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ビクトリア通信 最終号

      ウガンダでの勤務を終えて 4 月 23 日に帰国しました。というわけで既に日本にいてこれを書いているわけですが、 2 年に渡るウガンダ生活の最後の最後を入院生活で締めくくるという何ともふがいのない結末になってしまいました。
      正直な話、赴任当初からウガンダとは何か肌が合わないところがあると感じていました。別の言い方をすれば好きになれないといったような感覚でしょうか。短期も含めこれまでに数多くの国へ赴任しましたが、どこの国でもそんな気持ちを持ったことはありませんでした。それは生活をする上で不便だとか、物がないだとかそういった物質的な理由によるのではなく、人に対する不満から芽生えた感情であったと思います。例えば、アパートの部屋を掃除する女性が挨拶をしないとか、つまらない物を盗むとか、店のサービスがひどすぎるとか、金を払っているのにウソばかりついて一向に何もしないとか、仕事関係でも、口先ばかり達者でするべきことは何もしないとか、やたらと手当ばかりを要求するとか、、、。毎日毎日こういったことの連続で、いったいこの国の人はどんな人間性をしているのだろうか、と疑問ばかり膨らんでいきました。それでもウガンダ人は根本のところは非常に優しく温厚であるということはわかっていたのですが、しかしそれはごくたまに感じる一面であり、いざ、損得の関わる物事になると、ほとんど良い印象はありませんでした。
      そんな状態で生活し、仕事もしていたわけですから、ストレスがたまらないはずはありません。そして最後の最後にになって、帰国前に自分の私物を片付ける時間さえ与えられず、1 週間の入院生活を余儀なくされるというエンディングを迎えたわけですから、やはり自分はウガンダと相当相性が悪いのだろうと考えざるを得ませんでした。以下にウガンダから帰国時の顛末をしたためることにします。


