地球の反対側へ向かう・・・
30時間以上かかる。飛行機に乗っている時間だけでも24時間以上だ。さすがに嫌になる。飛行機だと移動しているという実感もわかない。30時間という時の長さは飛行機の中で過ごす者にとって耐え難くある程だが、しかし地球を半周するには短すぎて寂しい気がする。僕らが生活しているこの星はそんなに小さくなってしまったのかという驚きさえ覚える。何年か前に東京から船でベネズエラまで航海を楽しんだことがあったが、その時は確か一ヶ月以上かけてののんびりした旅行だった。船の中では地球の大きさを毎日実感していたが、飛行機の中にあってはそんなことを感じることもできずに、機内食をせっせと腹に詰め込んでいた。
タイより帰国してからウルグアイへ向けて出発するまで3ヶ月もなかった。久しぶりに日本で正月を迎えることができたのは幸運であったが、すぐに専門家としての派遣と語学に関する5週間の研修が始まり、それが終わるとあわただしく準備をすませて飛行機に乗り込んだ。これでもう4度目の海外生活になるのだが出発時の慌ただしさはいつも全く同じで、未だに改善される気配すらない。学習しない男だ。出国審査を終えて飛行機に乗り込むと体から力が抜けて放心状態になる。しかしこれまではその虚脱状態から覚めやらぬうちに飛行機が着陸態勢に入ったものだが、今回ばかりは覚めた後も延々と続く飛行時間をもてあましていた。
モンテビデオのカラスコ空港に到着した。飛行機が空港の誘導路を走る。上空から見えた倉庫のような建物がターミナル・ビルだった。少し気分が地味になり、疲れ切った体が余計に重くなる。車に乗って街へ向かう。林の中を抜けてしばらくするとビーチに突き当たった。そこからはその浜辺に沿って車は走っていく。もうそろそろ夏も終わりらしい。それでもビーチには肌を焼いている人やビーチバレーに興じている若者達が大勢いた。砂は白くて目に眩しいが水はとてもきれいとは言い難い。この茶色く濁っている水を見てこれが川だということを思い出した。
ラ・プラタ河の全長は4800キロ。アマゾンに次ぐ南米第二の河川である。南米の川はほとんどが濁っているから仕方がないとは思っても、やっぱり澄んだ水だったらどんなに気持ちが安らぐかと残念でならない。しかし濁ってはいても汚染されているわけではないだろう。ラ・プラタ河のウルグアイ側には粒が大きめの白い砂のビーチが続くため、市民はその美しいビーチを大切にしている。しかし同じラ・プラタ河でもアルゼンチン側には粘土質の細かい粒の砂が堆積するため、日光浴や水浴びには向かない。これは地球の自転の影響らしい。それゆえ夏の間にはアルゼンチン側から大勢の観光客がウルグアイへ遊びにやって来る。実際、200キロしか離れていないにもかかわらず、ブエノス・アイレスの夏は東京のように蒸し暑くて不快なことこの上ないが、モンテビデオはからっと晴れ渡り、朝晩にはジャケットを羽織りたくなるような美しい夏を楽しめる。
このウルグアイは地球上で日本の真裏に位置する国である。それゆえ四季も逆になるがきちんとある。夏は日差しが強いもののカラッとしていて朝晩は非常に過ごしやすい。冬はさほど冷え込むわけではないが、風雨の強い日が多いので体感温度はかなり下がる。国土面積は日本の約半分、そこに横浜市と同じくらいの人口しか住んでいない。国内は延々となだらかな丘陵地帯が続いており、最も標高の高いところでも500メートル程度である。それゆえ国土は肉牛の生産に向いており、20世紀の大戦中は世界の食料庫として大もうけをし、国が豊かになった。その頃にウルグアイが参加国すべての費用を賄ってサッカー・ワールドカップの第一回大会を開催している。もちろん優勝したのはウルグアイであるが。
