夜、ホテルのレストランで食事をした。どこの国の料理だかわからない風のステーキを食べながら今回のウガンダ行で2冊目となる本を読んでいた。僕はたいていどんな国の料理でもおいしく食することができる。これも幼少の頃から食べさせられ続けてきた粗食のおかげかもしれない。最もその割には肥満体の体をもてあまし続けてもいたのだが。食事も終わりかけた頃、テレビでは小学校対抗のクイズ番組が始まった。セットはあくまでも貧弱で、日本のどこかの小学校でやる学芸会か何かの方がよほど立派な小道具を用意できるだろう。出演した小学生はひとつの学校から5人づつ、2校の対抗戦なので左側にとある小学校から5人、右側に別の小学校の5人が座っている。どこの小学校かは知らない、ウガンダのどこかだ。みんな利発そうな子達で、紺の半ズボンもしくはスカートに白いシャツを着ている。まあ、選ばれてテレビに出てきたのだから、その学校でも一番優秀な子供たちが出場しているのだろう。司会者の男性アナウンサーは真ん中に座っていてかなりテンションが高かった。クイズが始まる。
「フランスの首都はパリですが、ではスペインの首都は?」
ハイ、ハイ、と我先に手を挙げる子供たち。まあ、これは簡単な質問だ。僕だって小学生の時はこれくらいのことは知っていた。答えはマドリッドである。司会者は各質問ごと交互にどちらかの小学校のひとりを指名して答えさせていく。序盤戦では全く勝負がつかない。
「建物を設計する人を何といいますか?」
この質問では手を挙げる子の数が減った。最初に当てられた子は間違え、権利がもうひとつの小学校に移る。かわいい男の子が当てられて自慢げに答える。
「Architect」
日本では普通の高校生でさえこう答えられる人は少ないだろう。うーむ、こいつらただ者じゃあないという思いが強くなる。ここらあたりから二つの小学校で差がつき始めた。僕が一番驚いたのは次の質問である。
「ある街で牛が死亡し、炭疽病が疑われました。さてその時どの様な対応を取ったら良いでしょうか?」
一瞬自分の耳を疑う。炭疽病のことは英語でAnthraxという。僕は獣医だから知ってはいたが、いったい日本人の中でどれだけの人がこの病気について知っているだろう。先のアメリカ同時多発テロ事件の時の騒ぎで炭疽病が有名になったため、今でこそ知っている方も多いと思うが、日本で一般の人がこの病気についての知識を持ちあわせているとは到底考えられない。しかもこのウガンダの子達は英名(番組は英語で進められていた)を知っているのだ。
炭疽は重要な人獣共通伝染病のひとつで、Bacillus anthracis という細菌の感染によって起こる急性敗血性の疾患だ。致死率も高い。通常、経口的にもしくは皮膚の創傷を通して感染し、発症後の経過は急性である。感染部位により肺炭疽、皮膚炭疽、腸炭疽などと呼び分けられるのは、先の炭疽騒ぎの時にテレビのニュースで報道されていたので聞き覚えのある人もいるだろう。死亡した牛では口や鼻、肛門などの天然孔から凝固不全、暗赤色タール様の血液の漏出が見られる。また解剖すると内出血した血液が暗赤色に変化し、内臓が黒ずんで見えるために和名では炭疽という名前がつけられた。日本では非常に稀な病気であることは確かであるが、全く存在しないわけではない。
さてその質問を受けて子供たちの反応はというと、元気良く一斉に沢山の手が挙がった。先程の建築家を間違えた子供が再び当てられて、今度は自信満々に答え始める。
「まず、その街から外部に通じる交通を遮断し、移動を禁止します。炭疽の疑いで死んだ動物の死体は穴を掘ってその中に入れ、生石灰をかけて消毒した上で埋めます。さらに発生農家の消毒を実施し、感染動物と接触を持った人や動物の検査を行います。そしてそれ以上感染の広がりがないと判断された時点で、移動の禁止を解除します。」
長い長い答えだったがほぼ完璧である。僕が出場していたとしてもこれだけ理路整然と答えられただろうかと疑問に思う。彼らはいったいどんな教育を受けているのだろうか。この質問が出ることは事前に知らされていたのだろうか。恐らくウガンダでは炭疽病の発生が多くより身近な病気なのだとは思うが、それにしても10歳前後の子供ができる解答ではない。恐るべしウガンダの小学生。僕は食後のコーヒーを飲み終えて部屋に戻った。