      ウガンダでは4 月 8日金曜から 12 日月曜にかけての 4 日間はイースター休暇の連休でした。自分にとっては帰国前で最後のまとまった休みとなり、当然のごとくまだ終わっていない仕事関係の雑事、つまり報告書書きやデータの整理などを済ませてしまおうと考えていました。しかし悪い時には悪いことが重なるもので、かねてから調子の悪かった自宅のデスクトップ・コンピューターが立ちあがらなくなりました。これが使えないと報告書書きもできないわけです。原因は内蔵電池にあることはわかっていました。しかし電池はほんの1ヶ月前に取り替えたばかりだったにもかかわらず、再び立ちあがらなくなったわけですから、つないでいるUPS (Unlimited Power Supply) のバッテリーが死んでいるために漏電をしているような感じでした。それで日本から持って来ていただいた電池に交換して何とかまた起ち上がるようになり、ようやく報告書を書き進めることができるようになりました。万事がこんな調子ですから物事は遅々として進まず、実際、根を詰めてプロジェクトの進捗状況報告書や業務完了報告書などをせっせと書いていたのですが、あっという間に連休最終日の月曜になってしまいました。その暇を縫って部屋を片付けるつもりでいたのですが、それは甘い考えであり、そこまでは全く手がまわらず仕舞いでした。
      この日の晩、二人の短期隊員から食事に誘われていました。二人とも昨年10月までは長期隊員としてウガンダで活動をしていた出戻り組であり、その頃筆者とよく食事をしたり、仕事上でもからむことがあったため、「お世話になったお礼に」ということで招待してくれたわけですから、行かないわけにはいきません。食事もおいしく、会話も弾み、なかなか楽しい時間を過ごし、加えてその二人は女性隊員の中でもかなり酒豪と言われる強者であったため、当然ビールの量も増えました。つまりかなり酔った状態で帰宅し、そのままベッドに倒れ込んだわけです。
      翌朝、目が覚めると頭がボーッとして頭痛がしたのですが、きっと二日酔いだろうと思い込み、出かける支度を始めました。その日はシニアボランティアーの近藤さんおよび他の専門家二人とキルフラへ出張に出かけることになっており、そのための準備をしておかなければなりませんでした。また、近藤さんに譲ることになっていた大きな机をエンテベの近藤宅まで運ぶため、頼んでいたドライバーが 8 時頃部屋にやって来ました。その彼にGood Morningと言った時に舌がもつれ、何かおかしいなあと気がついたのが始まりでした。一緒に机を下の駐車場まで運び筆者が乗ることになっていた他の専門家がまだ到着していなかったので、そのドライバーに頼んで自分は部屋へ戻りました。しかしその時も舌がもつれてうまく話せませんでした。おかしいなとは思いましたが、まだこの時も二日酔いのせいだろうと高をくくっていたわけです。
      部屋に戻り出張の準備を始めてみると、何とカメラが一式なくなっていました。昨年10月に一時帰国した折に買ったばかりのキャノンのデジカメ一眼レフです。しかも同じ場所にしまっておいたレンズも3本なくなっていました。アパート中、どこを探しても見つからず、職場に持って行ったのだろうかと自分でも確信が持てなくなってきました。幸いこれから近藤さんを迎えにエンテベへ行くので、ついでに職場に行って確かめることにしました。
