口蹄疫が発生する・・・

タイへ赴任してまだ間もない頃、東南アジアにおける口蹄疫撲滅のための関係国会議に出席する機会があったと前に書いた。口蹄疫は畜産業に重大な影響を与えることから、世界中で最も恐れられている伝染病である。学生時代、「家畜伝染病学」の講義で最初に耳にしたのがこの病気の名前だった。この感染力の強い口蹄疫ウイルスには7種類のタイプがあり、それぞれのタイプのウイルスは相互に全くワクチンの効果が認められない。それどころか同じタイプのウイルス内にも抗原性の異なる免疫型(亜型)が存在し、ワクチンの効果が期待できない。つまり、東南アジアのような常在地域では普通、大きな流行になることは少ないはずなのだが、全く異なるタイプのウイルスが侵入してきた場合には大打撃を受ける可能性があるということだ。               

例えるならば、インフルエンザの様なウイルスに近いと思っていい。このウイルスも抗原性の変異が簡単に起こるため、毎年どのような型のウイルスが流行するのか予測がつかず、ワクチンの接種が後手後手にまわるのである。感染力が強く、風や雨と共に大陸を渡ってくる。その年の流行型に合ったワクチンを打たなければ効果が期待できないため、なかなか先手を打って感染の流行を防ぐことが難しいのだ。そしてその様なウイルスは清浄国においてより劇的な流行をもたらし猛威をふるう。口蹄疫の撲滅に成功し、長い間その病気の発生がなかった国にウイルスが入り込むと、瞬く間に広がって壊滅的な打撃を与えることになる。               

その口蹄疫(スペイン語でアフトーサという)はもちろん南米にも存在する。特に南米大陸の北部では常在化しており、政情不安も手伝ってかなかなかコントロールが進んでいないようだ。しかしそれとは逆に南部のメルコスール地域(アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ)では畜産業が国の経済を支える大きな収入源であるため、口蹄疫の撲滅は国家的重大事であり既にかなりの清浄化が進んでいた。ウルグアイは国をあげての根気強いワクチン接種が功を奏し、1990年6月を最後に口蹄疫の発生がなくなった。1993年にはワクチン接種による清浄国として、そして1996年にはワクチン不使用の清浄国として晴れて国際的な承認を得るに至り、1998年からは日本へ牛肉の輸出を開始している。同じくチリもワクチン不使用の清浄国として認められ、アルゼンチンとパラグアイは1997年にワクチン接種による清浄国として承認された。ブラジルは国土が広いために色々と難しい問題を抱えてはいるが、特に南部では口蹄疫の撲滅に向けて大きく前進している。                               

さて、そんな状況の中、20世紀末から世界のあちこちで口蹄疫の大流行が起き始めた。まず最初が1997年の台湾だ。台湾は1928年からの清浄国であったがこの流行で養豚業は壊滅的な打撃を受けた。当然のこと、台湾に近い日本の八重山諸島でもウイルスの侵入に備えて厳戒態勢がひかれた。竹富島の民宿のおじさんによると台湾から船で石垣に到着した観光客は、全員上陸前に消毒を受けたそうだ。そしてその打撃から回復しない1999年にも台湾はもう一度流行を経験する。翌年、2000年には日本でも発生が起きた。日本では1908年以来であったので実に92年ぶりの発生である。幸いにも迅速な防疫体制がひかれて発生は宮崎県内の農家数戸に止められた。そして時を同じくして韓国でも流行、こちらは軍も出動する大騒ぎとなった。この一連の流行で台湾、韓国、日本の3国はその感染源として中国を非難したが、確たる証拠がなかったので中国には鼻であしらわれた感がある。               

そしてお次がウルグアイの番となった。10月24日、次のような情報が関係者の間を駆けめぐった。

「ウルグアイ農牧省は10月23日、北部にある牧場で牛の小集団に口蹄疫の兆候が発見されたと発表した。臨床的には口蹄疫である可能性が高いが、検査結果待ちの状態である。疾患流行のおそれがあるのは、ブラジルとの国境に近い首都モンテビデオから約600キロ離れたアルティガスである。農牧相はアルティガス地域への家畜生産物の輸出入をすでに閉鎖していると述べた。」

