バンコクで生活する・・・

職場には車で通っていた。最初は危ないからと運転手を雇うことを勧められ、まあそんなもんかなあと言われるままにひとり雇った。運転手だから運転がうまいのかなあと思ったのが甘かった。運転がうまいから運転手をしているのではなく、他に何もできないから運転手をしているのだということにすぐ気づいたがもう遅い。契約書を交わしてしまったので、やめさせるにもしばらく間をおかなければならない。それでも結局2ヶ月我慢してクビにしたのだが、その間の長かったこと。5年間のタイ生活の中で精神的に一番不安定な時期だったかもしれない。他人の運転がいかに神経に障るか、身にしみてわかったからまあ良かったのだろう。それ以降、運転手を雇っている専門家が大多数を占める中で、僕は自分でハンドルを握りタイの交通渋滞と格闘を始めた。

車の運転、つまり交通事情はその国の国民性をよく反映していると思う。バンコクの交通渋滞は聞きしにまさるほどで、その原因のひとつはもちろん車の絶対数の多さによる。しかしそれはタイ人の交通マナー、というか国民性によるところも大きいと思われた。タイ人は公共の場において他人の迷惑を考えたりしない。とにかく他人の迷惑を意に介さずお構いなしに自分がやりたいことをする。そのかわりに他人のそういった行動に対しても馬鹿がつくほど寛容である。人がいいのだ。つまりみんながみんな好き勝手なことをし、そして勝手なことを容認する社会なのだ。これではどう考えてもスムーズに車が流れるわけがない。車が渋滞しだすと車線なんか無視してとにかく我先に車を進めようとする。それゆえ収拾がつかなくなって渋滞に拍車がかかる。また右折や左折の列に並んで辛抱強く待っていても必ず横入りする奴がおり、またそれを親切にも入れてやるアホがいるのだ。つまり辛抱強く待っていると遅くなるばかりで本当にばかばかしくなってくる。

もちろん僕も最初の頃は親切に入れてあげたりしていた。しかしタイ人ドライバーは恩を仇で返すようなことを平気でする。流れに乗れずのろのろ走ったり、駐停車禁止の場所で止まったりとストレスが貯まるばかりだった。それゆえある時期を境にプッツンし、こと車の運転にかけては非情になった。他人の車は絶対に横入りをさせず、自分はどこででも頭を突っ込んで横入りをした。絶対に列には並ばず、前の方へ行ってからすっと車をすべり込ませた。前の車がもたもたしていると容赦なくクラクションを鳴らし、5年間のバンコク暮らしで5回クラクションが壊れた。ストレスを貯めないためには大きな音を出すクラクションが常に必要だったので、壊れるとすぐに修理に出した。僕は自分でも自覚しているが、ハンドルを握ると性格が変わるタイプである。普段はゴキブリも殺せないほど気弱であるが、ハンドルを握ると怖いものがなくなる。友達に、

「いつもハンドルを持ち歩いていればいいのに。」と言われたことがある。

職場のあるカセサート大学のキャンパスに附属高校があり、帰宅時はいつもその前を通ってゲートへ向かっていた。その学校には裕福そうな家庭の子女が通っており、彼らの多くは朝夕送り迎えをしてもらっていた。僕の帰宅時間は彼らのお迎え時刻と重なるため、正門前の混雑にはいつも閉口していた。みんながみんなよりによって正門の真ん前で子供をひろおうとするのだ。少し離れたところに車を止め、子供をそこまで歩かせればよいのにそうしない。車が後ろにつかえているのがわかっていながらわざわざ正面で車を止める。それをまたのんびりと順繰りに一台ずつ繰り返していくので、全く関係のない僕らはたまったものではなかった。

「Working with the Thais」という優れものの本がある。この中で著者はタイ社会ににおいてひとりひとりが意識する3つのサークルを説いている。ひとつめは「家族サークル」である。ふたつめを「慎重なサークル(The Cautious Circle)」と名付け、各人が頻繁に関わる人々、つまり職場の同僚であったり子供の学校の先生、仕立屋さん、お医者さん等々、日々の暮らしの中で頼りにする人々を含む。人々はこの2つのサークルの中では礼儀正しく注意深く、敬意を払い勝つ友好的にふるまうという。旅行者がタイ人に対して一般に良い印象を持つのは、タイ人が旅行者をこの第二のサークルに位置させているからだという。そして3つめのサークルが「利己的なサークル(The Selfish Circle)」であり、第一と第二に属さない、いわば外の世界の人々が全てここに属する。ここでは何でもあり、わがまま勝手にふるまい迷惑をかけても気にもしない。時として無礼でさえある。一度限りの関係だから礼儀正しくふるまう必要はないと思っているのだ。このタイ人の考え方が交通事情に反映されており、僕の性格はさらに悪くなっていった。

