ウガンダ・トリパノゾーマ症研究所(通称UTRO)で働く

トロロへ向かう道も緑の中を進んでいく。この街はジンジャよりも小さく、ほんの4ブロックほどの空間に全ての店が詰まっている。そのまわりには青空市場が広がり、セコハンの衣料品や野菜、干物にした魚、等々が売られていた。ざっと街を案内してもらい、研究所へ向かうことにした。ケニヤとの国境に沿ってでこぼこ道を更に10キロ程南下したところに研究所とその家族のための住宅が立ち並んでおり、ひとつの村のような佇まいを見せていた。どこで寝泊まりするのだろうと思っていたのだが、研究所はちゃんとゲストハウスを数棟備えていて、そのうちのひとつを貸してくれるという。その管理棟まで送ってもらい、そこでジンジャからのドライバーに別れを告げた。彼はまたこれから今来た道を戻らなければならない。

ゲストハウスはゆるやかな斜面に沿って建てられている。ひとつひとつの棟は適度に離れており、その間は芝が覆っている。予想よりも随分と立派な施設を見て少なからず驚いた。管理人さんは50才過ぎくらいのおばさんで、最初に「グッド・アフタヌーン」と優雅に挨拶をされて体の力が抜けた。このおばさん、午後になると日傘をさしてしゃなりしゃなりと歩いてたりして、ちょっと回りの景色とはかけ離れたイメージを漂わせていた。彼女からここでの暮らしについて色々と説明を受ける。食事の材料は自分で街へ買い出しに行かなければいけない。そしてそれを料理人に預けておけば彼が夕飯を作ってくれる。街へのバスは午前と午後に一本ずつあり、街からはその2時間後に折り返してくる。乗り合いタクシーも沢山走っているのでそれを利用するのもよし。ここはケニアへの国境の途上にあるから車の往来は多いのだという。ゲストハウスの中で煮炊きをしてはいけない。しかし電気ポットでお湯をわかすくらいはよろしい。まあ、ざっとこんな感じであった。ひととおり説明を受けてからハウスの鍵をもらう。一番上に立っている2棟のひとつだ。明日の朝、ドクターのひとりを迎えにやるから、ラボへは彼と行けばよいとのこと、今日はゆっくりしていろと言われた。芝生が踏み固められてできた細い道を登り、他のハウスの脇を通って上までたどり着く。外見はコテージ風で洒落ている。中にはいると、まずは広いリビングがある。ちゃんとソファーが並んでいてなかなかいい感じだ。部屋の一角にはバーの様なカウンターまである。その横を通って奥の突き当たりがバスルーム。そしてその左隣がベッドルームであった。粗末な小屋での寝泊まりを覚悟してきた僕にとっては十分すぎるほどの施設で幸先良好、これからの2ヶ月が楽しみだ。荷物をかたづけてから乗り合いタクシーで街まで行き、食料を調達する。

写真左:トロロにある小学校 "Rock View Schoo" の生徒達が、寄付集めのイベントとして更新をしているところ。この後、学校に戻って合唱や踊りが披露された。背景にこの町のシンボルでもある岩山が見える。Rock View という名前の由来はこの岩山にある。写真右:トロロの町。岩山の頂上から撮影した。


夕方6時半頃、食事を食べに先程の管理棟まで降りていくと白人の若い姉ちゃんが2人いて驚いた。ここに来ている物好きな外国人なんててっきり自分だけだと思っていたので、他にもゲストがいるとは全く予想していなかった。この二人はアメリカ人でコーネル大学獣医学校の3年生だという。アメリカでは一旦4年制の大学を卒業した後で獣医学校に入学するわけだから、日本式に言えば7年生ということになろうか。コーネルといえばアメリカの獣医学校の中でも名門中の名門である。ひとりはナンシーといって結構たくましい体つきの元気いっぱいのアメリカアメリカした女性だ。はきはきしていてさっぱりしているが、一般的なアメリカ人と違って押しつけがましくないところがよろしい。もうひとりはカサンドラ、人の言葉に耳を傾け、おっとりとはしているが自分の意見もはっきり言う。良家のお嬢様といった感じだ。話を聞いてみたら両親ともに医者で、お母上は2年半で博士号を取得、かたやお父上は11年かかって博士号を取得したという。両親揃って博士号を持っているのだから、やっぱり教育熱心な家庭に育ったのである。