現在でも国の経済は畜産と木材に依存しており、国民の畜産に対する関心は強い。しかしいずれにしろ南米の大国、アルゼンチンとブラジルに挟まれている小国であるから、どうしたってその影響から逃れることはできず、昨今のアルゼンチンの経済危機によってウルグアイ経済も相当な打撃を受けている。
僕が感じたモンテビデオの印象は「ヨーロッパ地中海岸の田舎にある中都市」であった。昔金持ちだったという国はたいてい立派な街並みを残しているものだが、このモンテビデオも例外ではない。そして歩いている人たちは皆白人系だ。他の南米諸国とは違い、ウルグアイではインディオ系の人をほとんど見かけない。白人がこの土地へやって来た時にみんな殺してしまったのだそうだ。それゆえ現在のウルグアイ人はスペイン人かイタリア人の子孫ばかりである。というわけで必然的に美男美女も多い。特に若者はスタイルが良く、顔が小さく、日本人とはちょいと違う。しかし中年になるまでには男も女も太ってしまい、若い頃の見る影もなくなってしまうのはやはりヨーロッパ人らしい。しかも顔まで大きくなってしまうから不思議だ。
僕はパン・アメリカーノと呼ばれているアパートに入居した。何と築40年であるがウルグアイがまだお金持ちだった頃に建てられたアパートだったので、新しいところよりも住み心地は良いという評判であった。実際、造りはしっかりしており、しかも床暖房なので冬でも快適に過ごすことができた。ロケーションもこれまた良いところにあり、一方にはポシートス地区のモンテビデオで一番賑わうビーチが、そしてもう一方にはブセオ地区のヨット・ハーバーを眺めることができた。豊かだった時代の産物は建物ばかりではない。社会制度もなかなか整っており、公共料金の支払い等はほとんどスーパーマーケットのレジや、街の至る所にあるアビタブと呼ばれる支払所で済ませることができた。また金融システムも発達していて、国中どこでもウルグアイ・ペソとUSドルが併用されていた。最も銀行口座の維持には毎月手数料がかかったが。
さてウルグアイ人は週末何をしているのであろうか。夏であればまずビーチで遊んでいるだろう。「彼らはいつ仕事をするんだろうか」と不思議に思うほど、平日であってもビーチは賑わっている。中高年からお年寄りになると日がな一日ビーチに座っておしゃべりに花を咲かせている。 それ以外の季節でも「この週末はどうすんの」と聞くと、たいてい「Caminando por Ramblar(ランブラーを散歩する)」という答えが返ってきた。このランブラーというのはビーチ沿いに走っている通りの名前で、広い遊歩道が整備されている。その通りを、左手にボンビージャを入れたマテ(マテチャを飲むための道具)を持ち、脇の下には湯を満たしたポットを抱えて友達や家族とブラブラ歩くのだ。これが典型的なウルグアイ人のスタイルである。そして夏になると右手に折り畳み式の椅子を抱える人が多くなる。左手にはマテとポット、そして右手に椅子というのがモンテビデオの3点セットだ。ビーチにゆっくり腰を下ろしてマテをすするわけである。しかも1時間や2時間という単位ではなく、半日とか1日中いたりするので忙しない日本人には真似ができない。まあこれが一番安上がりだし、他に行くところもないのだろう。
僕はというと天気の良い日は日本から持ち込んだインフレータブル・カヤックをふくらませ、アパートの前のヨット・ハーバーからラ・プラタ河へ漕ぎ出して行った。二重構造になったヘビー・デューティーなカヤックで、スピードは遅いが安定性は良かった。湾内に繋留されている豪華なヨットの間を縫って、滑るように進んでいく。ヨット・ハーバー内は防波堤で守られているために静かだが、一旦外に出るとかなり波にもまれるので、最初に漕ぎ出した時には身の危険を感じたほどだ。これが川なんだから約束違反もいいところ。特にモンテビデオあたりから一段と川幅が増しており、河口のプンタ・デル・エステあたりでは最大で220キロに及んでいる。モンテビデオからアルゼンチンのブエノス・アイレスまでは200キロ、その対岸(ウルグアイ側)にあるコロニア・デル・サクラメントという街まで行ってもブエノス・アイレスが見えることはほとんどない。
