ロボス島へ渡る・・・
モンテビデオからラプラタ河沿いに東へ約140キロ、一時間半ほど車を走らせると南米でも有数のリゾート地、プンタ・デル・エステに到着する。土地の値段はリオよりも高いんだと豪語する人もいるが、これは定かではない。かの有名なガットのウルグアイ・ラウンドは、ここプンタ・デル・エステの古いホテルで開かれた。お金持ちのアルゼンチニアンの豪華な別荘や彼らが利用する高級ホテルが建ち並び、ほとんどアルゼンチンの領土と化している。アルゼンチンの元フットボーラー、マラドーナもここに別荘を持ち、麻薬所持で逮捕されたことがあった。以前からマラドーナには知性のかけらも感じていなかったのだが、やっぱり他人の国に来てこんな悪事を働いていたわけだ。
この街の沖、10km程のところにロボス島が浮かんでいる。イギリス軍の侵略時(1806年)には多くの囚人が水も食料もろくにないこの島に連れて来られたらしい。「ロボ」はスペイン語でオオカミのこと、ロボ・マリーノとなるとアザラシの仲間を意味する。現在ではオットセイとトドの繁殖地として知られており、農牧省と海軍によって保護、管理されている。島には、駐在するスタッフの宿泊施設と南米で2番目に高い燈台の他には特別な施設はなく、約30万頭のオットセイがこの小さな島の海岸沿いに棲んでいる。この島へ渡るには、認可を受けたプンタデルエステの旅行会社の船をチャーターするか、定期遊覧船に乗るかだ。港の桟橋のまわりには露天の魚売りが捨てる魚屑を目当てにオットセイや大きなトドがうろついており、それを見ようと人垣ができる。こんな町中の港でも野生の海洋動物が見られるのかと驚いたのは日本人ばかりではないらしい。
それにしてもトドはでかい。オットセイは体も小さくて桟橋の上には登ってこられないのだが、トドはよっこらしょと上がってくる。その首の太さ、黒光りしたからだ、ライオンのように首の回りに生えた長い毛、うーん何ともグロテスクで「トド男ちゃん、いい子いい子」と頭を撫でてあげるなどという気は毛頭起こらない。魚屋のおじちゃん達は慣れたもので気にもとめていないし、追っ払おうと脅して手を挙げると、体はトドの方が何倍も大きいのに首をすくめて避ける。トドがその気になれば人間なんかなぎ倒し、露天に並んでいるおいしそうな魚をみんな平らげることはできるというのに何でそうしないのか。行儀がいいのかおとなしいのか、「勇気を出してそこの右側の貧相なおじさんを襲ってみなさい」とハッパをかけたくもなる。
さてそんなトドとオットセイと見物人達を後にして船が港を出ると、島はもうすぐ近くに見える。しかし思ったよりも遠いらしく、約一時間ほど荒波にゆられながらマテをすすってようやく到着した。桟橋の左側の磯には所狭しとオットセイが寝そべっており、海の中からも沢山のつぶらな瞳が突然の来訪者を見つめていた。波が高くて船が桟橋に接岸できず、いったんゴムボートに移ってからの上陸となった。島のほとんどは繁殖保護地になっているため自由に散策できるわけではない。駐在するスタッフのひとりに付き添われ、桟橋に隣接する浜で観察した後、燈台に上らせて頂いた。オットセイとトドでは島の中で棲み分けがされているようだ。桟橋の左側の岩場にはオットセイが陣取り、右側の浜にはトドが群れていた。背景にはプンタデルエステのビル群が眺められ、あんなに賑やかなリゾート地の近くでもこんなに沢山の動物が繁殖できるのだなあといたく感心した。カメラのファインダーをのぞくと不思議な光景が切り取られる。
これだけの数の動物がいるのだから漂う匂いに心が洗われるような、というわけにはいかない。むしろ鼻の中が荒れてしまうようなひどい臭いであったが、まあそれは致し方ない。臭いを相殺しても余りあるくらいに子供たちの眼がクリクリしていて愛らしく、ひとり一匹ずつ欲しいところであったが、アパートの風呂で遊ばしておくわけにもいかないだろう。燈台に上ると島の全体が見渡せる。島の中は何もない荒れ地だが、海岸には無数の黒い固まりが寝そべっており、海の中でもうごめいている姿がカメラの望遠レンズ越しに見えた。
さてここで鰭脚(あしひれ)を持つ海洋哺乳動物についておさらいをしておきたい。いったいどの位の人がアシカとオットセイとアザラシとトドとセイウチの違いを説明できるだろうか。これらの海洋哺乳動物は鰭脚上科(superfamily Pinnipedia)に属し、更に3つのグループ(family:科)に分類される。
ひとつめはアシカの仲間(family Otariidae)だ。英語でeared sealsと言われるとおり、外部に突き出た耳を持っている。アシカとはこのグループ(アシカ科)の名前で、ある特定の動物につけられた名前ではない。オットセイ(fur seals)とトド(sea lions)がこのグループの主役達だ。
次のグループがアザラシの仲間で、英語名はtrue sealsだからほんまもんのアザラシ達がここに属す。ウルグアイの近く、アルゼンチンのバルデス半島で繁殖する非常に大きなゾウアザラシもこのグループの一員で、外部から耳が見えないのが特徴だ。今や横浜市民となって人気を集めているタマちゃんもこの仲間である。鶴見川や帷子川の橋脚の上で移動する時、お腹でホッピングするように動いていることに気がついた人も多いであろう。あの歩き方もこのグループの特徴である。余談であるが日本に帰ると僕も横浜市民である。タマちゃんを住民登録したことに関しては「何で?」と首をかしげたが、よく考えてみれば自分もほとんど住民税を払っていないのであまり偉そうなことは言えない。
そして第三のグループはセイウチ(walruses)の仲間。やはり外部に耳を持たないのだが、大きな牙があるのが他の2グループと異なる特徴。この他に泳ぎ方にもグループによって違いが見られる。主な特徴を次の表にまとめた。
Order Carnivora, superfamily Pinnipedia
(http://ourworld.compuserve.com/homepages/jaap/Pinniped.htmを参照)
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アシカ
(オットセイ、トド等)
