思いが頭を駆けめぐる・・・

子供の頃から思いを巡らせていたアフリカは、それだけ先入観の多い場所でもあった。ジャングルとサバンナ、貧困に飢餓、エイズとマラリア、野生動物に原住民、政治腐敗と人種差別、等々、どれもこれもテレビや本から植え付けられたありきたりのアフリカ像が僕の頭をも埋め尽くしていた。そしてウガンダにやって来た。目に飛び込んでくる光景はこれまでテレビで見ていたものとあまり変わりない。もちろんその色彩や匂いや温度を肌で感じることができ、それらが体にしみこんでくる感覚は異なるが、イメージとしてはそれほど大きな開きがなかった。しかし人々から受ける印象は格段に違った。まあそれは当然と言えば当然かもしれない。テレビや本の中では、それを編集したり書いたりした人たちの目を通してアフリカの人たちの姿を浮かび上げているからだ。2ヶ月という短い期間にせよ、彼らと同じ村に住み、同じものを食べ、同じ場所で仕事をし、同じ言葉で話していると、ここで僕が接したひとりひとりの人間は、それまでの人生で接してきたひとりひとりの人間と大して違わなかった。考え方や人とのつき合い方が全然違うだろうと予想していた僕の思いに反して、それは取るに足りない差だった。

金銭を物差しに使えば彼らは確かに貧しい。しかしその貧しさを全く感じさせない人もいれば、立派な服を着ていながらすぐにあれを買ってくれ、これを買ってくれとすり寄ってくる人もいる。一度医者のグループと一緒にフィールドへ出かけたことがあった。小学校へ生徒の検診をしに行ったのだが、僕は全くの傍観者としてグループに加わり、子供たちの様子を写真に撮っていた。その日、ある村の中で休憩をしていたら、ワーカーのひとりが僕に地ビール(壺入りのやつ)を買わないかと聞いてきた。僕は別に飲みたくもなかったので「いや、いらない」とだけ答えた。しかし彼は何度もやってきては、「お前が買えばみんなが喜ぶ」だの「大した金じゃないんだからいいだろう」としつこく言う。よく見ているとその彼は上司のテクニシャンと話をしては僕のところにやってくるので、恐らくその上司に命令されていたのだろう。結局、僕が金を出して一件落着したのだが彼らはお礼を言うわけでもない。マーケットへ行ってもすぐに寄ってきて「貧しいウガンダ人にカセット・テープを買ってあげたくないか」とねだる。実はウガンダに来る前、こんな人に悩まされるのではないかと少し心配していた。しかし実際に生活してみて、こういったおねだりは全くその人個人の性格によるものであり、貧困とはまた別の次元の問題だと気がついた。世界のどこにでもこういう輩はいるだろう。貧困は、ある程度は当人の気の持ちようで何とか克服できる部分があるのだと思う。ウガンダのような国では自然の恵みもそれを助けてくれる。もちろん戦争や飢饉で生きていくのさえままならない様な人たちはまた別の話だが。

     

一方で、先進国の中にはこのような生活を逆に美化しすぎている人たちが多いのも気にかかる。日本での暮らしを世知辛い世知辛いと文句を言い、「幸せはお金では買えない」と呪文のように繰り返す。途上国ののんびりした生活が紹介されると、「あれこそが人間本来の生きるべき姿だ」とスロー・ライフを提唱する。しかし僕はそういった考え方に大きな違和感を覚えてしまう。確かに幸せがお金では買えないのはわかる。だからといって日本の生活、便利さに慣れ親しんできた人間が、途上国に住んでのんびりした生活を送れるとは到底思えない。彼らと同じ環境の中で、彼らと同じ収入の範囲内で、どれだけの日本人がその生活を享受できるだろうか。日本に住んでいてこそのスロー・ライフであり、「幸せはお金では買えない」生活なのだと思う。だからこそ途上国の人々の生活を一面的にとらえて美化するような発言を耳にする度に、彼らを侮辱しているように感じて憤りを覚える。