というわけでほとんど海のような川だ。川の流れがゆったりしているおかげで上流へ向かおうが下流へ向かおうが、カヤックのスピードは全く変わらずに進むことができる。しかし川の流れとは無関係に潮の流れか風による水の流れのようなものがあり、カヤックを止めて本を読んだりしていると、日によって沖へ流されていったり岸辺へ近づいて行ったりした。実際、大西洋側から東風が吹くと海水が押し込まれてきて水が透き通る。そういう日は絶好のカヤック日和で、水面に近い視線でモンテビデオの街並みを眺めながらカヤックの上で音楽を聴いているのが好きだった。海水に乗ってやって来るのだろうか、オットセイを見かけたこともある。
これだけ海に近いともちろん新鮮な魚が市場に並ぶ。防波堤で釣りをする人も多く、一年中見かける。釣れるのはコルビナ(イシモチの仲間)、スズキ、ヒラメ、ペヘレイ、ナマズなどだ。アパートの近くにフィッシュ・マーケットがあり毎日多くの人が買いにやってくるが、日本人にはなじみの薄い魚が多くて手が出ない。大西洋岸の港では刺身にするようなマグロも水揚げされると聞くが、ほとんどが冷凍にされて日本へ輸出されるらしい。僕らもよく海の近くまで釣りに出かけたが、たまに釣れた魚を持ち帰って食べても今ひとつ大味で好きにはなれなかった(もちろん料理の腕前も悪いのだが)。ウルグアイで食事に招待されるとまず魚は出てこない。99%肉だと思ってよい。国民ひとりあたりの牛肉年間消費量が60キロと、アルゼンチンと並んで世界一の牛肉消費国である。海の幸に恵まれてはいても、国民が好きなのは肉である。太るのも当たり前だ。
では肉をどうやって食べるのかというと、アサードと呼ばれるウルグアイ式焼き肉で振る舞われることが多い。どんな家庭でも必ず庭にアサード用の設備を整えている。肉は大きなブロックのまま、もちろん内蔵系も食べる。ちょっと珍しいところでは胸腺や腎臓も食される。チョリソという太いソーセージや、モルシージャと呼ばれる血を含んだソーセージも定番だ。アサードを焼く場所には木を燃やすところと肉を並べて焼く場所が隣り合わせになっている。まず木を燃やし始め、その間に隣にある網の上に食材を並べていく。木が燃え尽きて灰になるかならないかという時にその燃えかすを網の下に広げていく。つまり弱い火でじっくりと肉を焼いていくのである。こうすることによって余分な脂肪が落ち、かつ肉の中心までよく火が通るという。肉が焼けるまでにかかる所要時間は2時間くらいか。これがなかなか待ち遠しい。
肉やチョリソが焼き上がると切り分けて皿に取る。もちろんサラダなども別に用意しておいてくれるので野菜不足にはならないが、ウルグアイ人の中には肉ばかり食べてほとんど野菜類を食べない人がいるので驚く。基本的にフランス人や日本人が好むたぐいのソースはつけて食べないが、チミチュリというハーブと酢やオイルを混ぜたホームメード・ソース(というよりはドレッシングの様だが)を用意している家やレストランもある。肉自体はかなり淡泊であり、日本人が好む脂ののったジューシーな肉とは全く異なる。しかしだからこそ量が食べられるのだろう。チョリソやモルシージャは日本人の口にあっておいしい。内臓系で特に気に入っていたのは胸腺で、やわらかく味にコクがあり、しかも量が少なく上品なところがいい。