      8 時に駐車場へ降りていくと、出張へ行くメンバーが揃っていました。車 2 台で行くことにしていたので、筆者と近藤さんの 2 人で 1 台を使い、他の 2 人の専門家は別行動で走り、現地で待ち合わせることにして、いざ出発。まず事務連絡をするためにJICA 事務所へ行きました。
      この時、作業室で隊員2人から「おはようございます」と言われたのに、挨拶をかえすことができませんでした。また、協力隊調整員の方や、企画調査員の方と話をしたものの、言葉がしどろもどろになっていることが自分でもよくわかり、「いやあ二日酔いで、、、」とごまかしましたが、冷や汗ものでした。
      次にエンテベへ向かい、近藤さんの家へ向かいました。町を過ぎたところを左に折れるのですが、その左折する道を見逃してしまいます。それにはすぐに気がつき、ドライバーに言って戻ってもらったのですが、左折する場所はもうすぐだなあとわかっていたにもかかわらず通り過ぎてしまったので、それは見逃すというよりも見えなかったのです。この時に何か目もおかしくなっているなあと感じ始めました。また近藤さんの家についた時、助手席に座っていた自分がドアを開けようとしたのですが、ドアを開けるレバーがどこにあるのだかわからず、もたもたしていたら、ドライバーが手を伸ばして開けてくれました。この時に左目が見えていないとはっきり感じたわけです。机を下ろし、近藤さんを乗せてから、カメラをチェックするためにまず職場であるラボへ行ったのですが、やっぱりカメラはありませんでした。カメラについては一旦あきらめることにし、その日、行く予定にしていたムピジ県獣医事務所へと向かいました。ムピジへはカンパラへ向かう幹線道路の途中、キスビという町で左折をするのですが、ドライバーには自分が道を知っているからと伝えていたにもかかわらず、またしても道を見逃してしまい、かなりカンパラに近いところまで行ってしまいました。これで目が見えていないことを確信した次第です。
      ムピジでは若い獣医のカバンダとムソケが待っていてくれ、近藤さんとの今後の連携活動について色々と話をしました。この時はゆっくりと気をつけて話をしていたので、特に舌がもつれるような感覚はありませんでしたが、それでもやはりいつも通りスラスラと言葉が出てくるという感じではありませんでした。兎にも角にもムピジでの用事を終えた我々は次の目的地である、キルフラへ向かうことにしました。いつも通り、マサカ道路を走り、マサカの町中でガソリンスタンドに入った時のことです。近藤さんが地図を広げ、これから行くキルフラ県カゾの場所を自分に尋ねてきました。それで一緒に地図の上で道路を追っていったのですが、目がチカチカして細かい部分を全く追えず、結局わからず仕舞いでした。またその時近藤さんと話をしていて再び舌がもつれ、しどろもどろになってしまい、それを聞いて驚いた近藤さんが、JICA事務所に連絡を入れ、事態が大きく展開していくことになりました。近藤さんは二日酔いでこんな風になるわけがないと思われ、もしも脳に問題があったら出張なんかに行っている場合ではないと考えられたようです。この時、僕自身はキルフラのスタッフのひとりに渡す約束をしていたものがありどうしても行きたかったので、「とにかくこれからキルフラへ向かい、そして今日中にカンパラへ戻りましょう」と主張したのですが、近藤さんの携帯に事務所から連絡が入り、「すぐにカンパラへ戻り病院へ行くようにという指示が出ました。


アパートのベランダからの眺め (夜明け前)

