開発援助について考える、その2・・・

このプロジェクトでウルグアイ側が日本に最も期待していたのが機材であった事は見え見えだった。経済力が低下して研究所の設備を充実させることができなかったので、ジャパン・マネーに熱い視線を送っていたわけである。それはウルグアイ人スタッフの能力や国として畜産業に取り組む姿勢の真剣さからすれば当然の事だったと思える。日本のような畜産が非常にマイナーな国から比べれば、ウルグアイは国の根幹を支える畜産とより真剣に取り組んできている。それゆえ防疫体制などは恐らく日本よりも整っており、研究所のスタッフも含めてそれに関わる人たちのレベルは非常に高い。実際、彼らはフィールドに根ざした、地に足のついた考え方をしており、むしろ僕を含めた日本人専門家の方が最先端の技術に目がくらんでいる様なところがあったと思う。               

彼らが唯一欠いていたものは実験用機材を買うお金だったのであり、僕ら日本人の専門家がいなくても機材さえ供与されれば彼らだけでもそれなりに研究所の機能を強化できたことであろう。それならばプロジェクト方式の技術協力ではなく、円借款か世銀あたりから融資を受けて研究所を整備し直した方が良かったのではないかということになる。が、プロジェクトが終わった今、それが正しくはなかったことはウルグアイ側スタッフにも十分理解してもらえたと僕は自負している。               

確かにプロジェクト開始当初は「専門家なんかいらないからその分機材をよこせ」という様な雰囲気があったと聞いた。しかしプロジェクトが進むにつれ、違った視点から物事を見る僕らの考え方もまた研究所としての能力を伸ばす上で大きな意味を持つということに気がついたと、同僚が教えてくれた。そして更に人的な交流も図れたわけであるから、金銭的な援助だけでなく顔の見える地道な努力が開発のためにはいかに大切かがわかる。

それにしてもカウンターパートとなる相手国スタッフの能力が、大きくプロジェクトの成果に影響するとつくづく感じた。タイ人の同僚は人が良くて義理人情には厚かったが、自分で考えて答えを出すことが苦手であった。能力のある人ももちろんいたが、コツコツと理論的にステップ・バイ・ステップで進めなければならない研究所での仕事には概して不向きな人が多かった。何度も同じ失敗を繰り返し、どれだけイライラさせられたことか。

一方、ウルグアイ人スタッフは一度テクニックを教えると、次からは自分ひとりでそれをこなしていった。何か問題がある時にはもちろん聞きに来たが、小さなトラブルは自分で解決できるだけの基礎知識を持っていた。何かがうまくいかなくなってもその原因にそれなりの目星をつけることができた。これだけ現地スタッフができるとこちらは楽である。仕事上の問題といえば仕事そのものよりもむしろ人間関係のトラブルとか、政治的な配慮でデータが発表できないとか、機材の購入を決めた会社がいい加減であるとか、そういった不可抗力的な原因が多くなり、人の能力に起因するような問題はほとんどなかった。だからといってもちろん彼らがいつも一生懸命に仕事をすると言っているのではない。それはまた別問題である。給料が安いのであるから、一生懸命に働く意欲もなかなかわかないだろう。しかしそれでも学問的な興味やフィールドからの声に耳を傾けつつ、国の現状をよく理解して仕事をしていた。               

ここウルグアイでプロジェクトの進捗を妨げた大きな要因は人間関係だったかもしれない。欧米のように個人主義的な社会で権力構造も弱い組織であるから、個々が意見を主張し始めると収拾がつかなくなる。またそれを表に出すことを非としない雰囲気もあった。そんな人間関係を無視して仕事を始めるとうまくいかないことは目に見えていたので、研究室を越えて仕事をしなければならない時などは誰と組むのかを注意深く選ぶようにしていた。

この点でタイとは全く逆である。タイの場合は能力的に研究所の仕事に向いていないスタッフが多くいたが、職場内における人間関係はおおむね良好であり、年上のスタッフから頼まれればみんなが協力して仕事をしていた。こう考えてみるとどちらも一長一短だ。タイとウルグアイ、どちらが良かったかと聞かれても答えを出すのはなかなか難しい。

いずれにしろ人間がすることなので、プロジェクトに関わる人々の能力とその関係がプロジェクトの成否に大きく影響を及ぼすという事であろう。それにもかかわらずプロジェクトを評価する段階で、その部分は全く考慮されないということが、今回も僕には腑に落ちなかった。評価自体、プロジェクト期間中の目に見えた成果を羅列するだけという形式的なものである。それゆえどうにでも体裁を整えることができ、「日本の開発援助プロジェクトに失敗はない」と陰口をたたかれるのもうなずける。評価で成否を決めるのであれば、じっくりと時間をかけた多面的な評価をするべきだと僕は感じている。これはもちろん日本側だけの問題ではない。日本と相手国の双方が同じようにプロジェクトの評価と成否に対して責任を持てるようにしなければならない。               

そんな結果第一主義からか、ウルグアイにおいてこれまで国際協力事業団(JICA)が実施してきたプロジェクトは、ほとんどがINIAと呼ばれる農業関係の試験研究機関とLATUという工業製品関係の試験検査機関に限られていた。つまりこのような大きな機関にまかせておけばそれなりの成果を上げることができ、良い評価を得られるからであろう。

しかしもう少し多方面に渡ってプロジェクトを発掘する努力をするべきなのではないかと思う。もしくはウルグアイ側からもプロポーザルが上がってきやすいよう情報をオープンにしたり、説明会を開いたりといった活動を行っていくかなければならない。ウルグアイにはJICA事務所がなかったため種々の手続きを大使館が代行しており、なかなかそんな余力がなかったのは理解できる。それでも将来的にウルグアイで開発援助を続けていくのであれば、住民に資するようなプロジェクトの発掘を広く行っていくべきであろう。

プロジェクトはその立ち上げが非常に重要である。政治家の駆け引きなどに利用されるのではなく、本当に地域住民の利益にかなったプロジェクトを始めるためには、その発掘と計画立案が重要な鍵になる。目的意識のはっきりした、しかも計画案の優れたプロジェクトであれば、少々の問題が起ころうともプロジェクトはそれなりの成果を上げていくものである。そして最終評価においては成果ばかりを列挙するに留まらず、むしろネガティブに作用した点を洗い出してそれを次の糧とするような姿勢が必要なのだと思う。最初と最後をより充実させることによって、日本の開発援助プロジェクトを今まで以上に実り多いものに、住民の生活向上により直接的に寄与するものへ変えていかなければならない。               

Home