見張ったことは全くない。

「あの服は男の目を引きつけるためのものではなく、モスレムとして身を隠すためのものであるからその目的は果たされている」と反論する人もいるだろう。しかしどうもその論理は核心をついているとは思えない。こちらに長く住んでいる日本人の奥様連中に聞くと、「彼女たちもあれですごく生地や柄には凝っているのだ」ということ。これほどその努力が報われない服というのもそうざらにあるものではない。

しかし彼女たちは非常に気さくである。僕ら男性とも何のバリアも感じさせずに普通に話をするし、冗談はもとより猥談までかなりお好きなようである。この点でアラブの女性とはかけ離れている。僕がシリアにいた頃、職場の女性であっても世間話をすること自体非常に稀であったし、友達の家に行っても家族の女性と顔を合わせることさえほとんどなかった。

その一方である意味、マレイシアのモスレムはシリアのモスレム以上に原理主義的なところがあるとも感じている。彼らは絶対に酒を飲まない。それゆえ彼らが主催するパーティーでは酒が出ない。でもカラオケは好きなので赤や黄色の液体を飲みながらマイクを握る。ベトナム人がいたら怒り出すこと必死だ。もちろん豚も食べない。食べないどころか豚を使った料理を出すレストランにさえ入らない。だから多くの中華料理店では豚肉を出さないし、酒を出さないところさえある始末だ。こうなってくるとなかなかつき合いも大変になる。酒ぬきパーティーに出ても手持ちぶさた。しかも始まるのは普通夜8時過ぎなのでなおさら気が抜ける。仕事の後にちょいと一杯何て事には絶対にならない。食事へ誘うにしてもレストラン選びに気を遣ってしまう。ここマレイシアでのアフター・ファイブはこの上なく平和である。

シリアにいた頃、職場のスタッフとの会食ではいつもビールかアラック(地酒)を飲んでいた。もちろん日本人だけでなく、シリア人の同僚もいっしょにだ。男同士が集まれば、必ずアラックがお目見えする。一度、日本人の先生が生きた豚を一匹飼ってその肉を日本人に分けたことがあったが、その先生のカウンターパートは「アッラー、アッラー」と唱えながら豚の解体を手伝っていた。

大晦日の晩、研究所の所長がスタッフを呼んでパーティーを開いた。所長の招待なのだからほとんどのスタッフが顔を見せるものだと思い、NHK衛星放送の紅白歌合戦を泣く泣く消して所長宅に駆けつけた。ところがどっこい、来ていたのはほとんどがインド系の人たちで、他には中国系が若干名、マレー系の職員は皆無であった。所長のアジーズはマレー系である。しかしアメリカ留学歴5年、その他にも常に海外を飛び回っていることから、お酒に関しては寛容な人だ。その日のパーティーでも沢山のアルコール類が用意されていた。みんなそれを知っていたのでマレー系のスタッフは来なかったのだろう。もちろんそればかりではない。研究所内の人間関係も大きく作用していたようで、所長の取り巻きはインド系の職員であるらしい。

こんな事があってからというもの、多民族国家マレイシア社会の人間関係が気になり始めた。外から眺めているときには、マハティール首相を先頭にすごくうまく機能しているように見えていた。先進国入りも間近で、大きな問題などない東南アジアの優等生国家という印象を抱いていた。実際はどうなのだろうか。同僚のスタッフの中でも特に中国系の人たちのマレー系に対する不満は大きい。マレイシアではブミプトラ(土地っ子)政策というマレー人優遇政策が政府によって進められている。マレー系を優遇するわけだから当然のごとく中国系とインド系にとっては不利に働く政策なのだ。

例えば、マレイシアの大学では人口の比率に比例して新入生を受け入れる。当然の事ながら優秀な中国系インド系学生の入学レベルは、マレー系のそれよりも高くなるわけである。つまり同レベルの学生でもマレー系ならば入学できるのに、中国系では入学できないという不公平が生じてくるのだ。しかもマレー系以外の学生は、入学後にマレー語の授業を受講することが義務づけられていたりと、二重苦、三重苦を背負わされている。

