ルイで調査を続ける・・・
東北部地域診断センターのあるコンケンで一番熱を入れていたのがフィールドでの調査である。4年という期間にあちこちへ出かけたのであるが、その中でも特に思い入れの強いフィールドがひとつあり、毎年3回必ず出かけて行った。そこはルイという県で、コンケンの北200キロくらいのところに位置する。メコン川が西から東へと流れるあたりの県であり、もちろんルイはそのメコンに接している。向こう岸はラオスだ。ルイはタイで一番、年間気温の差が激しい場所である。つまり雨季には蒸し暑く、乾季には肌寒いくらいにさわやかな気候になる。それゆえタイで唯一のワイン生産地、つまりブドウの栽培ができる土地でもあった。そのワインの名前は「シャトー・ド・ルイ」というかなり恥ずかしいネーミングであるが、限定生産であったためにルイ以外ではなかなか手に入らず、タイ人でさえ飲んだことのある人は少なかった。最も味はというとあまり熟成されておらず、深味がない。それでもルイのローカル・レストランでルイの料理を食べながら飲むとすごくおいしく感じられ、やはりワインはその土地の料理に合った味に仕上がるのだろうかと感じたりもした。
何でそのルイでのフィールドが魅力的だったのか。それは次のような理由からだ。当時、タイ政府は小規模酪農の振興政策を進めていた。乳製品のタイ国内における需要は年々増加していたにもかかわらず、自給率は10%にも満たなかった。それゆえ牛乳の増産を図っていたわけである。これは米作農家にとっても都合の良いことだった。米作では年に2回、多くて3回しか収入が得られない。干害でも起これば収入がゼロになる可能性さえある。ところが酪農では毎週決まった日に収入を得ることができるのだ。しかも牛の子供が増えるにつれて増収が見込める。というわけでこの政府の振興策に乗る地域が増えてきた。
ルイもそのひとつである。最初にエラワンという地区の100農家が転農することになり、まず政府がその地区に牛乳の集配所を作った。農家から集めた牛乳を冷蔵保存する場所である。その上で各農家に簡単な牛の放牧場とオープン・エアの牛舎を造った。これで準備は出来上がり。間もなく農家一軒につき5頭の乳牛が届けられ、それから先の運営は各農家次第となった。農家はこの先数年以内に同じく5頭の乳牛を政府に返還すれば借金はちゃらになる。結構、良いシステムじゃないかと僕は感心していた。では何故こういう地区がフィールド・ワークに向いていたかというと、100軒の農家で全く同じ条件から酪農を始めることになったからである。政府が導入した牛は全てが同じ品種であり、同じ年齢で、かつ妊娠している未経産牛(まだ子供を生んだことのない牛)で、タイ国内の同じ地域(中部)で育てられた牛であった。農家は全戸が初めて酪農に取り組む。しかもルイ県内の同じ地域である。こんなに条件の揃ったフィールドを見つけるのはほとんど不可能に近いくらいだ。それゆえ僕らにとってこのルイは願ってもない場所であった。
しかも僕らにとってはもうひとつ願ってもない問題が起こっていた。最もこれは農家にとっては災難だったので、あまり喜ぶべき事ではない。その問題はといえばもちろん病気の発生であり、それがあったからこそ僕らのところへ出動依頼が入ったわけである。ちょうどその発生時期と、僕がコンケンへ出張に行き始めた時期が重なったのだ。貧血や熱発の症状を呈して死んでしまう牛がいるという。僕らが最初にルイへ出かけたのは牛が導入されてから1ヶ月ほど経った頃であった。そしてそれから4年間で計12回に及ぶルイでの調査が始まった。
コンケンのセンターから出かけるメンバーは獣医のサティスに獣医助手のユタチャイ、運転手さんと僕の4人だ。センターからはだいたい2時間半から3時間かかるため、もちろん日帰りはできない。むこうで農家をまわるために2−3日は必要だからたいてい3泊か4泊という日程で出かけた。毎年、出かけたのは2月(乾季であり一年で一番過ごしやすい)、6月(雨季の初めでかなり蒸し暑い)、10月(雨季の終わりで涼しくなり始めた頃)である。ルイは山に近い風光明媚なところだ。乾燥した大地の中に椰子の木が並ぶ一般的なイサーンの風景とは趣を異にする。ルイで僕らと一緒に動くのはルイ県畜産事務所の獣医グループである。ルイにはチャンプラサートという気のいいあんちゃん獣医がいて、彼と、獣医助手として働いていた若者ふたりの3人がいつも一緒にフィールドをまわった。このふたりはユットにソンクランという名前だ。ユットは背も高くなかなかハンサムなやつで、本人もそれを意識しているところが見え見えでかわいかった。ソンクランはというと背は低いが男前で、若いのに少しだけ苦み走っている。このふたりもすごく気のいいコンビだったので、ルイでの仕事は関わった人にも恵まれていたといえる。
