イギリスに戻って・・・

リバプールに到着してガリーの家に帰ると放心した様子のふたりが待っていた。

「ただいま。何かあったのか。」

「よう、おかえり。実は昨日うちでパーティーをやったんだ。そのかたづけで疲れちゃって。お前が昨日帰るって言ってたから驚かそうと思ってそうしたんだけど、何で帰国が遅れたんだ。」

「ああ、そうか。悪い悪い。実は飛行機に乗りそびれて。」

 僕はリコンファームをしていたので空港でのチェックインをのんびりと構えていたのだが、航空会社がオーバーブッキングをしていて乗せてもらえなかった。しかしその晩はタダでカンパラの高級ホテルに宿泊でき、翌日はナイロビ経由の英国航空エグゼクティブ・クラスで帰ってくることができたので、僕にとってはすごく幸運な一日遅れだった。

いつまでもガリーの家に居候しているわけにもいかないので、帰国後すぐにフラット探しを始めた。幸いなことに以前住んでいた家のすぐ近くに同じようなフラットを見つけることができた。ドイツ人の大家さんに信頼され、短期間(7ヶ月間)だけという約束で借りた破格の値段のフラットだ。彼女は最近結婚されてロンドンへ生活の場を移し、できるだけ早いうちにこのフラットを売りたいので短期間であればオーケーだということ。20畳ほどもある部屋がふたつに10畳程度の部屋がふたつ。フラットの中には全部で50個以上の椅子があり、グランド・ピアノも食器洗い機もついていた。グランド・フロアー・フラットだったために2度も泥棒に入られたのには驚いたが大した被害もなく、イギリス生活最後の7ヶ月間を優雅に過ごすことができた。

生活の基盤が整い、また数ヶ月前の学生生活に戻る。ウガンダから持ち帰ったサンプルを別の方法で検査したり、論文に使うきれいな写真を撮るため、電気泳動を繰り返したりしているうちにイギリスは冬時間に変わり、夕暮れがめっきり早くなっていった。これから先、数ヶ月は寒くて天気が悪くて日照時間が短くてと、学生が勉強をするには願ってもない環境が続く。あとはひたすら論文の執筆に取りかかるのみとなった。家でも学校でもひたすらコンピューターに向かい、まわりには使えそうな文献を並べておく。各章ごとにストーリーを考え、結果を並べ、考察をひねくり出すという作業の繰り返しだ。煮詰まるとスポーツセンターへ行ってひたすら泳ぐ。ひとつの章が出来上がるとまずガリーに英語のチェックをしてもらう。そして次はカレンに見せて英語と内容の詳細なチェック、その次が教授のマルセルで全体的な流れを見る。最後にもうひとりのスーパーバイザーであるデイビッドが目を通してようやくお墨付きをもらえる。こんな風にネイティブが4人で僕の英文をチェックしているのだが、それでも見直すとまだ間違いがあって驚かされた。うーむ、英語のライティングは奥が深いぞ。その年の12月はダイアナ妃が別居にふみきり、クィーンのフレディ・マーキュリーがエイズに倒れるというニュースが世間を騒がせた。約2ヶ月間、ライティングに明け暮れていた僕もクリスマスの時だけは羽目を外して浮かれ、またひとつ年を取る。年末年始はもちろん返上し、何とか1月中には200ページの論文を書き上げた。

写真左:リバプール大学の時計塔。この一角に大学の中で一番古い建物群が並び、イギリスらしい伝統を感じられる。イギリスの大学は独自のキャンパスを持つものは少なく (特に古い大学は)、街の中に浸潤するように散在している。写真右:筆者が学んでいた熱帯医学校 (医学部附属) の正面入り口。時計塔から歩いて2-3分のところにある。もともとは渡航先で熱帯病に罹患した船員のための病院であったという。港町リバプールゆえの歴史を刻んできた学校だ。


論文が出来上がると大学側が2人の審査員(エグザミナー)を選ぶ。ひとりは大学内部(インターナル)から、もうひとりは外部(エクスターナル)からだ。僕の場合、インターナル・エグザミナーは熱帯医学校の校長であるデイビッド・モレニューに、エクスターナル・エグザミナーはブリストルでお世話になったデイビッド・ゴッドフリーに決まった。このふたりに論文のコピーが送られ、受け取ったふたりのエグザミナーは詳細に内容を検討する。そして約1−2ヶ月のうちに口頭試問(バイバーという)を行って学位の合否を決定することになる。そのバイバーの日程は3月中旬ということになった。マルセルからトリパノゾーマに関して一般的な勉強をよくしておくようにと忠告を受けた。イギリスの口頭試問では研究内容ばかりではなく、その研究対象とした病気全般についての知識も試されるらしい。つまり学位を授与される者は、当然のことながら研究対象についてあらゆる面の専門的な知識を持ちあわせていなければいけないということだ。そういえば論文にしても一番書き直しをさせられたのはイントロダクションであった。病気の背景からはじまって何故そのような研究をするに至ったかを、まるで物語を書くつもりで展開させていくよう指導された。

