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ビクトリア通信 第三号
7 月から 8 月にかけての小乾期がはっきりしないままに雨期に突入し、ウガンダの特に北半分では洪水の被害が続いています。カンパラは丘の上に広がる町なので水が出る地区は決まっていますが、それでも雨の降る日の渋滞はひどいもので、フロントグラスに広がる自動車同士のせめぎ合いを眺めていると、何とも落ち着かない気分になります。ベトナムの交通事情もひどいものでしたが、ここではまた違った意味でそのひどさが際立っているような気がします。つまり道路そのもののひどさであったり、ドライバーのマナーの悪さであったりということですが、それは生活をしている中のあらゆる事に通じています。つまらないことに手間がかかり、時間がかかり、金をせがまれ、車に乗っているだけで体が汚れ、あらゆるドアに鍵をかけねばならず、 3 回使っただけの電気炊飯器が壊れ、看板屋は小学生程度の文字しか書けず、しかもスペルを間違え、壁を塗り替えれば床が汚れ、床を塗り替えれば机や椅子にペンキをなすりつけ、サインボードを作らせれば接着剤で汚してしまい、ドアに取り付けさせれば真ん中からずれて水平でもなくと、アフリカで暮らすということはこういうことなんだと実感しているところです。
ビクトリア通信第二号を書いたのはもう 4 ヶ月以上も前でしたでしょうか。この 4 ヶ月間にも色々なことがありました。プロジェクトの活動計画を作成し、運営委員会で承認を受け、ようやくプロジェクト自体が動き始めました。地方にある5カ所の獣医事務所もプロジェクトのサブサイトとして含めることになり、そこでの活動を協力隊員に託そうと、短期派遣隊員を募集しました。ターゲットは院生だったのですが、獣医の院生は皆、博士課程の学生であり、自分の研究を投げ出してとても 2 ヶ月間など来られないのではないかと、つまり応募者がいないのではないかと心配し、あちこちの知り合いにお願いをして興味のありそうな学生を募りました。結果的には、自分があたふたしてお願いをした近辺からの応募者はゼロで、プロジェクトの支援団体である日大が 3 人送り出してくれました。うれしい誤算であったのは、何の前知識もなくネット上の公募を見て応募してくれた方がひとりいたことで、これで募集をしていた 4 人全員がちょうど揃い、めでたしめでたしということになったわけです。
さて、協力隊員の派遣が決まったら決まったでその受入準備をしなくてはなりません。長期派遣であればそれなりに抛っておくことも可能ですが、短期だとそういうわけにはいきません。活動内容に合わせて機材や消耗品、試薬類を買いそろえなくてはならず、リストアップしたアイテムは 100 近くになりました。どこの事務所に何があるのかを調べ上げ、それらの物品類はどこで購入できるのかを探し出し、ないものについては発注する、といった作業を繰り返し、この 2 ヶ月間にひとつひとつ買いそろえていきました。彼らの派遣日が決まってからというものは、毎日何かに追われているというような切羽詰まった状態で、既に到着した今でも気分的にはテンパって余裕のない生活から抜け切れていません。
というわけで短期隊員 4 人が 10 月 2 日に到着しました。3 人は日大の大学院 1、2 年生です。横浜出身でお坊ちゃん風な平野君、しっかりした姉御肌の中田さん、それに野生児タイプのくせに酒が飲めない松波君です。平野君と松波君は大学から同級だったそうですが、中田さんは一度就職した後でもう一度大学院に入り直したとのこと、どうりでボーイズよりはしっかりしているわけです。ちなみに松波君のお姉さんと中田さんは高校の同級生だったと聞きました。つまりこの二人は同郷で、名古屋出身です。
もうひとりは北海道や久米島で大動物臨床をしていたベテランの臨床獣医師、小林さんです。何でも現在は宮崎大の大学院博士課程に席を置きながら臨床のアルバイトをしているという、かなり自由自在な人です。学生の頃にザンビア大学に留学し、その後も協力隊の短期でザンビアへ、そして JIRCAS の特別研究員としてシリアにも行ってたことがあるらしく、シリア隊員であった自分はそれを聞いただけで親近感を覚えました。
最初の1週間はカンパラで挨拶回り、仕事の打ち合わせ、携行する機材・薬品類の仕分け、歓送迎会などをこなし、その翌週にはにそれぞれの任地へ赴任していきました。松波君と小林さんは自分が任地まで送迎をしました。松波君の赴任したキボガではゲストハウスを宿舎として提供していただき、当日は県知事が待ちかまえているほどの歓迎。と思いきや、単に翌日が独立記念日であったために、その式典の打ち合わせにたまたま居合わせただけだったのですが、それでも我々と 30 分くらいは色々と話をされ、松波君は心なしか緊張していたみたいです。小林さんの任地キルフラでは獣医センターの改修工事がちょうど終わり、屋根は新しいトタンになり、電気が使えるようになり、水も蛇口から出るようになっていました。しかしソーラーパネルからバッテリーとインバーターを通って供給される電気の電圧が高いようで、まだ冷蔵庫や顕微鏡を使うのは恐いようです。まあ、アフリカですんなり事が運ぶわけもなく、物事が時計のようにカチカチとスムーズに進むようになるまでにはもうしばらく時間がかかることでしょう。隊員の活動の様子については、ホームページに写真入りで紹介しています。是非ご覧下さい。