研究所の同僚を見ていても同じようなことを感じていた。マレー系のスタッフはどこか脳天気でほんわかしており、いったい何をやっているのやら把握しずらい。一方、中国系のスタッフは理論的で計画的。きちんと仕事をこなしていく。こうなると、マレー人優遇政策も結構だが、果たしてそれが本当にこの国のためになっているのかどうか疑わしくなる。だいたい研究所で、長い寝間着のような服を着てスカーフをかぶった小太りの女性たちが、その上に白衣を羽織って試験管を振っている光景は、何とも奇妙で違和感を覚える。結構、外見から入っていく僕としては、あの格好で素晴らしい研究ができそうには到底思えないのだが、まあそれは偏見以外の何ものでもないと自分に言い聞かせて仕事に励んでいる。

と、こんな事をメールにしたためアメリカ人の友達に送った。彼の名前はブルース。協力隊の訓練所で3ヶ月間、彼から英語を習ったのがつきあいの始まりだ。彼はアメリカに戻ってからしばらく大工などをしていたが、今では製薬会社のファイザーに勤めている。奥さんが日本人なので日本語を読むのが趣味だという安上がりな男。週末に喫茶店へ行き、僕からのメールを読むのを楽しみにしている。それゆえ彼宛のメールは日本語で書き、返事は英語で帰ってくる。そのブルースからこんな返事が届いた。

ヨシ、前のメールの中でラボにいるイスラムの女性研究者がどの程度の科学的な仕事をこなせるか、というようなことを書いていたよな。それを読んでいて「性質対教育(Nature versus Nurture)」という大きな問題について考えてみたんだ。どういう事が言いたいのかわかるよな。我々人間を形作っていくものは何なのかということ。遺伝子か環境か。そのことについてじっくり考えてみたい。

ここアメリカでは学校や教育システムのレベルに驚くほどのギャップがある。このことについてはこれまでにも随分と議論され、公立学校の改善のために努力がなされ、予算も使われてきた。歴史的にこの地区の子供たちには黒人が多かったんだけど、ここ20年ほどでヒスパニック系の移民が多数派になった。日系は少ないものの、他のアジア系移民も増えている。

近くに2つの大きなカジノがあって、被雇用者の健康保険制度なんかはあるものの賃金は低いんだ。だからもともとここに住んでいた地元の人たちは働きたがらなかったために、雇用の機会を求めて移民がどんどん増えてきたってわけ。大部分がヒスパニックか中国系のアジア人だ。英語もほとんど話せない。彼らに手の出る家なんかほとんどないから、複数の家族がひとつの小さなアパートに住んでいたりする。まあこんな状況はその昔、イタリア人やアイルランド人が移民してきた頃も同じだったけどね。

ちょっと話が脱線したけど、つまり言いたいのは、学校や教育システムに関わる問題が、果たしてどの程度、彼らの貧しい家庭環境やら逼迫した市の財政に負っているのかということ。確かにある程度はそうだろうし、それは改善するべきだと思う。しかしやっぱり子供の能力や性質によるところが大きいんじゃないかと思う。嫌な言い方をすれば、人間の知性や振る舞いには違いがあって、その中のある部分は人種によって決定されているんじゃないかと考えるようになってきたんだ。だから公立の学校で見受けられる問題の一部は、学校の設備の悪さや質の悪い教師とはほとんど関係がなく起こるんだと思う。つまり知性や能力の低さのせいだということさ。

行動のパターンにしても子供たちの間で大きな違いがある。これも人種による違いなのだろうか。人間の行動のある部分も遺伝子によって支配されているんじゃないかと思うよ。こんな学校の中の子供たちが将来どうなっていくのか、「性質対教育」が試されているようなものだ。だから自分には公立学校におけるある種の問題は、人間の遺伝的な部分に根ざしているように思える。そしてもしこれが真実であるとすれば、それは本当に厄介な問題で、僕らはそのことと真剣に向き合っていかなければならないだろう。