この管理棟で働いているのはスティーヴンといい、毎日夕飯を作って準備してくれる。食事は質素といえば質素だが、僕には十分。しかし出された料理のどこがウガンダらしいのかはわからなかった。いつもスープと炒めものと煮物とご飯で、味付けも塩・胡椒と僕らが買ってきたマギーブイヨンかシーズニングだけのシンプルさ。ウガンダ特有のソースか何かがあるのかと期待していたのだが、そんなものは全く使っていない。ひとつ物足りなかったのは野菜を全て煮込むか焼くかしてしまうため、生野菜を食べる機会がほとんどないということ。寄生虫卵とかがついている可能性があり、生野菜を食べるのは危ないからみんな火を通すという。

食事をしながらナンシーとカサンドラとは色々な話をした。彼女ら2人が何でこんなところにいるのかといえば、コーネルでは希望する学生を海外へ研修に出す制度があるらしく、その年はナンシーとカサンドラが選ばれてウガンダに来たのだという。何でウガンダなのかといえば、それはカサンドラが選んだらしい。トリパノゾーマの文献か何かを読んでいてこの研究所(UTRO)を知り、手紙を書いて研修を申し込んだのだそうだ。彼女はかなりアフリカに入れ込んでいて、獣医になったら絶対にいつかアフリカへ戻ってきて働くんだと強く心に決めていた。僕みたいに自分では何もせず、スーパーバイザーにおんぶにだっこしていたのとはわけが違う。実は僕の滞在中、このUTROへ研修にやってきたのは彼女たちだけではなかった。後半にはイギリスのケンブリッジ大学からも獣医学部の学生2人と、動物学を専攻している学生2人の計4人がやって来た。全員女性だった。ケンブリッジからはその前年にも数人のグループが訪れていたらしく、彼らは自分たちでデザインしたオリジナルのT-シャツを売って資金を稼ぎ研修に来たという。そしてその年の女性4人組は自分たちで企業を回り、スポンサーを見つけてやって来たらしい。4人が4人ともイギリス人らしく化粧っ気のないかわいらしい女の子達で、どこにそんなバイタリティーがあるのかと思うほど普通だった。というわけで、僕は一時期6人のエリート女性に囲まれて食事をするという、肩身の狭い思いをすることになる。

それにしてもコーネルの2人といい、ケンブリッジの4人といい、彼女たちみたいに学部学生の頃からこういうところに来て研修をする機会があるというのは本当にうらやましい話である。日本の大学では、途上国における獣医学領域での現場で研修どころか見学する機会さえもほとんどなく、将来的に開発援助に携わりたいと思ってはいても情報源が少ない。実感として得られるものが何もない。ただ漠然と頭の中で思いを巡らすだけで、さてそういう国で仕事をするためにどんな勉強をしたらよいのか、どういった道を進めばよいのかなどということは皆目見当がつかなかった。