さて、バイバーの日の朝、アニマル・ユニットの更衣室へ行ってガリーと話しながらスーツに着替える。部屋に戻ってカレンと話をしていると研究室の面々が入れ替わり立ち替わりやって来て「Good Luck, Yoshi」とか「Fingers Crossed」と声をかけてくれる。5分前にダイレクターの執務室へ向かう。ふだんあまり話をしない人でも僕が今日バイバーに臨むことを知っているらしく、途中廊下で顔を合わせた大学のスタッフがみんな声をかけてくれる。これで随分と緊張がほぐれ、ふたりのデイビッドが待つ部屋に入った。最初は自分でもおかしいくらいにしどろもどろだったが、そのうちにすらすらと舌が回転し始めてあっという間に3時間が過ぎた。最初の1時間はトリパノゾーマについての一般的な質問が延々と続く。そしてその後、ふたりのエグザミナーが僕の論文を読んで疑問に思った点について質問され、それにひとつひとつ答えていった。最後に論文の中で指摘を受けた箇所を修正した上で製本し、大学に提出するよう指示され、バイバーにパスしたことを告げられた。これで博士号を取得できたことになる。

いい気分で部屋に戻ると自分の机の上にプレゼントが並んでいた。イギリス人はこういうところが心憎いくらいに気が利いている。プレゼントを渡すタイミングをよく心得ていて、クールな僕でも思わずグッときてしまった。ズボンのポケットに収めるウィスキー入れ(何という名前かわからない)、金属でできたメッセージ入りのビール・ジョッキ、リバプールのT−シャツ、エバートン(サッカー・チーム)のイラスト・ポスター等々、みんな洒落たプレゼントだった。カレンからはジェームズ・ヘリオット著「Every Living Thing」の単行本をもらった。彼はイギリスで一番有名な獣医で、何冊もの本を書きBBCはテレビドラマ化もしている。日本語でも翻訳本が出版されており、僕がシリアへ行くことが決まった時、獣医学部の学部長先生に頂いたのもジェームズ・ヘリオットの本だった。イギリスの獣医は彼のことをあまり良く言わないのだが、それは単なるねたみだろうとカレンと話していた。そしてもうひとつ、一番うれしかったプレゼントは、学校にいる多くの人から集めたカンパで買ってくれた一枚の水彩画だった。それは、僕がリバプールで一番好きな場所だと公言していたアルバート・ドックからロイヤル・リバプール・ビルディングの方を眺めた風景で、わざわざ地元の画家に頼んでその景色を描いてもらったという。何とも手の込んだプレゼントに、返す言葉が見つからなかった。

そんな帰国直前にリバプールでとんでもない事件が起こった。11歳の少年二人が2歳の男の子をショッピング・モ−ルで連れ去り、殺害して線路に死体を遺棄したのである。セキュリティー・カメラに手を引かれて連れ去られる男の子の後ろ姿が写っており、テレビのニュースで何度も流された。その頃のイギリスの世情を象徴するような痛ましい事件であったが、それがリバプールで起こったということに何とも言えない虚脱感を覚えた。その数日後、ガリーとスーにマンチェスターの空港まで送ってもらい、僕は日本へ向かう機上の人となった。(2002 年 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記)

写真左:確か 1990 年にジョン・レノンを追悼して行われたコンサートの横断幕。ウォーカー・アート・ギャラリーの入り口に掲げられていた。クィーンズ・ドックを仕切って行われた野外コンサートで、司会がオノ・ヨーコと初代スーパーマンのクリストファー・リーヴスだった。クリストファー・リーヴスが馬から落ちて半身不随になる前の事だ。イギリスからはウェット・ウェット・ウェットやプリンスが出演、アメリカからはロバータ・フラックやシンディー・ローパーがやって来た。写真右:1993 年に開催されたポール・マッカートニーのコンサートの横断幕。こちらはキングズ・ドックで行われた。筆者はウガンダにいて見逃す。この年は何か忘れたが記念すべき年に当たっていて、ポール・マッカートニーは「リバプール・オラトリオ」なるクラシック作品を書き、リバプール大聖堂で初演された。その時のソプラノ歌手はかの有名なキリテ・カナワであった。

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