さて翌日も快晴、10時頃に迎えが来てくれてムブランベリのいる研究所に向かった。ホテルのすぐ近くで歩いても行けるくらいの距離だ。それはかなり質素な建物で、トリパノゾーマ病のリサーチと検査を行っているラボだという。スタッフも10人とおらず機材類も非常にベーシックなものばかりであった。ドクター・ムブランベリはここの所長さんである。リバプールのデイビッドとは長いつきあいらしく、お茶請けに大学の話をしばらくしてからこのラボについて色々と質問をさせて頂いた。デイビッドのグループが中心となってイギリスODAによる援助が行われているという。しかし基本的に人的な交流が多く、機材の供与はほとんどないとのこと、これは内部を見学して一目でわかった。ここのスタッフがリバプールで研修を受けさせてもらう代わりに、リバプール大学の院生等を受け入れてフィールド・ワークの手伝いをするという。もちろん僕もそのひとりだ。デイビッド本人も毎年のようにここを訪れており、一緒にフィールドへ出かけている。ただしここは人間を主体としたリサーチを行っているため、動物を主体としたサンプリングを希望している僕には不向きである。それゆえ先にも書いたトロロにある研究所の獣医グループと仕事ができるようにドクター・ムブランベリがアレンジしてくれたわけだ。ここジンジャでは1980年代前半に人のトリパノゾーマ症(眠り病)の大流行があった。当時はまだ政情が不安定で、デイビッドがフィールドへ出かけた時に軍の兵士が道路脇で住民をなぶり殺しにしているのを目撃し、恐ろしくなってすぐにラボへ引き返したことがあったという。だいたい伝染病というのは政情不安になってコントロールにほころびが出始めると、途端に猛威をふるい始めたりするものだ。
ドクター・ムブランベリにアレンジのお礼を何度も言ってホテルへ戻った。午後は何も予定がないので昼食後ゆっくり昼寝をする。2時頃にむくっと起きあがり、カメラを片手にビクトリア湖のダム見学に出かけた。そこがナイルのひとつの源流で、もうひとつは確かウガンダ西部にあるルエンゾリ山の方だ。是非足をのばしたかったのだが危険だから絶対に行くなとイギリスで念を押されてきた。ホテルの中庭にいた従業員の少年にダムの方角を聞き、直線的にそっちの方へ歩いて行くことにする。何か普通の道を通っていくとすごく遠回りになりそうな予感がしたので、とにかくフィールドを突っ切ることにした。まずホテルを取り囲んでいる林を抜けると、ずっと畑が続いている。申し訳なさそうについているあぜ道を通り、なるたけ畑の中には入らないようにしながら歩いて行った。こんなところには誰もいないだろうと思っていたのだが、自転車をひいて歩いているおじさんや、畑で働いている母子連れやら結構人に会って驚いたが、向こうも草の影から突然現れた僕とはち合わせしてビックリしていた。
畑を突っ切ると舗装道路に出た。左の方にダムらしきものが見えるのでとことこ歩いていく。ダムの近くまで来ると視界が開け、ビクトリア湖が一望できる。頭の中に出来上がっていたイメージほどには神秘的でも美しくもなかったが、午後の強い光りに反射して力強く輝いていた。雨がよく降るのだろうか、湖は豊かすぎるほどの水をたたえており、オーバーフロウした大量の水が、僕が佇んでいるダムの上に引かれた道路のすぐ下を通り、滾るように反対側の川へ落ちていく。見ていると吸い込まれそうで恐ろしくなるが、湖の恵みが融け出してスーダンやエジプトまで流れていき、乾燥した地を潤していると考えると僕も一緒に漂って行きたい気になる。水は十分に泳げる程度にはきれいだった。そういえばブリストルへ一緒に行ったモーリスが、ビクトリア湖にはワニがいるからむやみに泳ぐと食べられてしまうと言っていたが本当だろうか。彼の家はケニアのビクトリア湖岸にある。子供の頃から湖で遊んでいて泳ぎはうまいのだろうと思っていたのだが、全然泳げないんだと言ってたっけ。残念なことにこのダム周辺は写真撮影禁止になっており、そこら中で若い兵士が見張っているため写すチャンスを全く窺えなかった。
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