 そして26日の報告は、

「10月23日、ウルグアイ北部のアルティガス行政区で数百頭の動物が関係する口蹄疫の流行が発生した。ブタ7頭が死亡し、ウシ29頭、ブタ11頭が発症した。感染源は明確にはなっていない。感染域の指定、家畜の移動制限、健康調査などが実施されている。」

 翌27日にアルティガス県でさらに2件の口蹄疫が報告された。その後、病気の蔓延を防ぐため、11月3日までにウルグアイ政府は7000頭近い牛、12000頭を越える羊、1000頭を越える豚を淘汰(殺処分)した。この迅速な防疫体制が功を奏し、その後の発生は途絶えて11月半ばまでに最大の危機は去ったと判断された。この発生時、研究所の空気は張りつめ、特にウイルス研究室は立ち入り禁止となった。畜産立国として口蹄疫の蔓延は死活問題である。一旦流行が広がってしまえば防疫は不可能になってくるため、何としてでもアルティガスでくい止めなければならないという危機感が国中にもみなぎっていた。宮崎で92年ぶりに口蹄疫が発生したというニュースなどには何の関心も示さなかった日本人が大多数だろう。しかしここウルグアイでは口蹄疫の発生が国民の関心事であり、この時期、口蹄疫関連の記事が毎日のように新聞の一面を飾っていた。                               

当時、不穏な空気は周辺国でも続いていた。8月にパラグアイで流行が疑われ、ブラジルとアルゼンチンはパラグアイからの家畜や肉の輸入を禁止した。アルゼンチンでは口蹄疫がないという国際的な承認を見直すという動きが出はじめた。アルゼンチンはパラグアイから不法に持ち込まれた牛が原因であると断定し、それらの牛に接触した可能性がある3500頭の処分を行っている。またブラジル南部でも流行が認められ、1万頭以上の動物が処分されている。ウルグアイでの発生はこれが飛び火したためと考えられた。

そして年は明けて2001年、アルゼンチンでは口蹄疫の流行が広がる気配を見せ始めていた。ブエノス・アイレス近辺での流行が確認されていたが、後にパタゴニアでも発生農場が出始め、3月に入ると、ラ・プラタ河に注ぐパラナ河とウルグアイ河に挟まれたエントレ・リオス州でも流行が起き始めた。僕らは3月末、パイサンドゥーにおいて2日間に渡るセミナーを開催したのだが、折しもその2日目に国境の橋が閉鎖されてしまい、アルゼンチンからの参加者は大きく迂回して帰国する羽目になった。ウルグアイ河を挟んでパイサンドゥーの対岸にあるエントレ・リオス州の農場で口蹄疫の発生が起こったため、ウイルスの侵入を危惧したウルグアイ政府が執った措置である。               

そして4月に入りウルグアイは1週間のイースター休暇(セマナ・サンタと呼ばれるキリストの復活祭)を迎えた。この週はセマナ・デ・トゥリスモ(観光週間)としても知られ、各地でフェスティバルなどが開かれるため、毎年、特にアルゼンチンからは沢山の観光客がやって来る。しかしその年はもちろんウルグアイの検疫官は神経をとがらせ、普通ならばフリーパスで入国が認められるアルゼンチニアン達も厳しく調べられることになった。研究所の同僚の中にも助っ人としてかりだされた運の悪いヤツもいる。国境では入国を待つ車の長い行列ができた。金持ちはクルーザーでやって来る。果たしてそのクルーザーも2時間3時間と待たされることになり、不満が続出していた。それだけしっかりと検査をしていたのである。               

しかしその観光週間が明けた4月25日、危惧していた口蹄疫の再発生が起こってしまった。初発地はやはりアルゼンチン国境のソリアーノ県で、川沿いにある農場だった。また、間の悪いことにこの再発生はバジェ大統領の日本公式訪問と重なってしまい、牛肉の輸入拡大を要請しに出かけた大統領は鼻先をくじかれた格好となった。公式な発表は次の通りである。