      カンパラに戻った我々は The Surgery という病院へ行きました。カンパラには外国人が安心して行けるような設備の整った病院は全くなく、この The Surgery も個人病院に毛の生えたような小さなクリニックです。ここで診てくれたにはウガンダ人のドクターだったのですが、血液を採り、血圧を測り、あとは視野や肉体的な機能検査をしただけで、何の薬も処方されず、帰宅することになりました。どう考えても脳の異常を示唆する症状が出ていたにもかかわらず、他の検査について何の指示もありませんでした。しかしJICA本部健康管理センターの顧問医からの指示で、翌朝には MRI による脳の画像診断をすることになりました。
      その日、アパートに戻って驚いたのは、なくなっていたものがカメラだけではなかったということです。日本から持って来たLEDの懐中電灯や、グラス類、小さな物では箸の片方、冷蔵庫の中のヨーグルト、等々、気がついた物だけでも結構な数になりました。カメラについは目が見えずに間違えたのかもしれないと思い、もう一度調べましたがやっぱりありませんでした。どう考えても一番疑わしいのは掃除に来ているアパートのスタッフ,

オリビアだったので、なくなった物をリスト・アップしそれに「物を盗むな」と書き添え、冷蔵庫のドアに貼っておきました。
      翌朝、事務所スタッフの藤家さんが来て下さり、MRI を撮るにしても紹介状が必要なため、一緒に再び The Surgery へと向かいました。この日、対応して下さったのはイギリス人の女医さんDr. グリーニーで、彼女の説明によればカンパラで MRI を撮っても解像度が悪すぎて診断には使えないから CT を撮った方がいいと勧められ、先生の意見に従って、そうすることにしました。なかなか優秀な先生で、まず、説明が理にかなっており、かつ非常にわかりやすいのです。この日、先生は午後 1 時まで勤務されているとのことだったので、紹介状を書いて頂きすぐに近くのカンパラ病院へ向かいました。この病院も小さな病院なのですが、検査機器だけは揃っており、 CTMRI があります。CT の技師は何と JICA の集団研修で日本へ行ったことがあるらしく、まさかこういう形で JICA の本邦研修が役に立つとは思ってもみませんでした。CT スキャンの置いてある部屋はとてつもなく冷房が効いており、寒くてブルブル震えながらの検査となりました。造影剤を注射することになったのですが、それがまた左手の甲の血管から入れたため、寒くて収縮していたのかとにかく痛くて大変でした。
      まあ、CT を無事に撮り終え、一旦アパートへ戻り、昼過ぎに結果を受け取りに出かけ、その足でDr. グリーニーの診察を受けに再び The Surgery へ行きました。先生は画像とナイロビ病院の医師のコメントを読み、状況を説明してくれました。「右脳に2ヶ所、左脳に1ヶ所の脳梗塞像が認められ、その部位の血流量が低下しているために左目の視野が狭窄し、言語障害が起きた。しかし出血は認められない」、ということでした。その脳梗塞を起こした原因物が血栓なのか、動脈硬化からのコレステロールなのかはわからないものの、それでも病因がはっきりして、少しほっとしました。しかしまだ再発の可能性は残っているため、降圧剤と抗コレステロール剤、それに血液をサラサラにする効果があるというアスピリンを処方して頂き、病院を後にしました。その日の午後は近藤さんと診断関係の薬品類や消耗品類を買いに出かけ、早めにアパートへ戻り、夜はネリカ米の専門家坪井さん宅で夕飯をご馳走になりました。
      この時点における本部の考えは、誰かを自分に付き添わせて、予定通り土曜の便で帰国させるというものでした。ところがCTの画像を本部へ送ったところ以下のような顧問医のコメントが翌日、届きました。


専門家    ウガンダ国派遣   柏崎 佳人 様
疾病に係るコメント
      送付していただいた頭部CT画像を拝見いたしましたが、右前頭葉/頭頂葉の境界部に径 1 cm 前後の低吸収域 1 ヶ所。及び右頭頂葉/後頭葉の境界部にも径 1 cm 前後の低吸収域 1 ヶ所を認め、いずれも脳梗塞が疑われます。頭部 MRI で診断を確認するとともに、脳梗塞の進展予防のため、抗血小板薬の内服、血圧コントロールのための降圧薬内服などが必要です。また脳梗塞発症後 1 週間程度は再梗塞の危険も高いため、病状急変時に対応可能な病院に入院した上で、経過観察をする必要があります。以上より、病気療養のためナイロビへの緊急移送が必要と判断いたします。本邦への帰国に関しては、内服薬の効果を確認し、病状が安定した段階で可能となります。健康管理センター 医師 土屋 昌史

