人間関係を探る・・・

さて肝心のお仕事である。ウルグアイでもタイと同じ様な家畜衛生分野の開発援助プロジェクトが1996年に始められ、僕はその後半から専門家として派遣されることになった。違いといえば担当する分野が細菌学に変わったことか。細菌自体をあまり扱ったことがなかったので最初は辞退したのであるが、細菌の分離、培養、同定などの基本的な技術に関しては前任の専門家が指導済みであるとのこと。僕には、細菌を素材として免疫学的、分子生物学的なテクニックを駆使した診断法の確立やそれを使ったフィールド・ワークを求められていたので、それならばとありがたい申し出をお受けすることにした。

プロジェクトの名称は「ウルグアイ国立獣医研究所強化計画」である。農牧省の一機関である獣医研究所内の4部門(ウイルス、細菌、繁殖病理、実験動物)を対象として、その機能強化を図るプロジェクトであり、詳細な実施計画はタイのプロジェクトと同様に細かく作られていた。この研究所はその昔、Miguel C. Rubinoという世界的に著名な研究者を排出したことから、国内では「Rubino」という名前でよく知られている。サイトはモンテビデオ郊外、空港の先に位置する。街の中心部からは30キロくらいの距離で、毎朝、河沿いにくねくねと走るランブラー通りを運転して職場に向かう。

研究所の敷地はかなり広大であり、その真ん中に赤いレンガ造りの細長い二階建てが2棟並んで建っている。そしてその周りにはやはりレンガ造りの小さな建物が散在しており、全部で10戸程度並んでいただろうか。晴れた日に、まぶしい緑の芝の上に赤い建物が並んでいる姿を目にするといとおしくさえ感じたが、内部はかなり痛んでおりいとおしさどころか憤りを覚えることがしばしばであった。

建物の古さもさることながら、ここで働いているスタッフも相当に古い。若い力がいないのである。慢性的な財政難にあえぐ政府の方針でここ10年ばかり新卒の採用をストップしているため、一番若いスタッフでも僕と同年代であった。できれば若い世代に技術移転をした方がより効率良く仕事が進められるし、また技術も定着するのであるが、こればかりは口出ししても仕方がないことなので文句も言えない。

さてその高年齢スタッフの多くはこの研究所でかれこれ10年も20年も働いているような強者揃いである。しかもほとんどメンバーが替わっていない。おみくじみたいに箱を振ってシャッフルするわけにもいかない。それゆえ内部の人間関係はなかなか複雑であり、その解析を試みるのが僕の密かな楽しみとなった。パーティーの時の話の輪やちょっとした言葉の端々に気をつけていると、誰が誰を快く思っていないのかが見えてくるから面白い。これもアガサ・クリスティーばかり読んでいた悪影響であろうか。

僕が所属していた細菌学研究室の室長はマンリケ・ラボルデというおじさんだ。一見スノッブなインテリ風、ユーモアを交えて話す口振りにはある程度の説得力もある。しかし彼はケチだった。いくら能力があろうと人の上に立つ人間がケチだと部下がついてこないのはどこの世界も同じなのか、研究室内でマンリケには人望がなかった。しかもちょっとしたことでも自分では手を出さずに人にやらせようとする。そこらあたりのことを「マンリケも偉くなったのか全然動かないねえ」と、ある人に言ったら、「彼は若い時からそうだったよ」という答えが返ってきた。そうか、やっぱり人間の性格は年を取っても変わらないんだなあと実感した。

さてその細菌学研究室は3つのセクションに分かれていた。診断、製造、それにレプトスピラだ。診断の部屋にはビクトリア、マリアニータ、ネストルという3人の獣医とテクニシャンのシルビアがいた。ネストル以外はみんな女性だ。

この部屋では主として野外から持ち込まれた細菌性疾患を疑う材料の診断を行っている。責任者はビクトリアで、ブロンド・ヘアで小柄な感じのいい女性だ。肌を焼くのが好きなウルグアイ人の典型で、年のせいもありかなり肌が荒れている。それを見て、日本に一時帰国した専門家のひとりが彼女へのおみやげにアロエ・クリームを買ってきた。「これを塗ると肌が綺麗になる」と言って渡したそうであるが、何とも無謀なことをする人がいるものだ。さすがの僕でもそんな失礼なことはできない。マリアニータは大人しく目立つのが嫌いな女性だったが、診断の部屋にはなくてはならない存在であった。シルビアは肝っ玉母さん的なところがあり、何でもはきはきとものを言い、てきぱきと仕事をこなしていた。診断の部屋を陰で取り仕切っているというような存在だ。               

ネストルはこの女性3人組とはちょっと距離を置いていた。自分で小さなラボを作り、そこで分子生物学的な診断を行っていた。それゆえ僕が一番よく一緒に仕事をしていた同僚でもある。ネストルには何か物事を斜に構えて眺めているような部分があり、冷めた目で周りの人間を見ていた。自分の気持ちを隠すようなことをしないので、ストレートでわかりやすい。しかしその分トラブルも多く、特にビクトリアとはうまくいっていなかった。彼は酒好きのヘビースモーカーで、話は面白いが口が悪いので敵も多い。細菌学研究室内ではマイナーな存在であった。しかし何故か他の研究室の人間には人望があるようで、彼の小さな実験室には入れかわり立ちかわり色々な人がやって来る。

その部屋の隣には男所帯である繁殖の研究室があり、ネストルはそこのむさ苦しいメンバーたちと親しくしていた。自分の部屋にいない時にはいつもその繁殖の部屋でタバコをふかし、マテをすすっておしゃべりしている。実際に一度、細菌の研究室から繁殖病理の研究室へ鞍替えしようと画策したことがあったが、最後の最後であっけなくマンリケがネストルの企みを反故にしてしまった。