翌朝、若いジョゼフ・マゴーナという獣医が僕のハウスまで迎えに来てくれた。すらりとした気の良さそうな奴で、「レレレのおじさん」を若くしたような愛嬌のある顔をしている。ウガンダで僕の相棒になってくれた奴であり、その後も連絡だけは絶やさず今でもやりとりが続いている。ジョゼフに連れられてUTROへ向かった。ゲストハウスのあるコンパウンドの隣には研究所の所長やら各セクション・ヘッドたちの家が並んでいる。そこを抜けるとしばらくは草原の中の細い道を歩き、やがてその道は掘っ建て小屋が立ち並ぶ広場へと続いていった。そこはマーケットの様な場所で、誰でもここに来て自家製の野菜などを売ることができるという。つまり自宅で作ったものの消費しきれない野菜や肉を売って、家計の足しにするというわけだ。品数は少ないが雑貨屋さんもある。これは常設店だろう。その広場を過ぎるとUTROの敷地へと入り、ようやっと研究所にたどり着いた。平屋だが細長い棟が2つ並んで建っている。年季が入っているのできれいではないが別にみすぼらしいわけでもない。敷地内には他に実験動物舎とおぼしき建物もいくつかあった。

写真左:ゲストハウスのあるコンパウンドから UTRO へと続く草原の中の一本道。この向こう側はもうケニヤだ。写真右:UTRO 部落内のマーケット。干した魚や野菜などを売っているが、あまりうまそうではない。


この2つの研究棟の間にコンクリートで四角い池が作ってあり、そこにワニが3匹いる。結構でかいワニで3メートル以上あるのではないか。池といっても小さいので動き回るようなスペースはない。何でワニなんか飼っているんだと聞いたら、その昔、感染実験をやっていたのだという。ワニは口をあんぐりと開けたまんま日向ぼっこをするために、ツェツェバエが口の中に入って血を吸うことがあるらしい(ご存じの通りワニの皮膚はとても硬くて、いくらツェツェといえども口吻を刺せない)。それで本当に感染するのかを調べるために飼い始めたのだが、実験はうまくいかなかったという。当たり前だ。だいたいワニからどうやって採血するんだ。それにワニがトリパノゾーマに感染しようがしなかろうが、それよりも他にもっと研究すべき重要なことがあるだろう。ジョゼフも馬鹿だ、馬鹿だ、を連発しながら自嘲的に説明していたので、僕はあまり突っ込まずに聞き流していた。結局、今では大きくなりすぎて自然に戻すことができず(危なくて重たくて湖まで運べないらしい)、かといって殺すのは忍びなく、餌代ばかりかかって大変な厄介者に成り下がってしまったらしい。ウガンダ人はかなり思慮が浅いのかもしれない。

何はともあれ所長に挨拶する。見かけと挨拶は立派な方だがちょっと信用できないかな、という印象を持った。最も所長と仕事の細かい打ち合わせをするわけではないので、別に問題はないであろう。僕が働くことになっているのは獣医研究室なので室長さんにも挨拶に行く。ドクター・オクーナといって所長よりはとっつき易い。細かいことについてもフランクに言ってくれるので、こちらとしても気安く話すことができる。彼がジョゼフのボスで、この研究所にいる獣医は彼ら2人だけらしい。他には医療、医科昆虫、生化学などの研究室があり、ひとつひとつ訪ねて挨拶してまわった。どこのセクションの室長さんも知識が豊富で最近発表された研究内容などについても明るく、感心してしまった。当時はまだインターネットもなく、またUTROは貧乏で最新の科学ジャーナルなどを揃える予算は全くない。いったいどこからこんな情報を仕入れてくるのか不思議であった。しかし知識はあってもほとんど研究は行っていない。彼らが口を揃えて言うには「お金がない」からだそうだが、ではお金と知識があれば素晴らしい研究ができるのかというとこれが必ずしもそうはならないので、まあ彼らの言い分を鵜呑みにはできないだろう。

写真左:Uganda Trypanosomiasis Research Organisation 通称 UTRO の研究棟。白い壁にオレンジの屋根が映えて、遠目には美しい。写真右:UTRO スタッフのミーティング風景。