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9 月、キルフラへ向かう途中の道沿いでシマウマを見かけた。全部で 10 頭くらいいただろうか。最初、助手席でポカンとしていたらドライバーに「アレアレ」と言われて目を向けたとき、あまりにも近くにいたため「でかいケツだなあ、変な牛もいたもんだ」と、シマウマであることすらわからなかった。乾季になるとよく水を飲みに来るらしい。実はこの 11 月にもサンプリング中に牧場で 3 頭を目にする機会があった。そういえばここらあたりはレーク・ムブロ・ナショナル・パークに近いのだ。 |
キボガの牧場のスタッフ。みんなというわけではないが、ウガンダにはこういう体つきの人が多い。肉を食べるほど裕福なはずがないので、豆やマトケ (バナナ) を食べているのだろう。ジムへ通っているわけもなく、やっぱり我々とは遺伝子が違うのだ。 |
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長々と協力隊短期派遣について書きましたのでここらで少しウガンダについてしたためることにしましょう。こちらに来てから半年が過ぎ、ウガンダやウガンダ人の悪い部分が鼻についてくる時期ですので、今回は悪口を存分に書くことにします。
14 年ほど前に博士論文のための疾病調査を実施するため、2 ヶ月間ほどウガンダに滞在したことは前の通信で書きました。その時に受けたウガンダ人の印象は「なかなか優秀で頭がいい」というものでしたが、実際に暮らして仕事をするようになり、どうもそうではないらしいという感覚が現実味を帯びてきました。またその時「ここに住み始めたらきっと金銭的にたかられるだろうな」という思いを漠然と持ったのですが、それは全く正しい予測でありました。
ウガンダで働き始めてすぐに感じたのは「ウガンダ人はマネジメント能力に欠けている」ということでした。口を開けば大きなことを言い、最もらしい理想主義的なことを訥々と語るのですが、しかしそれはあまりにも現実離れしていて、どうあがいても実現などしそうもない、夢の中の物語でしかありません。それで「いったいどうやってそんなことを実現するんだ」と聞くと、「ドナーが見つかればすぐにできる」という返事が返ってきます。しかし運良くそのドナーが見つかったところで、その予算を運用して思い描いたとおりの状況を実現させることが彼らに出来るかといえば、ほぼ 100% その予算はどこか目に見えないところに雲散霧消してしまうことでしょう。おそらく多くはワークショップやらセミナーなどの開催費、日当・宿泊費などの手当としてです。そして残った予算で機材やら消耗品を買ったとしても、買っただけで目的は達成され、ほとんど使われることもないまま朽ちていくか、倉庫に詰め込んで放置するか、もしくは何かが欠けていて使用できないとか、といった状況になることでしょう。
この国の大きな企業や商店の経営者は、だいたいがインド人です。つまりインド人によって経済が握られているということです。インド人が経営している店に行くと、きちんと客の要望に耳を傾け、こちらが欲している商品に近いものを出してきます。ところがウガンダ人が経営する店では、客の言うこともろくに聞かず、つまらない商品を出してきて、買え買えとしつこく迫られます。客あしらいもひどいもので、サービスなどあったものではありません。こういう現実をウガンダ人自身はどう思っているのでしょうか。
うちの職場はウガンダにおける家畜疾病を診断する検査機関です。農業畜産水産省に属し、一応この国では最も信頼される、もしくは信頼されるべき機関です。それゆえこれまでにも多くのドナーによる協力プロジェクトが進行し、それなりに機材は揃っています。しかしながらその多くは使用に耐える状況にありません。度重なる停電や不安定な電圧により、冷蔵庫や冷凍庫はすぐに壊れます。そして壊れる度にまたもう一台とドナーの金を使って買い足されていきます。細胞培養もしていないのに、高価な倒立顕微鏡が 5 台もありますが、未だに一度も使われたことがなく、朽ち果てるままになっています。10 年も前にウガンダ側のたっての希望で導入されたものすごく高価なガスクロマトグラフィーはモニターに欠陥があるらしく、これまた一度も使われたことがありません。インキュベーターも掃いて捨てるほどありますが、その多くは壊れているか冷蔵庫として使われているかのどちらかで、その本来の目的に使用されていません。遠心器も数多くあり、3 台くらい置いてある部屋もあります。何故同じようなものを何台も買うのか、それならば数を減らしてそのうちの一台を冷却装置付のものにしよう、と、普通であれば考えるところでしょうが、彼らの頭の中にはそういった疑問は浮かばないようです。大型の高速冷却遠心器も 2 台ありますが、どちらも三相電源を必要とするためここ 10 年も使われずに放置されたままでした。今回、僕が赴任してから使えるように電源を引きましたが、中はホコリだらけでひとつは既に冷却装置が故障しています。スイング・ローター用のバスケットはどこへいったのやら、まだ見つかっていません。使用説明書も保管されていません。ヨーロッパのドナーによって供与された一台数百万円もする遠心器であろうが、こちらのスタッフにとってはただの大きな重い箱に過ぎないようです。いくらドナーが高額な機材を供与したところで、受益国側にそれを使う意志がなく、維持管理費さえ捻出できなければ、全くの無駄に終わるという良い例でしょう。