さて製造の部屋だ。ここでは結核とブルセラという細菌関係では最も重要な二つの病気を扱っている。その名の通り結核診断用のツベルクリン液とブルセラ診断用の抗原液を製造している。この部屋の責任者はマリエラという女性の獣医で僕と同い年、執務室(そんなたいそうなものではないが)を彼女とふたりでシェアしていた。実際の仕事は4人のテクニシャン(製造ボーイズ)が担当しており、マリエラは彼らを監督するという立場にあった。

しかしそのマリエラは何でも思いつきで仕事を始めるためにまわりが振り回されてしまう。しかも彼女が手を出すと何もかもがうまくいかなくなった。機械にさわれば壊れ、これは私のせいではないとわめき、頭に血が上るとまわりの声が耳に入らなくなる。そんな調子なので製造ボーイズに信頼などされてやいない。しかし彼らもいちおう部下なのでマリエラに頼まれるとやらざるを得ない。それで僕のところへ来て愚痴を言い始めるため、ああまたかとかなりうんざりしていた。

その製造ボーイズ、ふたりはブルセラの診断を担当しており、あとのふたりが製造にかかわっている。製造は外部へ売る(輸出もしている)商品を作っているわけであるから、いい加減なことはできない。それゆえ製造担当のふたりの技術はたいしたものであった。彼らの部屋はいつもきれいにかたづいており、きちんきちんと仕事をこなしていく。それとは好対照なのが診断担当のふたりで、彼らの部屋の汚いことといったら。これもひとりひとりの性格の違いによるのだろうが、この研究所でもやはり向き不向きを見て担当を決めているのだなあと少し安心した。

そして最後のひとつがレプトスピラのセクションである。何故、この病気だけ別にしたかというと、その担当者があまりにも変人であるためにひとりにせざるを得なかったからだ。彼女の名はブランカ、細菌研究室で一番年上の古株で、研究所の3大キチガイ女のひとりである。髪の毛を赤く染めており、その色がどぎつい日には気をつけるようにと言われていた。一応レプトスピラを扱っているだけあり、感心にも部屋には野口英世の写真が飾ってあるが(野口英世が世界で最初にレプトスピラ菌を発見した)、みんなそんなことで騙されたりはしない。まず彼女のことを良く言う人はいなかった。彼女の行くところにはトラブルが発生する。彼女の部屋に供与した機材は頻繁に故障した。マンリケは何とか彼女の後継者を育てようと何人かのスタッフを彼女のもとへ送ったが、ことごとく撃沈された。マリアニータもそのひとりで、温厚な彼女だがブランカの悪口だけははっきりと言う。ブランカは言いたいことを言い、やりたいことをやってトラブルを巻き起こすが、本人は気にもとめていないのでストレスなどたまらない様だ。いい性格をしている。

僕がスペイン語でどうにか意志の疎通ができるようになってきた頃、怖いもの見たさも手伝ってそのブランカと仕事を始めることにした。どういう風の吹きまわしか僕に対してはキレルこともなく、それなりにつき合って仕事をしていた。もちろんウルグアイ人スタッフではないので彼女もそれなりに気を遣ったのだろう。しかしあまりブランカとばかり仕事をしていると、まわりの人間から「ヨシは赤(ブランカの髪の色)に染まりつつある」と仲間はずれにされそうだったので、そこは適当に距離を置いていた。という大変な人であったので彼女は研究所の中でも浮いた存在であったが、彼女自身はそんなことは気にもとめていない様に見えた。

もうひとつ僕が頻繁に出入りしていたのは、繁殖病理研究室に属する繁殖の部屋だった。ネストルのお友達がいるところである。この部屋にはレアンドロとペドロという獣医が二人と、アンヘルとロレンツォというテクニシャンが二人いた。

レアンドロは研究熱心でコツコツと仕事をするまじめな男だったが、あまり自分のことを周りの人に話さない人なので、僕にばかりでなくウルグアイ人の同僚にとっても何を考えているのだか計り知れないところがある。ペドロは大柄でハンサムな人のいい男で、一緒に仕事をしていてとても楽な相棒であった。話題が豊富なので話をしていても面白いし、みんなに頼られるタイプの性格をしている。

アンヘルとロレンツォはどちらも個性の強いふたりだ。アンヘルは不健康が服を着て歩いているような人で、僕がいた2年半の間に大病を2度もしていた。そのくせヘビー・スモーカーで、臨月に近い腹をしながら酒は好き、肉は好き、スポーツは嫌い、健康になれるはずがない。ロレンツォも酒好き肉好きの大男だったが、こちらは体を鍛えていたのでアンヘルとはまるで体型が違っていた。このアンヘルとネストルが大の仲良しだった。ロレンツォはレアンドロを気に入っていたが、ペドロのことはあまり良く言わない。ペドロはといえばそんなことは超越していて気にもしていなかった。この繁殖の部屋と細菌研究室の診断の部屋は何故か仲が良く、誰かの誕生日には必ず昼にパーティーを開いてワインをしこたま飲んだりする。が、そんな時でもマリエラやブランカを誘うことは全くなかった。

以上が研究所内で僕のまわりにいた人たちの様子である。集団主義的なタイ社会とは対照的に、欧米系のウルグアイ社会は個人主義的であり、かつ上下の権力格差が少ないため、地位や年齢に関係なく個人個人が自分の意見をはっきり主張する。それゆえ口論になることもしばしばあったが、逆にそれが尾を引くことはほとんどなかった(少なくとも表面上は)。タイでは自分を押し殺しても集団の中で良い人間関係を築くことが大切であったが、ここでは個人的な好き嫌いをより全面に出した上で良い人間関係を保っていく様なところがあり、僕にとってはとても気楽に仕事をすることができた。

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