運転からくるストレスの解消法はクラクションを鳴らすことと音楽をかけまくることだ。バンコク暮らしも長くなり、日々の生活もマンネリになってきた頃、日本へ一時帰国をしてJーポップのCDを沢山仕入れてきた。それをカセットに詰め、エクスチェンジャーにセットして車の中で聞いていた。職場で嫌なことがあったある日、帰宅途中、高速に入ったところで渋滞が始まった。「あーあ、もうすぐアパートに帰り着けるところだったのに」といっぺんで気分が落ち込んでいく。まさにその時、CDが入れ替わって矢野顕子さんの「京都」という曲が始まった。これは大昔のそのまた昔にベンチャーズが書いた「京都慕情」という曲で、渚ゆうこさん(多分)という歌手が歌ってヒットした。それを矢野顕子さんがカバーしたのだが、この歌を聴き始めてとたんに体が軽くなり、気分が高揚していくのがわかった。音楽にこれほど気持ちをリフレッシュするパワーがあったとは、、、この時の感覚は今でもはっきりと覚えている。

タイの音楽事情はというと、僕にとってはあまりかんばしくなかった。一般的なタイ人が好むのはイサーンと呼ばれる東北タイの音楽で、日本の演歌のようなものである。演歌でさえなじみの薄い自分にはとてもついていける音色ではなかった。ちなみにタイで一番有名な日本の曲は「昴」だろう。僕でさえ歌えないのに、日本語でこの曲を歌えるタイ人がわんさかいるのには驚く。では若者向けのタイ・ポップはというと、日本の歌謡曲やJ−ポップに似た音づくりをしていたので聞き易かったが、言葉がわからないため積極的に聞いてはいなかった。しかしその中でもナット・ミリヤにははまってしまい、必ずCDを買っていた。

洋楽のCDはどんなマイナーなバンドでもたいていの物が手に入ったので不自由はしなかった。不満といえばコンサートが少なかったことぐらいか、5年間で出かけたのは、フィル・コリンズ、渡辺貞夫、ホイットニー・ヒューストン、ビヨークくらいだった。久しぶりに見たフィル・コリンズはすっかりおじさんになっていたが、ものすごくパワフルなステージだった。スタジアムでのコンサートにもかかわらずその広さを感じさせず、いくつかのセンテンスはタイ語を操って観客のご機嫌を伺っていた。渡辺貞夫さんはどうもタイに根強いファンを持っているようだ。若い共演者に囲まれた渡辺さんの演奏も素晴らしかったが、観客がみなうれしそうな顔をして聴き入っていたのが印象深かった。それにひきかえホイットニー・ヒューストンを聞きに来ていた観客はひどかった。彼女の知名度の高さと高額な入場料のせいか、いかにも金持ちという人が多く、彼女の歌が好きで聴きに来たというよりは、「ホイットニー・ヒューストンを見に行った」と知り合いに自慢するために来ているように思えた。演奏中あちこちで携帯が鳴り大声で話をするため、良質の音楽を楽しむ数少ない機会であったのにもかかわらずフラストレーションをつのらせただけだった。コンサート会場も「利己的なサークル」に含まれるのだ。その対極がビヨークか。タイでは知名度が低いビヨークのコンサートにいったいどれだけの人が集まるのだろうと思っていたが、予想通り少なくて千人もいなかったのではないかと思う。ただ会場がインドア・スタジアムで中央がスタンディングだったため、皆、ステージ前に集まっていた。ビヨークはCDで聴くよりもよほど声量があり、歌がうまく、かつかわいい。ステージ上でのパフォーマンスは何とも奇妙な踊りの連続で鬼気迫るものがあった。他にもスティングやマイケル・ラーンズ・トゥ・ロックなどの有名どころが来ていたが、チケットを買いそびれて無念の涙をのんだ。