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アザラシ
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セイウチ
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学名および
英語名
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Otariidae:
Eared seals
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Phocidae:
True seals
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Odobenidae:
Walruses
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外部の耳
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あり
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なし
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なし
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尻尾
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小さいのがある
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小さいのがある
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なし
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牙
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なし
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なし
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あり
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後ろの鰭(フリッパー)
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前方に動かして歩くことができる。
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前方に動かせない。
歩くときは腹部で跳びはねて進む。
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前方に動かして歩くことができる。
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前部フリッパー
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体重をサポートできる
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ー
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体重をサポートできる
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泳ぎ方
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主に前部フリッパーで推進力を産む。
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後部フリッパーを左右に回す。
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主に後部フリッパーで推進力を産む。
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このロボス島で繁殖しているオットセイの英名はSouth American fur seal (学名はArctocephalus australis) という。南アメリカの大西洋岸はブラジル南部からアルゼンチンの最南端、ティエラ諸島にかけて、太平洋岸はペルーのリマを北限に生息している。その他にフォークランド諸島(アルゼンチニアンにはマルビーナスと言わないと怒られる)にも繁殖地があるが、そこのオットセイは大陸側のとは少し異なる亜種だということだ。南米に分布するその他のオットセイは、ガラパゴス諸島のみに生息するガラパゴス・オットセイ、チリのフアン・フェルナンデス諸島とサン・フェリックス諸島で見られるフアン・フェルナンデス・オットセイの2種だけなので、南米でオットセイを見かけたらほぼ間違いなくこの南アメリカ・オットセイである。
体格は比較的がっしりしておりフィンは細くて長め、鼻がツンととんがっていてちょっとスノッブな都会の似合うオットセイである。オスはだいたい2メートル位まで成長し、体重は200キロ近くになる。一方メスはかなり小さく、体長は1.5メートルだが体重は50キロ程しかない。子供は出産時で3ー5キロ、60−65センチ程度である。メスは3才で成熟するが、オスは7年もかかる。妊娠率は82%、妊娠期間は1年、哺乳期間は6−12ヶ月、寿命はまだわかっていないそうだ。フォークランド諸島に2万頭程度がいるそうだが、やはり最大の繁殖地はこのロボス島で、30万頭前後が保護されている。