UTROには付属の病院もあり、何人か眠り病の患者が入院されていた。病院では患者のために食事を準備しないため家族が常に付き添っていなければならず、ほとんどの入院患者は離れたところから来ているので家族も病院で寝泊まりしている。しかし彼らのための宿泊施設はない。付き添いの人たちは廊下やロビーに寝泊まりすることになるため、入院患者自身よりもかわいそうであった。ジョゼフが説明するには、最近WHOがトリパノゾーマに良く効く薬を副作用が強いという理由で使用禁止にしてしまったため、より効果の低い薬を使わざるを得なくなってしまったのだという。そのせいで治療期間が延び、入院患者の家族の負担が以前に増して大きくなってしまったらしい。物事は思わぬところで弊害が生まれてくるものだ。WHOは患者の負担を軽くしようと考えてそのような措置を取ったのであろうが、それが結果的には家族の負担を増す結果になってしまったのだから正しい判断とは言えないかもしれない。

翌日、ドクター・オクーナと採材について話し合った。予想した通りお金の話になる。

「フィールド・ワーク用に大学からいくらもらってきた。」と聞かれた。

「そうじゃなくて、一度出かけるのにいくらかかるんですか。」と聞き返す。

「場所によっても違うし、関わる人の数によっても違う。」と言うので、

「じゃあ、どう違ってくるのか細かく計算して見せてくれませんか。」と返した。

 お金に関してが一番面倒くさく、かつはっきりしない部分だ。彼は絶対にひとつひとつの単価や手当を言おうとはしない。僕は全てをクリアにした上で費用を計算したいと思っている。彼は「信用して任せて欲しい」と繰り返すばかり、僕は「何故、明細を出せないんだ」と食い下がる。ドクター・オクーナがある程度のお金を自分の懐に入れるつもりでいるのは明白だった。しかしここでそれを糾弾するわけにもいかない。最終的にフィールド・ワークに使える金額を伝えたところ、その予算だと5回採材に出かけられると彼は言う。そこですんなり「はいそうですか」と引き下がるわけにはいかないので、あれやこれやとなだめすかし、結局7回フィールドへ出かけることになった。ジョゼフに事の次第を伝え、

「まあ、こんなもんかな。」と言ったら、

「まあ、そんなところだろ。」と答えが返ってきた。幸いだったのはこんな金にまつわるせちがらいやりとりをしながらも、ドクター・オクーナとの話し合いの雰囲気だけは終始なごやかだったことで、何とか最初の関門を越えてホッとした。シリアで働いていた頃ならば大げんかをしていたことだろう。柏崎君も少しは成長したのだ。

早速ジョゼフとケニヤ国境までフィールド・ワークにかかるお金を両替に出かけた。パスポートとイギリスポンドを小さなサイドバッグに入れて出かけようとしたら、ジョゼフがデイバッグを指してこれにしろという。サイドバッグじゃあ小さすぎて入らないというのだ。ジンジャで両替した時のことを思い出して納得し、デイバッグをしょってUTROの車で出かけた。その町までは国境沿いに南下すること20分くらいか。車の中でスタッフの収入などについて聞いてみると、給料は月に10ドルから20ドルくらいであり、しかもその当時は支払いが滞っていてもう3ヶ月も遅れているという。だから今回のフィールドワークで日当がもらえるため、みんな喜んでいるらしい。ドクター・オクーナがきちんとみんなに支払ってくれることを願うばかりだ。給料が支払われないのにいったいどうやって生活をしているのだろうかと聞くと、そこはやはり公務員なのである程度の特典があり、職員は皆、住宅と農地を提供されているため食べるには困らないということだった。まあ、それくらいの役得でもなければいくら物価の安いウガンダとはいえ、10ドルや20ドルの給料では家族を養っていけないだろう。

国境の町はケニヤと往来する車で賑わっていた。ケニヤ側には鉄道駅があり、そこから夜行列車でナイロビまで行くことができる。国境の小さな銀行での両替はすんなり終わる。窓口に積み上げられた紙幣の山はとても枚数を数えられるような半端な量ではない。そのままありがたく受領のサインをし、デイバックに詰め込んでUTROへ戻った。(2002 年 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記)

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