彼らは貧しいかもしれない。しかし少なくとも僕の目には彼らが惨めな生活をしているようには見えなかった。それは僕がつき合ったひとりひとりのウガンダ人から受けた印象であり、気持ちの上でのつながりを持ったからこそ感じえた思いだろう。しかし社会から受けた印象はまた少し違っていた。それはつまり個々から感じられるような気持ちが、社会全体からは酌み取りにくいからかもしれない。いずれにしろ社会としてウガンダは非常に貧しく見えた。シリアではついぞ感じ得なかった貧しさというものが、この国ではそこここで目についた。つまり、多くの人々が生きていく社会として未完成な部分が多すぎるのだ。衛生、通信、交通、社会制度、インフラ、産業、教育、等々、数え上げたらきりがない。そしてそれらの分野での開発を援助をするため、欧米諸国がこぞって大金と人材を投入してきたにもかかわらず、アフリカの状況は一向に改善されなかった。90年代にはいると援助疲れが蔓延し、開発は以前にも増して進まなくなってしまった。同じように発展途上にあった東南アジアではそれなりに開発が進んだにもかかわらず、何故アフリカでは辛酸をなめてきたのだろうか。

ヨーロッパ諸国の思惑から、従来あった部族ごとの住み分けを無視した形で国境が引かれたために争いが続き、それが大きくこの地域の発展に影響を及ぼしていると多くの人は言うだろう。もちろんそれも大きな理由のひとつだ。ヨーロッパ諸国は勝手に国境を引いてしまったばかりではない。開発援助にしても自分たちが理想とする開発の青写真を押しつけ、欧米的な考え方を主軸にしてプロジェクトを進めてきたのだろう。これではアフリカに春なんか訪れやしない。欧米諸国が「アフリカのためだ。世界平和のためだ。」と言いながら、自分たちの方法が最善だと信じて我を通すやり方は今もあまり変わっていないかもしれない。

     

ケニヤにILRAD(現 ILRI)と呼ばれる国際獣疫研究所がある。国際機関に属する獣医関係の研究所の中では最も大きい組織で、日本が第二の出資国である。ウガンダ滞在中に一度ケニヤに出かけたのは、この研究所を見学するためであった。当時、ここで行われていた研究は、タイレリアという寄生虫が引き起こす東海岸熱と呼ばれる病気と、トリパノゾーマのふたつに関するものだけで、他の重要な疾病については全く何も手をつけていなかった。僕は単純に、トリパノゾーマの研究では世界のトップクラスにあったILRADを一度訪れてみたいものだと、わざわざ夜行列車に乗って出かけたのである。研究所はナイロビ近郊の広大な敷地の中にあった。プールがあり、スカッシュ・コート、テニス・コートもある。建物の内部も広々としていて美しい。そしてそこで働いている研究者は予想通りほとんどが欧米人であった。研究の内容はといえば、トリパノゾーマに対するワクチンの開発と西アフリカの在来種であるンダマという牛の遺伝子解析が主である。このンダマという牛はトリパノゾーマの感染に対して抵抗性を持つことで知られていたため、その抵抗性を司る遺伝子を見つけようとしていた。しかしどちらの研究も当時、解決不可能と思える難問を抱えており、そんな先の見えない研究に湯水のごとく金を使い、しかもケニヤで進めなければいけない研究なのかと多くの疑問が湧いてきた。つまり研究所内で行われていたことと、フィールドで僕が見てきたことがあまりにもかけ離れていたために大きな違和感を覚えたのである。これは国際的研究所という性格上、特異な例なのかもしれないが、欧米諸国は多かれ少なかれこのようなひとりよがりの開発援助を進めてきたのではないかと感じた。幸せなことに、僕が訪れてから数年後にILRADはILRIと名称を変え、よりフィールドに根ざした研究へと方向転換を始め、多くの家畜疾病を対象としフィールドに結びついた研究をするようになった。