みんな同じような能力を持って生まれて来られたらいいのにと思っているはずだ。そうすれば人はより公正で公平な人生を送ることができるから。しかし人生は明らかに不公平なものだ。人間は遺伝的に、男であったり女であったり、病気がちであったり健康であったり、ゲイだったりストレイトだったり、白人だったり黒人だったり、器用だったり不器用だったり、ガッシリしていたりナヨナヨしていたり、チビだったりノッポだったり、聡明だったりのろまだったりと、色々な傾向を持って生まれてくる。つまり、遺伝的な違いが個人個人で変わるように、人種間でもそんな違いが生まれてくると考えることがすごく論理的に思えてくる。僕のことを人種差別主義の白人だと思わないでくれ(実際、白人がこの地球上で最も成功した人種だとは思わないし)。ただ単に見たままのことを書いているだけなんだ。

もしも個々人の遺伝的な差異が人種的な差異をも表すとしたら、人類は多くの感情的な問題を抱えていることになる。この問題をより複雑にしているのは環境の違いだ。だって我々は好むと好まざるとに関わらず、ある環境、例えば金持ちであるとか貧乏だとか、クリスチャンだとかモスレムだとか、メキシコ人だとかドイツ人だとかといった中に否応なしに生まれてくるのだから。

知性の違いが一番厄介な問題だ。人間は比較的知性的な動物だ。人間と他の動物たちを分けているのは知性の差だ。環境問題は置いておくとして、人間は知性を使ってこの地球を住みやすく変えてきた。遊牧する部族から文明的な生活への変化は、技術的な面で競争力を培ってきたことによると言ってもいいだろう。そしてそれは今日の社会でも真実だと思う。技術の発展は仕事をする我々自身の知性と気質に依存している。受けた教育の質は重要だが、それだけではまだ十分ではない。その学んだ知識をどう役立てていくかが大切なんだ。例えば、僕に高いレベルの音楽や数学やスポーツなどの教育を受けさせるのは無駄なことだということ。僕自身にはそんな分野の教育を消化できるだけの知性がないということを十分に承知しているから。

ある特定の子供たちにより高度な教育プログラムを受けさせるという事についてはまだまだ議論の余地があるだろう。しかし、ここアメリカでは実際にそういった教育を一部の子供たちに対して行っている。そして大多数を占める他の子供たちはには標準的なレベルのコースを受けさせているわけで、社会としてそのスタンダードを高めようと四苦八苦している。だけどそこにはもうそれ以上標準を上げても仕方がないと考えられるポイントもあるだろう。またある生徒のためにはその基準を下げる必要性も出てくるだろう。そしてもちろんそういったことを人種別に行うというのは、道徳的にも論理的にもいけないことだ。しかしこの地域の公立学校における生徒の質のばらつきは、学校に通う彼らの能力の違いによるもので、教育の質の差によって生まれたものではないように思えるんだ。

我々は社会として貧しい人たちの教育を改善するために予算を使い、すべての人が同じスタートラインに立って人生の競争を始められるように努めている。しかしこんな問題に対するクリアで円満な解決法に行き着くことはないだろう。いつの日か科学が物事を平等にしてくれるのだろうか。いや、たぶんそれはまた別の恐ろしい考えを呼び覚ますだろう。僕が人種差別主義者になったとは思わないでくれ。この問題に対するうまい解釈を探しているだけなんだから。問題を解決するための効果的な救済策はその状況を十分に理解することだろう。

とまあ、こんな内容の長いメールであった。このブルースが取り上げた問題は、僕がこれまで長いこと海外で暮らしてきて、いつも頭のどこかで考えていたことである。能力の差というものがある程度人種の違いによって決められてくるものなのかどうか。僕はずっと環境による影響の方が、遺伝的な特性よりも大きく作用するだろうと思っていた。しかしここマレイシアにやって来て同じような環境の中で暮らすマレー系、中国系、インド系の人々を観察するにつけ、もしかしたらそうでもないかもしれないと思うようにもなってきた。

また人種差別が存在するということ自体、遺伝的な要素による違いが大きいためではないかとも考えられる。僕自身、それぞれの人種に対するステレオタイプなイメージをぬぐいきることはできず、それが差別的な人の見方へとつながっていくのだろう。簡単に答えの出る問題ではない。これからもずっと折に触れて考えさせられる問題だ。 (2003 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記、「動物におけるニパウイルス」研究協力プロジェクト 元短期専門家)

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