高額で使い勝手の悪い機材は多くあるのですが、ラボにとって必要不可欠な少額機材、例えばマイクロピペットやピペットエイド、ボルテックス・ミキサー、スターラーなどはほとんどありません。試薬ビンやコニカル・チューブなどの汎用消耗品類もなし。薬品類も揃っておらず、仕事をしていないのがはっきりとわかります。また仕事をしていないからこそ、具体的に何が必要なのかもわからないのでしょう。つまり口では大きなことを言ってはいても、何が必要なのかをリストアップすらできないのです。うちの職場では倉庫に数多くの薬品類、ガラス器具類、消耗品類を抱えています。それなのに誰ひとりとして何が倉庫の中にあるのかを把握していません。この 5 年間、誰も倉庫の中のものを使いやすいように整理しようともせず、物品リストを作ろうともしていません。
自分が赴任した折、第二診断棟の内部はひどいものでした。ゴミが散乱し、古い物品が山のように積み上げられ、ネズミが走り回っていました。スタッフがその気になれば片付けることはそう難しいことではなかったはずなのに、誰もそんなことをしようとはしません。結局、外部の業者に頼んですべて片付け、各部屋の修繕をしました。そしてその中のひと部屋を物品庫にすることにし、いざ倉庫の中の消耗品、薬品類を運び込もうとした矢先、天井の一部が落ちました。読んでいる方々にとっては冗談みたいな話ですが、実際にその場に居合わせた自分にとっては全身の力が抜けるような思いでした。先日、リノベーションが終わってきれいになった実験室のひとつに入ったところ、牧草の種子がキツキツに詰まったでかい汚いズタ袋が山のように積み上げられていました。実験室の中にです。スタッフに聞くと、倉庫の鍵が壊れたので、一時的にここに移したのだということ。他にもいくつか倉庫はあるのになんでまたよりによって実験室内にこんなものを運び込むのか、全くその頭の構造を疑いたくなります。所長に文句を言ったのは当然のことですが、ここのスタッフは何をするのか全く予想がつかず、目を離すことが出来ません。
先にも少し書きましたが、何をするにしても手当を要求されます。農業省で農業省のスタッフを集めてミーティングをしても、シッティング・フィーなる手当を要求されると言います。ひどい人になると 1 時間遅れて会議に参加し、10 分ほど我慢しておとなしく聞き入るふりをし、出席者リストに名前を書いて出て行ってしまうそうです。リストに名前を書くのはもちろん後で手当をもらうためです。農業省が規定する日当・宿泊の金額は、JICA のそれよりも高額です。現在、短期隊員が実施している疾病調査でも手当てを支給していますが、「フランスのグループはもっとくれた」何ていうことを平気で言ってきます。また腹の立つことに、何かをする際、最初は賛成して非常に協力的な姿勢を見せておきながら、いざ始める段階になって「手当が欲しい」とか、「あれも欲しい」などと言い出すので、余計にガックリするわけです。
まあ、このような悪習は長年のドナーによる甘やかしによって生まれたもののようです。会議やセミナーに人を集めたいから手当を出す、サンプルを集めたいからより高額な手当を出す、というドナー活動の繰り返しだったのでしょう。それなりに地位も収入もある人たちが要求するわけですから、非常に不快な習慣と言わざるを得ません。どうしたところでここの国の人たちにとっては、仕事に対する責任感や興味、ひいては国を良くしていこうという志よりも、個人の利益の方が勝っているとしか思えません。この国の電化率は 5 % 以下です。14 年前に僕が来た時とさほど変わっていません。水道にしてもしかりで、この 14 年間、ほとんど整備されてこなかったのかもしれません。戦後、10 年ほどでほとんどの家庭が水と電気を享受できるようになった日本と、何がそんなに違うのでしょうか。この国、ひいてはアフリカが発展しないのは、ドナーのせいばかりではないはずです。
しかし「手当、手当」と要求しても、ウガンダ人は根本のところで非常に親切であり、かつ温厚な人たちです。喧嘩は好まず、挨拶もよくします。気候の良い国で緑が豊富にあり、食べることには困らないのでしょう。つまり生活のリズムが僕らとは全く違うのです。そのようなリズムにあわせて仕事ものんびりしたいのでしょうが、一方ではウガンダを取り巻く潮流に巻き込まれて業務が増えてくる。そして否応のない情報過多の中、やっぱり贅沢品を買うお金も欲しい、というひずみがあるのでしょう。どちらが彼らにとって良いのかわかりませんが、そのどちらも一度に手に入れることが難しいのは明らかです。その狭間でもがいているのが今のウガンダ人かもしれません。(2007 年 11 月 15 日 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記) |
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