ビクトリア通信 第五号
ご無沙汰しております。第四号をしたためたのが5月ですから、かれこれ半年以上も経ってしまったことになります。いかがお過ごしでしょうか。
この半年、何をしていたのか。エンテベ・ラボの検査室はそれなりに設備が整い、実際に検査ができるようになってきました。かといって怠け癖のついたウガンダ人スタッフが仕事をするわけもなく、自分がひとりで細胞を培養したり、診断用の試薬を作ったりという、個人的には楽しめるものの、「技術移転」というプロジェクトの趣旨からすると空しい仕事をしていました。それでもまあ、将来につながるようなラボ・ワークが検査室にてできるようになっただけでも「良し」としなければいけないのかもしれません。7月末から2ヶ月間は短期の獣医隊員が4名、8月には細菌学の短期専門家が来られ、9月末までは彼らの対応に追われていました。短期隊員も短期専門家も第2回目の派遣であったため、それなりに要領がわかり、前回よりはうまく、そして楽に対応できたようです。裏を返せば、受け入れに慣れてしまいこちらの対応がおざなりになっていたかもしれず、その点は気をつけなければいけないと反省している次第です。
短期隊員を見送ってすぐに、自分自身も5週間、一時帰国をしました。こんなに長くまとまった休みが取れるというのは、海外勤務者の特権でしょうか。高校の同級生と温泉旅行をし、しまなみ海道100キロを歩き、落語の独演会に何度も足を運びました。落語家は相撲取りにライバル心でもあるのか、このところの相撲界の麻薬不祥事を受け、落語会でも抜き打ち尿検査を実施したのだそうです。結果、ほとんどの落語家が糖尿病だとわかり、落語会に激震が走ったとか、、、
聞いたのは小朝、鶴瓶、権太楼、三枝、志の輔、正蔵、文珍、米團治、喬太郎、そしてさん喬という面々。一番チケットの高かった鶴瓶が一番お粗末、よくもまああんな落語しかできないで師匠を名乗り、独演会などを開くものだと、半ばあきれ半ば落胆した次第です。確かにテレビ等の出演で忙しいのはわかりますが、本業の落語があれでは単なるタレント、芸も何もあったものではありません。幸いなことに、他の落語家たちはみんなそれぞれに違った個性があり、大いに笑わせてくれました。特に志の輔は感動もの、「チケットが取りにくい」というのも頷けます。一席目は「バールのようなもの」という創作落語、そして二席目は人情噺。しんみりしてしまう人情噺があまり好きではない僕は、噺が始まってちょっとガッカリしたのですが、それもすぐに杞憂となりました。志の輔は話し方ひとつで客をグイグイと流れに引き込み、客席は完全に志の輔の世界に呑まれてしまいました。たいしたものです。志の輔もテレビで大活躍ですが、鶴瓶との差は計り知れないほど大きいように感じました。
さて、少しウガンダの話をしましょうか。この 7 月末に短期隊員が来た折、まず最初の一週間はカンパラとエンテベでオリエンテーションがありました。その最終日、任地へ向かう前の金曜日にエンテベのラボで各任地へ持参する物品類の仕分けをしました。その日は荷物が多いのを見越してプロジェクト車と私用車の 2 台で来ていました。仕分けも終わり荷物を積み込んだところ、何とか載せることはできるものの、そうするといつもカンパラまで乗って帰るウガンダ人スタッフのスペースがなくなってしまいます。しかし、その週末の日曜にはラボへ来る用事があったので、まあその時にもピックアップできるだろうからと、若干の荷物をラボに残してウガンダ人スタッフが座るだけのスペースを確保し、カンパラへ戻りました。
翌々日の日曜日、赴任を明日に控えた短期隊員が「エンテベ動物園へ行きたい」と言うので、彼ら 4 人を乗せてエンテベへと向かいました。彼らを動物園で降ろした後、自分はラボへ出向いて細胞の世話を済ませ、「さて、では残った荷物を載せようか」と車を後ろの診断棟へ移動させた時のことです。途中、芝の上で方向を切り替えてバックから入っていきます。切り替えをする場所の手前に少し段差があり、それを乗り上げるために若干勢いづいたところ、今度は前方の側溝が目に入り、あわててハンドルを右に切りました。するとそこに突然、芝から突き出たポールが目に飛び込んできたのです。おそらく毎日のように目にしていたのでしょうが、そんなものは気にもとめていなかったので、突然目に飛び込んでくるまでその存在を全く忘れていました。ここで更にあわててしまい、ブレーキを踏むべきところアクセルを踏み込み、更に勢いづいた車はそのポールのひとつに激突しました。すぐに降りて全部を確認する勇気が出ないまま、おそるおそる車をバックさせてみると動くではないですか。「たいしたことはないのかもしれない」という希望的観測を胸に抱き、荷物を車に載せ、ついでにちらっと前部を確認しました。確かにバンパーとボンネットがへこんでいましたが、ダメージはさほど大きくないようす。が、その時点でもまだボンネットを開けてエンジンルームをのぞいて見る勇気はありませんでした。
車は動きました。エアコンは効きませんでしたが、以前から日中の暑い日には効きが悪かったので、まあこのくらいは仕方がないかなあ、と自分に言い聞かせつつ、動物園へ隊員をひろいに行きました。2 時間ほどの間に前を凹ませて戻ってきた車の姿に驚いた様子でしたが、筆者に気を遣ったのでしょう、あまり根掘り葉掘りとは聞いてきませんでした。近くのホテルで昼食を取り、カンパラへ戻る途中のこと。カンパラの町に入る手前、約 10 キロほどのところに丘があり、そのてっぺんに建設中のホテルがあります。そのホテル手前の坂を登っているときに突然ブザーが鳴り響き、エンジンが停まってしまったのです。道路脇に何とか車を駐め、「あーあ、やっぱりダメだったか」という脱力感と共にボンネットを開けてみると、オーバーヒートをしているようでした。ラジエーターの水タンクが空になっています。よくよく調べてみると水を循環させるゴム・パイプが近くのギアに触れ、摩擦で穴が開いてそこから水が漏れたようでした。もう自力ではどうすることもできないだろうとあきらめ、知り合いの専門家に連絡してドライバーを送ってもらうことになりました。よりによってこんな時に、金曜にスタッフのことなど考えずに荷物を全部積んでいたら、と、いつも後悔は先に立ちません。幸いなことにウガンダ人の野次馬はほとんど集まらず、短期隊員達は脳天気のそこいらを歩き回って写真を撮っていました。
30-40 分ほども待ったでしょうか。見慣れたスズキの軽自動車がやって来ました。知り合いの専門家がドライバーに譲った車です。何とその小さな車からむさ苦しいウガンダ人の男が 5 人も降りてくるではないですか。もちろんそのうちのひとりは顔見知りのドライバーでしたが、、、。その人に聞いたところによれば、ふたりは修理工場から、あとのふたりは牽引サービス会社からだとのこと。ウガンダ人のいいカモになりつつある気分がした瞬間でした。でもまあどうしようもありません。「ドクター達はこのスズキに乗ってカンパラへ戻れ。あとは俺たちが引き受ける。」という、頼もしいながらも若干胡散臭さを含んだ言葉を背に受け、我々は無事にカンパラへと帰った次第です。ちなみにその車の修理が終わったのは 6 日後の土曜日、請求書には約 30 万円の金額が書かれていました。 |