「ウルグアイ政府は西部のソリアーノ県でウシが口蹄疫に感染したことを確認した。同政府は今回の発生が同国の食肉産業に致命的な打撃となる可能性を指摘している。ウルグアイはアルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、とともに南アメリカにおけるメルコスール貿易ブロックを形成しており、口蹄疫流行は存在しないと考えられてきた。同国では輸出総額の20%を占める食肉の輸出を中止している。発生原因としては、復活祭の休暇中、多くのアルゼンチン観光客が往来したことによると考えられる。」

 4月27日には、早くも政府は発生地周辺の家畜へのワクチン接種を決め、アルゼンチン、ブラジル製のワクチンを100万ドース準備する。ウルグアイはワクチン接種によらない清浄国であったため、この決断は苦渋の選択であったはずだ。一度ワクチンを使い出すと、再びワクチン接種によらない清浄国として認められるまでに数年はかかってしまう。そうなると北米やヨーロッパ、日本といった一大消費国に輸出できなくなるためである。しかしウルグアイ政府はこの早い段階で殺処分と移動禁止による防疫をあきらめ、ワクチンを使うことに決めた。そしてこの決断が正しい選択であったことは、しばらくの後すぐに明らかとなった。

発生の拡大は日増しに明確になっていく。

4月29日 8つの県に渡る56戸の農場で発生が確認される。

5月1日 80戸で発生を確認。13の屠殺場を閉鎖。全国規模のワクチン接種を検討。

5月2日 83戸で発生を確認。国を東西でワクチンの非接種と接種地域に分け、防疫を行う。

5月3日 123戸に発生が拡大。EUはウルグアイ産牛肉の輸入禁止へ。

5月5日 190農場に拡大。農牧省は5月末までに全家畜1040万頭すべてにワクチンを接種すると発表。

5月10日 348戸で発生を確認。5月17日 589戸で発生を確認。

5月29日 発生は1000件を越える。6月1日 1158戸で発生を確認。

6月11日 アルゼンチンでも全頭へのワクチン接種を実施しているが、同国では1105件で発生が確認されている。

結局ウルグアイでは8月20日に発生した症例を最後に流行が収まり、9月の最終週に口蹄疫の流行が終息したと発表された。この間、口蹄疫の発生が確認された農場は2057戸にのぼった。巷の噂では届け出なかった農家も多いということなので、実際にはより大きな数字なのだろう。

さてこの流行のただ中にいた僕らは何をしていたのかといえば、残念ながら特にこれといってこの流行にかかわる仕事は何もしていなかった。口蹄疫は非常に政治的な意味合いを強く持つ病気であるため、プロジェクトの開始時からこの病気には手を出さないという取り決めがあったのもひとつの理由だ。忙しくしていたのは前回と同じ、ウイルス研究室のメンバーで、彼らは立ち入り禁止となった研究室にこもって野外から運び込まれてくる膨大な数のサンプルをひたすら検査していた。フィールドにかりだされたスタッフも少しはいたが、大方はいつもと変わらぬ研究所ライフを送っていた。               

僕ら専門家にとってはこんなチャンスなどめったにあるものではない。獣医にとってはあこがれの口蹄疫である。「ぜひどこかの発生農場へ行かせて欲しい」と何度も所長に頼んではいたが、答えはいつもノー。野外のサンプルが運ばれてくる研究所では、所員がそのサンプルに含まれる口蹄疫ウイルスを知らず知らずのうちに持ち出し感染を広げてしまう可能性があるため、日本人に限らずスタッフ全員がフィールドへ出かけることは禁止されていた。

そんな流行の最中である5月半ば頃、僕は用事があってパイサンドゥーの診断センターへ出かけることになった。もちろん所長にはフィールドへは行かないと約束して了解を得た。空は快晴ドライブ日和、スティングやザ・ビューティフル・サウスのCDをガンガンにかけまくってパイサンドゥーへと向かう。昼食を終えてガソリンを入れ、再びハンドルを握る。見渡す限りの草原を突っ切って進むのは爽快だ。ほとんど車もいない。このところの雨で水かさの増したリオ・ネグロを渡ってしばらく走るともうジュングの町だ。唯一の目抜き通りを一応ちんたらやり過ごしてまたスピードを上げる。ここからパイサンドゥーまではもう40分くらいの距離である。               

