UTROには付属の病院もあり、何人か眠り病の患者が入院されていた。病院では患者のために食事を準備しないため家族が常に付き添っていなければならず、ほとんどの入院患者は離れたところから来ているので家族も病院で寝泊まりしている。しかし彼らのための宿泊施設はない。付き添いの人たちは廊下やロビーに寝泊まりすることになるため、入院患者自身よりもかわいそうであった。ジョゼフが説明するには、最近WHOがトリパノゾーマに良く効く薬を副作用が強いという理由で使用禁止にしてしまったため、より効果の低い薬を使わざるを得なくなってしまったのだという。そのせいで治療期間が延び、入院患者の家族の負担が以前に増して大きくなってしまったらしい。物事は思わぬところで弊害が生まれてくるものだ。WHOは患者の負担を軽くしようと考えてそのような措置を取ったのであろうが、それが結果的には家族の負担を増す結果になってしまったのだから正しい判断とは言えないかもしれない。
翌日、ドクター・オクーナと採材について話し合った。予想した通りお金の話になる。
「フィールド・ワーク用に大学からいくらもらってきた。」と聞かれた。
「そうじゃなくて、一度出かけるのにいくらかかるんですか。」と聞き返す。
「場所によっても違うし、関わる人の数によっても違う。」と言うので、
「じゃあ、どう違ってくるのか細かく計算して見せてくれませんか。」と返した。
お金に関してが一番面倒くさく、かつはっきりしない部分だ。彼は絶対にひとつひとつの単価や手当を言おうとはしない。僕は全てをクリアにした上で費用を計算したいと思っている。彼は「信用して任せて欲しい」と繰り返すばかり、僕は「何故、明細を出せないんだ」と食い下がる。ドクター・オクーナがある程度のお金を自分の懐に入れるつもりでいるのは明白だった。しかしここでそれを糾弾するわけにもいかない。最終的にフィールド・ワークに使える金額を伝えたところ、その予算だと5回採材に出かけられると彼は言う。そこですんなり「はいそうですか」と引き下がるわけにはいかないので、あれやこれやとなだめすかし、結局7回フィールドへ出かけることになった。ジョゼフに事の次第を伝え、
「まあ、こんなもんかな。」と言ったら、
「まあ、そんなところだろ。」と答えが返ってきた。幸いだったのはこんな金にまつわるせちがらいやりとりをしながらも、ドクター・オクーナとの話し合いの雰囲気だけは終始なごやかだったことで、何とか最初の関門を越えてホッとした。シリアで働いていた頃ならば大げんかをしていたことだろう。柏崎君も少しは成長したのだ。
早速ジョゼフとケニヤ国境までフィールド・ワークにかかるお金を両替に出かけた。パスポートとイギリスポンドを小さなサイドバッグに入れて出かけようとしたら、ジョゼフがデイバッグを指してこれにしろという。サイドバッグじゃあ小さすぎて入らないというのだ。ジンジャで両替した時のことを思い出して納得し、デイバッグをしょってUTROの車で出かけた。その町までは国境沿いに南下すること20分くらいか。車の中でスタッフの収入などについて聞いてみると、給料は月に10ドルから20ドルくらいであり、しかもその当時は支払いが滞っていてもう3ヶ月も遅れているという。だから今回のフィールドワークで日当がもらえるため、みんな喜んでいるらしい。ドクター・オクーナがきちんとみんなに支払ってくれることを願うばかりだ。給料が支払われないのにいったいどうやって生活をしているのだろうかと聞くと、そこはやはり公務員なのである程度の特典があり、職員は皆、住宅と農地を提供されているため食べるには困らないということだった。まあ、それくらいの役得でもなければいくら物価の安いウガンダとはいえ、10ドルや20ドルの給料では家族を養っていけないだろう。
国境の町はケニヤと往来する車で賑わっていた。ケニヤ側には鉄道駅があり、そこから夜行列車でナイロビまで行くことができる。国境の小さな銀行での両替はすんなり終わる。窓口に積み上げられた紙幣の山はとても枚数を数えられるような半端な量ではない。そのままありがたく受領のサインをし、デイバックに詰め込んでUTROへ戻った。(2002 年 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記)
次へ
|