トドは英名をSouthern sea lionと言い、学名はOtaria byronia(又はOtaria flavescens)、生息地は大西洋岸で南緯23度(リオデジャネイロ近辺)以南、太平洋岸は南緯4度が北限だ。オスは平均して体長2.6メートル、体重が300キロ、メスは体長2メートル、150キロにまで成長するという。出産時の子供でさえ体長が80センチ、体重は10から15キロもあるそうだ。やはりメスの方が成熟するのは早く4年間、オスは5−6年かかる。妊娠期間は1年、哺乳期間は6−12ヶ月、寿命は約20年。オットセイと同じ地域に生息するものの、相互に干渉しあったり競合したりする事は稀で、共棲関係が成り立っているとのこと、ロボス島でもうまく生活を共にしているのだろう。少し古いのだが1982年の調査では南米全体で約30万頭が生息していると推定され、そのうちの10%(3万頭)程度がウルグアイにいるそうだ。
話は少々飛ぶが、我々の仲間数人で時折釣りに出かけた。よく行ったのがプンタデルエステのひとつ手前にあるピリアポリスという若干小さめのリゾート地だ。ここにもブエノスアイレスからの定期船が就航しており、なかなか落ち着いた良い雰囲気の街並みがある。桟橋からの投げ釣りを楽しみに出かけるのだが、実際に楽しめる事は非常に稀で多くは餌代(エビを使うのですごく高い)の元も取れずにあきらめる。しかし近くでオットセイが泳いでいたり、波間にイルカの背びれが見えたり、釣り上げた魚にウミガメが食いついたりと生き物は豊かで面白い。
とある土曜日、いつも通りに手応えが全くなく、場所を変えようと街からもう少し離れたところに良さそうな磯を見つけて糸を垂れた。しかしやはりここでも反応が無く、あきらめて竿を畳み帰路についた。車を走らせて間もなくピリアポリスのビーチを通りかかったところ、何やら黒い二頭の物体が浜辺でじゃれあっているではないか。タイ人よろしく後続車の迷惑も顧みず、すぐに車を停めてビーチへ下りて行った。
その黒く蠢く物体の正体は子供のオットセイだった。そのビーチの一角は海洋動物を保護するボランティア・グループの活動基地となっていた。親にはぐれて弱ったり死にかけている動物を保護して育て、再び自然へ帰す活動をしている。その二頭のベィビー・オットセイも親にはぐれてさまよっていたところを救われ、この浜で育てられているとの事だった。近くのロボス島にあんなに大きなコロニーがあるのだから、何かしらの事故に遭ったり病気になったりしてはぐれてしまう子供は多い事だろう。彼らはしばらく水の中でじゃれ合うように仲良く遊んでいたのだが、面倒を見ているグループの人がオットセイの鳴き声をまねして呼ぶと、ちゃんと浜辺へ戻って来るではないか。二頭は餌をもらってからしばらくの間、見物に集まってきた人たちに愛嬌を振りまいていた。その他にも具合の悪そうな若いオットセイが一頭と、ペンギンが十数頭ばかり保護されていた。
このあたりは南からの冷たい海流の関係でラプラタ川に迷い込んでくるペンギンが多いという。稀にクジラさえもモンテビデオあたりまで入り込んできてしまい、数年前には救援隊も出動したそうだ。実際に一度、このピリアポリスとプンタ・デル・エステの中間にあるプンタ・バジェーナという岬でクジラの群を見たことがあった。2頭のつがいが4組、潮を噴き上げたり胸びれを海面上に出したりして悠々と泳いでいた。ちなみに「バジェーナ」とはスペイン語でクジラという意味である。
それから数ヶ月後、もう一度その浜へ出かけてみた。いつも通りアタリさえも全くない釣果ゼロの典型的な日、昼前に早々と竿を畳んであのベィビー・オットセイ達の様子を見ようと思い立った。浜に降り立ってみると、おやおやいるではないか。あの時と変わりなく愛くるしい瞳をくるくるさせて餌をもらっていた。ところがあまり成長していない様子だったので尋ねてみたところ、あの数ヶ月前にいた二頭はとっくの昔に野生に帰しており、このベィビー達はつい最近保護された別の個体とのこと、ああそうかと納得した次第だ。その時は全部で三頭の子供が保護されており、僕以上に食欲旺盛で何とか餌をもらおうと世話をしている人の後を追いかけて歩いていた。
前回お目にかかった具合の悪そうな若いオットセイは、やはり同じところで同じように具合悪そうにしていた。その他にもう一頭病気の子供がいる。「獣医なんだから看てみろ」と言われてこわごわ観察、いやいや診察してみたところ、後ろのフリッパーが炎症か何かで腫れているのがわかった。まあそんなことくらいは誰が見ても明らかなのだが、かといってどんな治療をしたら良いのかもわからない。体温を測ってもオットセイの正常体温が何度位なのかも知らず、無知は無害どころかそれ以下だなあと恥じ入った次第だ。
そのボランティアグループの名前はRescates de Fauna Marina(海洋動物のレスキュー)で、中心になっている人はSr. Richard Tesore(リチャード・テソレ)、かわいいベィビー・オットセイ達につきまとわれていたご本人だ。餌代等にかかる経費はすべて自前で賄っているとの事、オットセイは一日に相当な量の魚を食べるので大変だとこぼしていた。リチャードさんは5年前にこの活動を始めてから、見よう見まねで海洋動物の世話をしてきたのだそうで、今でこそ経験から得た知識で何とかやっているが最初は大変だったという。現在抱える問題点はやはり資金が足りない事と、情報(専門的な本や文献等)がなかなか手に入りにくい事だとおっしゃっていた。また活動する人にしても、土曜、日曜はそれなりにボランティアの人々が助けに来てくれるのだそうだが、平日はほとんどリチャードさんひとりで動物たちの面倒を見ているとのこと。
僕も獣医の端くれで小さい頃から海洋動物に興味があり、今でも機会があればその保全や繁殖に関する勉強をしてみたいと思っている。できれば毎日でもお手伝いをしたいのだが、ピリアポリスはモンテビデオから車で1時間半くらいかかるため、平日に仕事が終わってから出かけるのはなかなか難しい。しかし何か別の形で、または資金集めや情報集めの点で、自分にも手伝える事があるのではないかと色々思案を巡らせてはいるものの、なかなか良い案も浮かんで来ない。リチャードさんからいただいたオルカの歯をいつでも目につく机の前に置き、この事を忘れぬ様に心がけ、とりあえずはコミュニケーションのためにスペイン語の勉強にいそしんでいた。
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