ジュングを出て10分ほど脳天気なドライブを楽しんでいると、向こうの方から走ってくるピックアップ・トラックの運転手が、窓から手を出して振っているのが目に入った。どこかで見たことがある汚いトラックだと思い、一応軽くブレーキを踏んでスピードを落とす。と、すれ違った瞬間にセンターのピックアップだと気がついてあわてて車を止めた。フホが運転してその隣にはルーベンが乗っていた。

「よお、どうしたんだ。今日は俺が行くって連絡しといただろう。」

「だからこうやってお前が来るのに合わせてセンターを出てきたんだよ。うまくいけばジュングの街中で捕まえられるかと思ったんだけど。」

「えっ、どこかに行くのか。」

「うん、ジュングの牧場で牛がバタバタ死んでいるらしい。ここ2−3日で10頭以上が死んでいて、調べに来て欲しいと連絡があったからこれから行くところなんだ。ヨシも連れて行こうと思って待ってたんだよ。」

「でも俺、所長にフィールドへは出ないって約束してきたんだけれど。」

「そんなの言わなきゃわからないさ。行こうぜ。」

 というわけで僕はUターンしセンターの車について行った。まずはジュングの街まで戻り県の畜産事務所に立ち寄る。ここで事務所の人たちと合流し、問題の牧場へと向かう。この時始めてその牧場が口蹄疫の発生農場だと知らされた。うーん、何という幸運。大した用事もないのにわざわざパイサンドゥーまでやって来たかいがあったというものだ。しかしこういう時に限って一眼レフのカメラを持って来ていない。持っていたのは安っぽい水中カメラでしかもAPS、これじゃあボケボケだろうなあと悔やむがもうどうしようもない。

牧場はジュングの街から20分ほど走ったところにあった。これでも僕は車の中で結構緊張していたのである。腐っても口蹄疫の発生農場だ。それなりに厳戒態勢がひかれているだろうと思っていた。牧場は黄色いテープで囲まれ、入り口には「立ち入り禁止」の看板でも掛かっていることだろうと勝手に想像していた。しかしその農場は他のどの農場とも変わらず平々凡々としていた。柵の近くには牛が集まり間抜けな顔をさらして僕らを見ている。「こいつらみんな感染しているんだよ」と言われても、彼らには口蹄疫に感染した牛としての誇りも威厳も感じられなかった。もっと病牛らしくしてもらいたいものだというのが僕の率直な印象だった。しかしそんなわがままを言ってはいけないと自分に言いきかせ、一応深刻な表情を作って大人しくしていた。               

まず、牧場主の家へ行ってみたが誰もいやしない。とにかく牧野へ入ってみようということになり、車に乗って牧場の入り口へ向かった。ウルグアイの牧場はとてつもなく広いので、歩いてなんかいられない。入り口に着いたところで遠くの方からひとりのガウチョがやって来るのが目に入った。僕らは柵を開けて中へ入る。汚染農場だというのに鍵さえかかっていないじゃあないか。本当に緊張感のない発生農場であった。フホが言うには発生農場でするべき事はないのだそうだ。それよりもむしろ発生していない農場を感染から守ることの方が大切で、現場の方はワクチン接種にかけずり回っているという。そう言われればそうだなあと簡単に納得してしまった。               

さて中に入るとちょっと様子が違った。いつもだと侵入者には敏感ですぐに遠くへ逃げてしまう牛たちが、車で牧野へ乗り込んで入っても動こうとしないのだ。仕方がないので車の方が牛を避けながら進むことになる。蹄にできた糜爛(びらん)が破けて痛いのだ。だからでくの坊みたいに突っ立ったまま動けずにいる。

少し中へ入ったところで先程のガウチョと出会った。事務所の人が様子を聞くあいだ、僕はまわりの牛を観察していた。近くに一頭、ものすごい量のよだれを垂らしている牛がいる。ああ、これが教科書に載っていた「滝のような流涎」というやつか、とひとりうなずく。「滝のような」という表現に「それはオーバーだろう」と思っていたが、実際に目にするとその通りだと納得せざるを得ない。よくもあれだけよだれが出るものだと感心する。普通、よだれを流すと顔に締まりがなくなるが、その牛の姿はそれを通り越して悲痛にさえ感じられた。どんなに痛いのだろうか、かわいそうに。と、見入っている間に車が動き出してしまい、手にカメラを持っていながら撮り忘れたことに気がついた。