      昨晩、坪井宅での夕食の後、部屋に戻って台所の片付けをしていた時、なくなっていた箸の片方やヨーグルト、グラス類などが、元あった場所に戻っていることに気がつきました。確かに昨日は何度探しても見あたらなかったのですが、、、。
      翌日、木曜日の朝、それでもアパートで私物がなくなっているいることをアパートのマネジャーに伝えに行きました。マネジャーはうちの部屋の掃除係である、オリビアを呼び、この件について問いただしました。すると彼女はすべて元の場所にあると言い張るのです。それでいっしょに部屋へ戻り、調べてみると、確かにカメラやレンズ類も戻っていました。カメラの前には彼女が書いたメッセージが立てかけてあり、それに隠れてカメラ自体は見えないようになっていたので、昨晩はきがつきませんでしたが、それでもとにかくそこにありました。しかもオリビアは昨日、アパートのスタッフをここへ連れて来て、筆者がないと言い張っている物がすべて揃っていることを確認させているのです。特にカメラなどは大きい物ですし、いくら左目の視野が狭窄していたとはいえ、全く視界から消えるというのはどう考えてもあり得ない話です。これは彼女が一旦持ち去った物を、咎められてあわてて戻したとしか思えず、アパートのスタッフには「オリビアがどう言おうと僕自身はそのように考える」とだけ伝え、それ以上は事を大げさにはしませんでした。自分がウガンダとは相性が悪いと感じるのはまさにこのようなことが本当に悪いタイミングで起こるからです。どうして、脳硬塞を煩ってナイロビへ緊急輸送されそうな時に、こんなゴタゴタに振りまわされなければいけないのか、この2年間、とうとう最後の最後まで本当に気が滅入ることの連続でした。
      その日、もう一度 The Surgery へ行き Dr. グリーニーの診察を受けました。血圧も若干下がり、症状も落ち着いてきているとのことでした。先生も「ナイロビにある設備の整った病院へ移送する」という JICA の判断には賛成するという意見でした。ということで、ナイロビ行きが現実味を帯びてきたのはこの16日の朝でした。藤家さんによればそれがいつになるかはまあだわからないとのことでした。早ければその日のうちにも移送になるだろうと言われ、びっくりしました。何の準備もしていなかったためです。仕事でも私事でもやらなければいけないことがわんさか残っていました。とにかくアパートへ戻って荷造りをしておいて下さいと言われたのですが、アパートに戻ってもとてもそんな気にはなれません。
      その後、ケニアのビザを取るために身分証明書用の写真が必要になるかもしれないからと、藤家さんに連れられて写真を撮りに出かけ、アパートへ戻った後は、「部屋で荷造りをすることになっていました。もう昼過ぎでしたので昼食を食べ、少し腹がふくれて元気になると、どうしても気がかりであった、デスクトップコンピューターをどうにかして起ち上げたいという気持ちが強くなり、電池を買いに外出してしまいました。車で行くわけにはいかないので、歩いて行ったのですが、町の中心に近いところだったので30分近くかかったかと思います。幸いにも電池が置いてある店は見つかったのですが、電池自体は少し離れた支店の方に置いてあるから取って来る間待ってくれとのことだったので、店のカウンターに座って待っていました。すると携帯が鳴り、通話ボタンを押して話を聞いてみると、救急車がアパートに向かっていて、あと10 分ほどで到着する、と言うのです。そんなことを言われてもそこから家に戻るだけで 30 分はかかるるのだからとても間に合いません。相手には「今、外出中だから無理だ」と伝えたものの、相手は「患者はどこにいるんだと聞きます」、それに「自分が患者だ」と答えると相手は黙ってしまいました。「とにかく事務所に連絡をしてくれと伝え」僕は電話を切りました。それから10分ほどしてまた同じような電話があり、次に藤家さんから「これからすぐにナイロビへ行くことに決まったという知らせの電話が入りました。そこで「恐る恐る外出中です」と伝えると、「すぐに迎えに行きます」とのこと。電池を受け取ってから近くのガソリンスタンドでひろってもらい、アパートへ戻りました。もちろんのこともうこの状況でコンピューターなどをいじくっている暇はありませんでした。
      ここからは本当にめまぐるしくまわりの状況が変化していきました。とにかくスーツケースに服などを放り込み、残りの荷物についてどうするのか藤家さんと坪井さんの奥様に伝え、私用車を UNDP の青尾さんに渡し、そうこうしているうちに本当に救急車が到着しました。自分は文字通り着の身着のままという状態で救急車に乗り込み、3 人に見送られて2年間住み慣れたアパートを後にしました。