そのアサードと一緒に飲むお酒はもちろん赤ワインである。ウルグアイはワインの名産地だ。生産量が少ないために輸出量はそれほど多くないが、国内には質の高いワインがゴロゴロしていた。日本ではアルゼンチンやチリのワインが有名だが、大量生産されているそれらのワインはウルグアイ産に比べると味に深みがなく、余程のことがない限り手にすることはなかった。僕自身、ウルグアイに来るまでは全くワインの味などわからず(特に赤は)どれを飲んでもたいしておいしいとは感じなかったが、ウルグアイ滞在中に鍛えられてかなり味がわかるようになったと自負している。
そのウルグアイ産ワインを特別なものにしている大きな理由のひとつにタンナットと呼ばれる葡萄の種類があげられる。この葡萄はフランスの一部とウルグアイでしか栽培されておらず、お隣のアルゼンチンでさえタンナットから作ったワインにはお目にかかれない。タンニン酸を多く含む葡萄で肉に含まれる脂肪を洗い流す作用がある。独特の渋みが強いものの、大量の肉を消費するウルグアイ人の食生活には良く合ったワインだ。それゆえどのボデガ(ワイナリー)もメルローやカベルネット・サービニオンといった世界的に人気のある葡萄から作ったワインの他に、このタンナットのワインも生産している。ウルグアイ人が表現するには、「真綿で首を絞めるような喉ごし」の渋みなんだという。
数あるワインの中でも僕が気に入っていたのはピサノという銘柄のワインである。このボデガは職場から比較的近い場所にあっため、しばしば車で出かけて行っては内部を見学させていただいたり、ヴィンヤード(葡萄畑)を散歩したり、試飲させていただいたりしていた。帰り際にはワインも大量に購入して日々の生活に備えていたのはもちろんである。このボデガは創業が1924年、イタリア移民のピサノさんが始めたそうで、その時に植えたタンナットの木がまだ10本ほど残してあった。今では3代目の3兄弟が受け継いでいる。一番上のお兄さんがセールスを、真ん中がボデガを、そして一番下の弟がヴィンヤードを担当しているという。喧嘩をしないようにちゃんと仕事の振り分けをしている。
二代目である彼らのお父さんも健在で、僕がお客さんを連れて行くとよく中を案内してくれた。日本から来た母を連れて行った時には、ヴィンヤードに咲いていた薔薇の花を摘んで渡してくれたりと、さすがイタリア系はやることが違うと感心した。ボデガの内部には創業当時から使い続けている古めかしい大樽が並び、その奥には真新しいステンレスのとてつもなく大きい発酵用のタンクがそびえている。ウルグアイでの葡萄の収穫は3月だ。摘み穫られた葡萄をまず洗い、その後果汁を絞り出す。そしてフィルターを通した後で樽やタンクに詰めて発酵させる。
高級なワインはフランスやアメリカから輸入した木の樽の中で寝かせられる。この樽の木にもタンニン酸が含まれており、寝かせている間にそれが葡萄のタンニン酸とブレンドされるのだそうだ。それゆえこの樽は5年しか使えないのだという。そうして作られたワインには「R.P.F.」という表示がついている。これは「Reserva Personal de la Familia」の略で、「家族用に作られたもの」という意味だ。このワインは本当に深い色をしている。口に含むと芳醇な自然の香りが口の中で飽和し、喉をすべっていった後にはしびれるような感覚が残る。このピサノのワインはイタリアを初めとする欧米10カ国以上に輸出されているとのこと。東京で開催されたJETROの食品展にも出品されているので、日本で味わえる日も近いかも知れない。
ウルグアイでは1999年にひどい干ばつがあり、その年は畜産業や農作物が大きな被害を被った。しかし逆に葡萄は干ばつのおかげで果汁が濃縮され、その翌年作られたワインは濃厚で香りが良く非常に味が良かった。全く何が幸いするかわからないところがワイン好きにはたまらないのだろう。
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