あのガウチョに先導されて僕らは牧野で死んだ牛のところへ向かった。四肢を硬直させて倒れた牛がいた。そこからまわりを眺めてみると、目にはいるだけで3−4頭の牛が倒れているのがわかる。これは尋常ではない。さっきの落胆を反省し、新たに気を引き締めた。ガウチョの話では昨日7頭、今日これまでに5頭が死んだという。まだ何頭か具合の悪いのがいてどうすればいいのかわからないと頭を抱えている。

口蹄疫の症状を調べてみると、蹄間の糜爛(びらん)はまだ残っているものの、口腔粘膜の糜爛はほとんど痕跡を残すくらいにまで治っていた。どうりでよだれを流している牛が1頭しかいなかったわけだ。フホによるとこの農場は口蹄疫が発生してから既に2週間も経っているらしく、口腔の病変は早く症状が現れて先に治癒するから、ここの牛たちも既に快方へ向かってきているのだろうとのことだった。それならば何故この時期になってバタバタと死んでいくのだろうか。口蹄疫ウイルスは成牛を殺してしまうほど病原性は強くないのに。

死体を前にあーだこーだ議論していても始まらないので、僕らはとにかく解剖をしてみることにした。臓器の状態を見たら少しは何かがわかるかもしれない。まず皮を剥いでいく。次に腹腔を開いて腸管や腎臓、肝臓などを出してみるが別にこれといって悪いところは見られない。さらに胸腔に移る。と、心臓が異常に肥大しているのがすぐにわかった。心臓に切れ目を入れて詳しく見ると心筋炎を起こしているのが肉眼でもわかる。これはおそらく口蹄疫ウイルスによる病変だろうと考えられた。これまでにもそんな報告を読んだことがある。しかしそれが今回起きた突然死の直接の原因とは思えない。むしろ突然、牛の具合が悪くなって死に至るのは、感染症というよりは中毒によることが多い。               

そう考えてまわりを見ると草の状態が非常に悪かった。しかも普通では食べないような草に牛が噛んだ跡が見られる。そういえばここ数週間天気が悪くて草の発育が悪かったらしい。牛は口内にできた糜爛が痛くてずっと草を食べられなかったことだろう。そしてここ数日間のうちにようやく回復し、空腹を癒すため大量にこの質の悪い草を食べたに違いない。それで中毒を起こしたのではないかと思われた。最も疑わしいのは硝酸塩中毒という病気である。硝酸塩を多く含む草を食べると、赤血球が酸素を運べなくなって牛が急死する中毒症だ。そこに思いついた僕らは第一胃の内容物を取って検査をしてみた。するとさほど強くはないが硝酸塩に対する反応が見られた。今のところまだ可能性は否定できない。               

それから夕暮れまで僕らはもう3頭牛の解剖をした。口内や蹄間にある糜爛の他に全頭で見られた共通の所見は心筋炎だった。日が落ちて薄暗くなった牧場の一角で手を洗い、長靴を消毒し、車にも消毒液を散布する。その日はもう一軒、レプトスピラを疑う集団発生が別の農場であり、子牛が何頭も死んでいるという連絡を受けていた。しかしパイサンドゥーに近づいた頃には真っ暗になっており、かつ汚染農場からの帰りとあっては非汚染農場へ出入りするわけにはいかないので、その農場へ行くのは翌日にまわすことにした。               

その後の血液検査の結果によると硝酸塩中毒ではないことがはっきりした。僕らの予想は外れたが、血清マグネシウム値がほとんどゼロに近かったらしく、餌が原因で栄養のバランスが崩れ、何らかの中毒症状を起こしたのは間違いないように思えた。もちろん口蹄疫ウイルスの感染がその根底にあることは疑いの余地もないだろう。口蹄疫によって体力が衰え心臓も弱っていたところに、栄養のバランスが悪い牧草を食べて死に至ったのだ。病原性がさほど強くない最近やウイルスでも、そこに他の要素が複雑に関与し合うことによって思いがけず病状が悪化することがある。               

この一日の経験が僕にとって良い勉強になったのは言うまでもない。貴重な症例を実際に目にすることができ、所長との約束を破ったかいがあったというものである。

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