もうひとつ感じたのはアフリカ人自身の中にある素養というか能力の問題だ。能力といっても頭の良し悪しを言っているのではなく、組織だった持続的努力を必要とする開発援助のような仕事がこなせるかどうかという問題である。前にも書いた通り個々人の知的レベルはかなり高く、実際イギリスで会った多くのアフリカ出身者は話題が豊富でかつ話が面白かった。しかし彼らは往々にして他人の行動に対し批判的な態度を見せるものの、自分から積極的に物事に関わり改善していこうという様な主体性に欠けていた。自分は常に傍観者であり、面倒なことには積極的に参加しない傾向があった。こんな素養を持つ人が多い組織においては何か活動を始めてもすぐに批判ばかりが渦巻き、まとまりがつかなくなってしまう事だろう。自分たちの国や社会の開発をしていく上で、主体性を持って関わろうとする人が少なければ自ずと結果は見えている。私利私欲に走る人が多ければなおさらだ。そうしてアフリカは長年にわたる欧米の援助をスポンジのように吸い取り、それに見合う結果は生み出されなかった。アフリカにおける開発援助の失敗の原因は、援助国側にも被援助国側にもあったのだと僕は思う。

ではどのような開発援助を進めていけばよいのだろうか。開発という仕事にあまり適さない国民性を持つ国を、どうやって発展させていけばよいのだろうか。と、自問したところで、今の僕に答えられるわけがない。まだ、経験も何もないのだから。しかしただひとつだけ感覚的にわかったのは、それにあてはめればすべてうまくいくという数学の公式のような開発理論なんてありえないだろうということ。それぞれの国、ひとつひとつのプロジェクトで条件が異なってくるのだから、同じような方針で物事が進むわけがない。それにかかわる人間の素質も重要なポイントになる。立ちはだかる問題をどう解決していくのか、そこが腕の見せ所であり、人間関係が威力を発揮するところであり、成否の鍵をにぎる分岐点となるのだろう。何事にもモーティベーションが必要なんだ。

     

この2ヶ月間、沢山の思いが交錯し、色々なことを考えた。今はまだ答えが見つからないが、そのうちに少しは自分の中で整理がついてくるかもしれない。先に欧米諸国の悪口を書いたのでここで少し名誉挽回しておこう。今回、僕が行ったフィールド・ワークのように、学生を海外へ送って現地のスタッフとともに研修なり研究なりをさせるというのは非常に良い制度だと思う。コーネルからやって来たカサンドラとナンシーしかり、ケンブリッジの4人組しかり。彼女たちがウガンダで経験したり感じたりしたことは、帰国してから彼女たちの中で大きく成長していくことだろう。単に旅行をして得た経験とは質も重みも違うはずだ。学問的には取るに足りないことかもしれないが、人間としては大きな糧になったはずである。日本の大学ではどうしてこんな簡単な交流ができないのだろうか。教員が引率するような研修旅行ではなく、学生だけで送り出す海外研修をさせるべきだ。途上国にはこのUTROの様な研究所が沢山あり、日本から学生が研修に行きたいと申し入れれば喜んで受け入れてくれるだろう。そしてそういった場所でつちかった経験は少なからずその人間を成長させ、将来開発援助に携わろうと意気込む若者を育てる足がかりになるはずだ。長いことイギリスに住んでいつもサービスの悪さに文句を言い、食事のまずさを嘆き、天気の悪さに難癖をつけていたが、こればかりは感謝しなければいけないと心から思った。

ゲストハウスでの最後の晩はフィールドで一緒に働いたメンバーを招待して、ウガンダ製焼酎のような地酒をしこたま飲んだ。その騒ぎに驚いてかその晩カエルは姿を見せなかった。翌朝、二日酔いの頭で荷造りをし、UTROを離れることになる。よく遊んだ子供たちとUTROのスタッフが見送りに出てきてくれた。見送られるのはあまり好きではない。どんな言葉を返したところで全てが陳腐に響き、自分の気持ちなど言い表せないからだ。ちょうどよく走ってきた乗り合いタクシーを止めて飛び乗り、みんなに手を振った。車の中から後ろをふり向いて彼らの姿を見ていると、今まで自分のすぐまわりにあった現実が過ぎ去っていくのを実感する。きっと、チョークで壁に書いた落書きが雨にうたれて消えてしまうように、僕のことなんかいつか忘れてしまうんだろうなあという思いが心の中で揺れていた。(2002 年 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記)

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