僕が住んでいたアパートはスクンビットという通り沿いにあった。高級中級ホテルが建ち並ぶ地域であったため、中年から老年の観光客が多いところだ(若者は安宿が多く集まるチャオプラヤ川近くに多い)。そのスクンビットを歩いているとあやしい白人男性が実に沢山いることに気がつく。しかもそのほとんどが若いタイの女の子を連れている。日本人にはタニヤとかパッポンといった地区が歓楽街として知れ渡っているが、このスクンビットにも2カ所それと同じような場所がある。ひとつはソイ4にあるナナ・プラザ、もうひとつがアソックから延びるソイ・カウボーイだ。ナナ・プラザはいつも異様な盛り上がりを見せている。広場を中心にそのまわりを小さなバーやキャバレーが取り囲んでいる格好だ。その空間だけ何でもありの別世界、一歩足を踏み入れると思わずたじろぐ。日本人をほとんど見かけないのはそのせいだろうか。もうひとつのソイ・カウボーイは、アメリカ人の客が多いためにこう呼ばれているらしい。働いている女の子の格が一段落ちる様で、齢を重ねタニヤやパッポンで働けなくなった子が来るところだと誰かが言っていたが真偽のほどは定かでない。どちらも明朗会計なので興味のある方はお試しあれ。白人の中にはカップルで来ている人もいるくらい雰囲気は明るい。

少し話のレベルを上げよう。ある日イギリス大使館から立派な封筒が届いた。封を切ってみると昼食会への招待状である。何でもリバプール大学の卒業生を集めて昼食会を開くので、ぜひご参加下さいとのこと。イギリスでは各大学ごとにこんなパーティーを開くのだろうかと不思議に思ったが、イギリス大使館を見学できる良い機会だったので参加することにした。イギリスはスクンビットから西へ少し進んだチットロムという一等地に広大な敷地を持ち、そこに大使館や公邸が古めかしくも厳かなたたずまいを見せていた。

当日、ネクタイをしてジャケットを羽織り、ランクルで大使館へ向かった。中に入ると広い広い。適当なところに車を停め、大使公邸へ足を向けた。入り口で大使夫人の出迎えを受ける。リバプール大は夫人の母校なのだそうだ。これで納得。まさかバンコクに日本人の卒業生がいるとは思わなかったらしい。夫人に付き添われて大使のところまで案内された。部屋の中には既に40−50人ほどの人が集まっている。つい最近卒業したのであろう若者から70近いと思われるお年寄りまで年齢は様々であった。

大使は見るからに偉そうな数人のタイ人に囲まれて談笑されていたが、夫人が僕のことを紹介すると立ち上がって日本語で挨拶された。あっけにとらわれている僕を隣に座るように促し、色々と話をしてくださった。大使は外交官になられてからすぐに海外勤務につかれ、その最初の勤務地が在日イギリス大使館だったのだそうだ。イギリス大使館では若い職員に現地の言葉を覚えさせるため、ホームステイをさせるという。大使は日本に来てから間もなく、北海道は夕張の民家に半年間ホームステイをすることになったらしい。ちょうど僕が札幌の大学でせっせと勉強に励んでいた頃である。当時、夕張では炭坑の落盤事故があったはずで、そのことをお聞きしたら良く覚えていらっしゃった。

そんな四方山話を続けているうちに食事の用意ができた。僕らゲストは隣にあるダイニングに通され適当に席に着く。大きな丸テーブルが7つほど並んでおり、ひとつに8人が座れるようにセットされていた。ゲストは全員タイ人で当然のことながら僕の知った顔はひとりもいない。他には大使館員のイギリス人が7−8人いて、彼らは彼らだけでテーブルに着いてしまった。こういう時は本当に困ってしまうのだが、空いている席を見つけて適当に座った。しかし僕の左隣2人分の席は空いたままである。右隣の人とも二言三言交わしただけ。その方は僕と反対側に座っておられた人と話を始めてしまったので、僕は完全にひとりだけ浮いてしまった。するとそれを見ておられたのだろう、イギリス人のグループにおられた大使がすぐに僕の左隣に席を移され、話し相手になって下さった。しかも食事の間中ずっと、デザートが終わるまで僕の隣に腰を落ち着けられ、バンコクでの生活のこと、演劇や音楽の話、果てはイギリスのTVコメディーについてなどなど、色々な話題を提供してくださった。こういうところにその人の人間性が現れてくるのだろう。僕など大使にとっては取るに足りない人間であり、どこの馬の骨かもわからない日本人だ。それにもかかわらず、ゲストとしてきちんと応対をして下さるだけでなく、タイ人に囲まれひとりで心細く思っているだろうと長い間話し相手になって下さった。普通の大使であればよほど重要な客でもない限りそんなところまで気を回さないであろう。これがイギリスの外交術に根ざすものなのか、その大使の人間性によるものなのかはわからないが、少なくとも一国の大使にこれだけ気を遣って頂き、感激の面もちで帰路についた。日本の大使にもここまで気を遣われる方がおられるのだろうか。また、日本の大学を卒業された方々を招待してパーティーを開いたりされているのであろうか。うーむ、甚だ疑問である。 (2002 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記、「タイ国立家畜衛生研究所計画」フェーズ2プロジェクト 元長期専門家)

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