      エンテベまでは救急車のベッドに横たわり、サイレンの音を聞きながら、ベッドから揺り落とされないようにベッド脇の手すりをしっかりと握りつつ、通い慣れたエンテベ・ロードのどのあたりを今走っているのだろうかと思いを巡らせていました。救急車は外から内部が見えぬよう、ガラスの下7割程度が曇りガラスになっており、横たわっていると外の様子が何も見えません。実際に目で見えていなくても、空港までの景色は次から次へと頭に浮かんできました。差し込んでくる日差しは厳しく、こんな天気のいい日にこんな形でウガンダを去ることになるとは、長く生きていると人生には本当に色々なことがあるんだなあと、感慨深い空港までの道のりでした。空港に到着すると車は2階の出発ロビーへ行き、そこで駐車。ここは一般の車だと駐車禁止であり、すぐに動かさないと罰金を取られます。ドライバーは、チャーター機が到着しているかどうか確かめてくると言い残し、ドアを大きく開けたまま空港内へ入って行ってしまいました。それから待つこと30分以上、ようやく戻ってきたドライバーは出国カードを持って来ました。それに記入してパスポートとともに渡すと、再び中へ。次に戻って来ると、今度は荷物を持ってチェックをしに行ってくれました。というわけで1時間くらいは待たされましたが、僕自身はずっと横になったまま、すべての手続きが済み、今までで一番楽な出国となりました。そしてそのまま救急車は空港内に入り、チャーター機である小型ジェット機に横付けされ、そこで初めて自分は車を降り機内に乗り込みました。操縦士と副操縦士は白人、他に医者と看護師も搭乗しています。二人ともアフリカ人の女性です。この JICA の緊急医療サービスを説明しておくと、JICA は三井系の会社と契約をしており、その日本の会社はフランスにあるSOS International 社に委託しています。今回はその SOS 社が南アフリカの会社に依頼してチャーター機を飛ばせたそうなので、この飛行機は南アから来たとのことでした。飛行機内では横になることもできたのですが、僕は最後にウガンダの景色を見たかったので椅子に座りました。すぐに血圧を測られ、指には脈拍計を装着されました。飛行機は10人も乗ればいっぱいになってしまうほどの小型機であり、離陸はまるでラジコン機にでも乗っているような感じでした。滑走路からは2年間働いたラボの管理棟、第一診断棟、第二診断棟が見えました。飛行機はビクトリア湖上をしばらく飛行し、1時間弱でナイロビ空港に降り立ちました。
      ナイロビ空港でも救急車が空港内に待ち受けており、すぐに乗り換え、ここでもすべての手続きを空港の係官にやっていただきました。エンテベでは1時間近くかかりましたが、ナイロビでは10分ほどで終わり、やっぱりウガンダよりはケニアの方が公共のシステムやサービスが整っているのだろうかと感じました。空港からナイロビ病院までの道は夕方の時間帯だったこともあるのか、結構渋滞しており、その点はカンパラと同じだなあという印象でした。病院ではケニア JICA 事務所の健康管理員である名嶋さんが待ち受けてくれており、すぐに入院前の検査と問診を受け、一段落してから病室に移りました。この間、驚いたことにちょうどケニア出張でナイロビにいらしたウガンダ JICA 事務所長の関さんが様子を見に来て下さりました。病室はわがままを言ってバストイレ付きの個室にしていただいたので、6日間の入院生活を快適に過ごすことができました。
      入院中は最初の2日間こそ MRI やエコーなどの検査があったものの、それが終われば基本的には投薬と療養の毎日であり、楽しみと言えば食事と毎日様子を見に来て下さる名嶋さんと話をするくらいでした。部屋にテレビはあったものの、つまらない番組しかやっておらず、とても長い時間見ていられるようなレベルではなく、ひたすらケニア事務所の小嶋次長からお借りした本ばかり読んでいました。その中に「鬼平犯科帳」があり、時代小説が苦手だった自分なのですが、この池波正太郎作品は大いに楽しむことができました。コンピューターも持って来ていたので、報告書を書いたりこのビクトリア通信などもしたためることができたはずなのですが、出発時の慌ただしさから電源であるアダプターや10年日記などを持って来るのを忘れたために、実のあることは何もできず、毎日を無為に過ごしていました。食事にしても低塩/低コレステロール食と謳っていた割には朝食でさえ卵料理、ベーコン、ソーセージなどが出ていたのですが、滞在四日目あたりから突然本当の低塩/低コレステロール食になって、朝食に蒸した白身の魚に恐ろしくまずいシリアルなどしか出なくなり、最後の3日間は本当に何の楽しみもありませんでした。病気療養も楽ではありません。そんな折に小嶋次長に焼き鳥と鯖の蒲焼きの缶詰を差し入れて頂き、本当に助かりました。
      その小嶋次長とアフリカの援助について少し話をしました。最初にウガンダでの仕事のことを聞かれ、自分は正直にいつも思っていたこと、つまり、ウガンダの公務員は援助に大きく依存し、国の発展のためというよりは、私腹を肥やすために援助を利用しており、こういった形で開発援助を続けていてもアフリカ諸国が発展するとは思えないというようなことを話したわけです。加えて、コモン・バスケットなどという名目で財政支援を行っている欧米諸国は、本当は、アフリカを発展させようなどとは本気で考えていないのではないかと感じるとも言って、次長の意見を求めました。すると次長は、「きっと欧米諸国はアフリカ諸国の人間に国のマネジメントができるなんてはなから考えていないのだろう」とおっしゃっていました。つまり彼らに国を発展させるような能力はなく、それでも旧宗主国としての対外的な責任と子飼いにしておきたいという下心から財政支援という名の下に、金を渡しているということです。これだけ長い間援助を続けていながら、発展のきざしが見える国がひとつもないのですから、これまでの援助方法が適切であったはずがないことは明白です。それにもかかわらず、常に援助の潮流は欧米式が主流であり、それに習わない日本はずっと批判にさらされてきました。これからもアフリカでは財政支援型の援助が主流となっていくことでしょう。その中でJICAがどこまで技術協力を続けて成果を上げていけるか、小嶋次長や関所長を初めとする事務所スタッフに頑張ってもらいたいものです。

カンパラ病院で撮影した CT スキャンの映像。3 ヶ所に脳梗塞像が認められる丸く囲って番号がついているところである。この写真ではよくわからないが、フィルムを見ると確かに梗塞らしき異物(低吸収域?)が白く写し出されている。 ナイロビ病院で撮影した MRI による脳の血管像。日本の病院で担当医に見せたところ、右脳に延びる 3 本の血管を含め血管自体はきれいでどこにも梗塞などの異常は認められないとのことであった。
ナイロビ病院で撮影した MRI の画像。右脳 (この写真では左側) の前頭および後頭部に白く写る病巣が見られる。上の CT 画像に見られる脳梗塞像 No. 1 および No. 2 の場所と一致している。 ナイロビ病院で撮影した MRI のコントラスト画像。左の MRI の画像と比べより病巣がはっきりと写っている。同様に病巣の位置がCT 画像の脳梗塞像の部位 No. 1 および No. 2 と一致している。

      とまあ、そんな入院生活でしたが、順調に血圧も下がり、120/80位に落ち着いてきました。他の症状も消え、特にこれといって後遺症もなかったために、ドクターから帰国 O.K. というお墨付きを得、本部の健康管理センターにも了承していただき、4月22日の便で帰国することになりました。実は 4 月 21 日のムーンライダーズのコンサートチケットを買ってあったのですが、さすがにそれは無駄になってしまいました。フライトはナイロビからドゥバイ経由で関空へ、そして国内線に乗り換え羽田着という、ウガンダから帰る時とほぼ同じルートです。今回の緊急移送や入院手続き全般を手配していただいたフランスの SOS インターナショナル社が各空港内での移動に車椅子によるサポートを手配してくれていたのですが、特に具合が悪かったわけではないですし、車椅子に乗って移動するのは恥ずかしかったため、それだけはどこでも丁重に辞退させて頂きました。羽田ではプロジェクトの担当でいらした JICA の鯉沼さんと、これまでただの一度も見送りにも出迎えにも来たことのない姉が到着口で待っていてくれました。今回の件で鯉沼さんには多大なご心配をおかけしてしまいました。6月からルワンダへ転勤になるというお忙しい中、本当に申し訳ななかったと思います。
      さて日本に戻ってから早速自宅近くの病院へカンパラで撮したCTとナイロビで撮したNRIの画像フィルムを持って出かけました。、神経内科だけで診察室が10部屋もあるような病院です。ここで担当の先生が画像を見ておっしゃったのは「ある特定のカ所で梗塞が起きているというよりは、小さな血栓が広範囲に飛んでその領域に散らばっているような印象を受ける。また病変が右脳に集中しているため、左目や左手に症状が出たことは納得できる。」ということでした。確かに MRI の画像を見ると白い病変部がかなり大きく広範なのです。ではその小さな血栓がどこから飛んできたのかということが問題になります。それを突き止めなければ今後の予防対策が立てられないからです。先生によれば一番可能性が高いのが心臓で不整脈が起きているような場合、次に足の静脈なのだそうです。足の静脈で血栓ができるのはいわゆるエコノミークラス・シンドロームです。長い間椅子に座っていたりすることにより、足がむくんで血流が停滞し、血栓ができるわけです。しかしその場合、静脈血は右心房、右心室を通って肺動脈に入り、肺に入るわけですから、脳に梗塞を起こすことはないはずです。ここで先生が少しドキッとする一言を「心臓に穴が開いている場合があり、そうだとすると静脈血と動脈血が混ざって、足の静脈にできた血栓も脳に到達する可能性がある。」のだそうです。一応、運動機能や視力、視野の検査もやっていただきましたが、特に手足の運動機能に関しては問題がないとのことでした。自分としては、コンピューターの入力時に左手の入力ミスが多いことが、後遺症といえば後遺症だと感じています。以前であればキーの位置を覚えていえ特にいちいち確かめなくても入力できたのに、この頃は特に「S, A, W」のキーを間違えてばかりいます。
      以上のような経緯から、心臓と足の静脈の検査を中心に行うことになりました。まずは心エコーと心電図、次にホルター心電図、(24時間心電図をとり続け、不整脈の有無を調べる)、念のために MRI をもう一度、そして経食道心エコー(食道にエコーを入れて心臓の裏側からエコーをかける)、そして足の静脈のエコーです。すべての検査が終わったのが今日 5 月 15 日で、来週 19 日にもう一度先生の診察を受け、その時にすべての検査結果を説明して頂くことになっています。というわけですので、結果がわかり次第、この通信文もアップデートしたいと思います。ちなみにわかった結果を少しだけお知らせしておきますと、心臓に不整脈はなく、穴も開いていませんでした。また撮り直した MRI の画像を見ると病変部は前頭葉と後頭葉にあり、脳の中央部分には見られませんでした。先生によれば運動機能を司る神経はこの中央部分にあるそうで、だからこそ運動機能障害が出なかったし、後遺症も残らなかったのでしょうとの事でした。最後に先生がおっしゃった一言は「柏崎さん、チョーラッキーでしたね。」まあ、確かにそうなのでしょうが、神経内科の 50 代ベテラン医師のコメントが「チョーラッキー」はないですよね。

それにしても今回この通信を書くに当たってフィルムから画像の取り込みとアレンジをしていて気がついたのですが、CT の画像に見られる梗塞部と、 MRI の画像に見られる右脳の病変部の位置が一致しているのです(上記写真を参照)。かつナイロビ病院の MRI 担当医師の書いたコメントを読んでみると、「ここに見られるような MRI の病変像は、血栓症もしくは血流量の低下によって起こる」とありました。ということは、先生のおっしゃる小さな血栓の飛び散りによる病変というよりは、やはりCT 画像に見られるような梗塞がまず起こり、その梗塞によって下部領域の血流量が低下していると考える方が、自然なのではないかと自分は思いました。

 

というわけで長々と病気の経過報告になってしまいましたが、ひとまずここで筆を置かせていただきます。

      さて今日、5 月 19 日、病院へ行ったら、マスクをしないと中には入れませんと言われ、玄関のところで強制的に30 円のマスクを買わされました。マスクをするのはミャンマーで鳥インフルエンザの発生地へ行った時以来でしょうか。その後、9時半に予約していたにも関わらず、受付を済ませてから2 時間も待たされての診察となりました。これまでの検査結果からわかったのは以下の通りです。
1. エコーを見る限り、動脈硬化などの異常は見られず、それゆえコレステロールの蓄積による梗塞ではないと考えられる。また足の静脈にも血栓などの蓄積は見られないことから、おそらく体のどこかで血流が停滞して (いわゆる鬱血で、もちろん足の可能性も否定できないが) 、血栓ができ (エコノミークラス症候群と同じ)、それが脳に飛んで梗塞を起こしたのだろうと推察される。
2. 心エコーと心電図の結果からすると、不整脈はなく、心拍出量も正常、心筋の状態も良好であったが、経食道心エコーでは左心房内の血液が若干乱れているような印象を受け、これから心房細動が示唆される。しかしホルター心電図ではそのような結果は見られなかった。
3. 静脈血は右心房と右心室を通って肺に送られるので、正常であれば静脈内の異物は肺で吸収されるのであるが、経食道心エコー検査で静脈にバブル (細かい泡) を入れたところ、そのバブルが左心室にも現れた。といことは肺のどこかにバイパスがあり、そこで静脈血と動脈血が混ざっていると考えられる。それゆえ血栓が動脈血に入り、脳に到達して梗塞を起こしたものと考えられる。
      以上のような結果から、とりあえず血栓の形成を防ぐために血液をサラサラにする薬を服用し、かつ肺の CT 画像診断を実施して、本当に肺に静脈と動脈が混ざり合うようなバイパスがあるのかどうかを調べることになりました。そのようなバイパスは珍しいものではなく、簡単な外科的処置やレーザー照射などで治るものらしく、その病院でも治療実績があるそうです。
      というわけで闘病記となったこのビクトリア通信最終号はもう少し続く事になりそうです。


担当の先生に書いていただいた診断書

      その後、6月の初めに肺の CT を撮影し、全ての検査を終えました。結果的にわかったのは、右肺の下端に何か変な組織がついているということでした。筆者は 3 年前、タイにいた頃に肺炎を患ったことがあり、その時、右胸腔内に胸水の貯留があったため、おそらくその残留物だろうということになり、今回の病気とは関係ないだろうとのこと。加えて経食道心エコー検査の結果から推察された静脈と動脈の間のバイパスのような所見も確認できませんでした。そこで画像診断の専門家を交えて筆者の症例を検討したところ、最終的に「心原性脳栓塞症」ということになったそうです。つまり梗塞の原因となった血栓はやはり心臓で作られたのだろうということです。発病当時、血圧が 190 近くもあったわけですから、何かしらの理由で一時的に不整脈などが起こり、血栓が作られたのだろうと考えるのが一番理にかなっているという結論になりました。
      それで今後どうやって再発を予防するかということですが、基本的にメタボ状態を脱却しない限りその危険性はなくならないわけです。それゆえワーファリンという血栓を作りにくくする薬の服用を始めました。「血栓を作りにくくする」ということはつまり血液が凝固しにくくなるわけですから、投与が過ぎると出血時などに血が止まらなくなる恐れがあります。それゆえ薬効をモニターしながら徐々に服用量を上げるという作業が必要になります。抗凝血薬療法手帳なるものまで発行され、日量 1 mg から服用開始です。PT-INR という検査で薬効をモニターをしていくのですが、この値が 1.6 から 2.5 の間になるような量が適正なのだそうです。当初、検査値は 0.9 でした。毎週 1 mg ずつ増やしていくのですが、これがなかなか上がらず、日量 4 mg に増やしたところでようやく変化が見え、1.11 に上昇、日量 5 mg で 1.26 になりました。現在は日量 6 mg 服用しており、PT-INR 値は 1.58です。最終的に日量 6.5 mg でいこうということになり、長かった投与量さぐりの日々を終えることができました。
      また暇なうちにメタボを解消しておこうと実家近く鶴見川の土手を毎日 10 km 走り始めました。走るにはまだまだ体重が重すぎるのでしょう、シューズの底が薄いのも手伝ってか足の痛みが引きません。今日で 15 日目、体重が 3 kg 落ちたところです。JICA 健康管理室の顧問医には 7 kg 痩せなさいと言われているのでまだ先は長くなりそうです。血圧は降圧剤の服用を止めた後、再び以前と同じ 145/90 程度まで戻ってしまったのですが、先日の検診時には 129/87 まで下がっていました。血中コレステロールについては抗コレステロール剤が効いたようで、服用を止めてからも下がったまま。この調子で続ければ今月末頃までにはメタボでなくなるのではないかと意気込んでいます。
      肝心のプロジェクト第 2 フェーズについてですが、事前調査が 7 月 28 日から 8 月 16 日の予定で実施されることになり、コンサルタントとして公示に応募した筆者が評価・分析を担当することになりました。というわけで 7 月 28 日から再びウガンダに出かけてきます。
      長くなりましたが、ここら辺で最終号も終わりとさせていただきます。

(2008 年 5 月 15 日 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記、5 月 19 日および 7 月 1 日に追記)
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