最初にルイへ行ったのは3月だった。乾季が終わりに近づきつつあり、太陽の日差しもかなり厳しくなっていた。とにかく手始めに牛が死んでしまったり、病気の牛がいる農家をまわってみることにする。貧血や熱発の症状が共通して見られることから何の病気かおおよその見当はついていた。牛が新しく導入された時などに問題になるのは決まって原虫病だ。前にも説明したバベシアやアナプラズマの可能性が高い。動物は移動のために長時間トラックなどに乗せられたり環境が変化したりすると、ストレスから病気に対する抵抗力が落ちる。そうすると健康な状態ではどうってことのない寄生虫や細菌などの病原体が暴れ出したりするのだ。タイの多くの牛はバベシアやアナプラズマを体の中に持っている。それが暴れ出したか、もしくは新しい土地にやって来て新しく感染したのだろうと思えた。
何軒かの農家をまわって採血し、かなり具合の悪そうな牛には一応バベシアとアナプラズマの両方に効果のある薬を注射しておいた。本来であれば別々の薬を使った方が効果的かつ経済的であり、農家の負担も少なくて済む。しかし検査をしてみないことにはどちらか決めかねたので、値段が高いが両方に効く薬を打つことにした。普通、余程、急を要する時以外はこんなことをしないのだが、酪農振興地においては最初の5年間、政府が治療費を負担することになっていたため農家が支払う必要はない。それで高い薬でも気前よく使っていた。事務所に戻り採血した血液を検査してみると果たして多くはアナプラズマに感染していた。もちろんバベシアに感染している牛もいる。このバベシアには2種類あり、バベシア・ボビスという種類の方に感染している場合は要注意であった。あっという間に具合が悪くなって死んでしまうため、すぐに治療をしておかないといけない。導入後にルイで死んだ牛はすべてこのボビスによるバベシア感染が原因であった。翌日、この検査の結果を持って農家をもう一度まわり、虫が見つかった牛に薬を投与した。
次に出かけたのは6月だった。貧血や発熱で倒れる牛はいなくなったが、今度は流産が多くなっているという。5頭中、4頭が流産してしまった農家もあった。その頃は既に雨季に入っており、一年で最も蒸し暑い時期である。日陰にいてもじっとりと汗がにじんでくる。日中は何をしていても身の置き所がないくらいに不快だった。これでは牛にとっても大変なストレスになるだろう。元々乳牛というのは寒冷地仕様の品種なのだ。そんなことを考えながら農家をまわってみて更に驚いた。虫がすごい。特にアブが多い。ひっきりなしに牛を刺しており、牛が尻尾や皮膚を動かして払っても払っても寄ってくる。僕自身もかなり恐怖を感じた。農家のご主人が言うには夜中でもこんな感じらしい。という事は牛はほとんど眠れないわけで、ものすごいストレスになっていると思えた。
さて牛の流産であるが、原因となる病原体は山ほどある。それゆえその全てについてひとつひとつ検査することはまず不可能なので、ある程度発生状況から当たりをつけて調べるしかない。今回の場合、まず疑ったのはトリパノゾーマだった。タイのトリップスはアブが伝搬するからだ。健康な牛であれば恐れるに足りないトリップスも、こんなにストレスフルな状況では暴れ出してもおかしくない。それゆえとにかくこれまで流産を起こした牛とその同居牛から採血し、ウガンダのフィールドでやっていたヘマトクリット管を用いた検査で調べてみることにした。すると案の定、検査した牛の2−3割でトリップスが見つかった。この検査法の感度は低いので、おそらくその3倍くらいは感染しているとみていい。つまりほぼ全頭が感染しているだろうということだ。しかしまだ他の原因も否定はできない。トリップスに感染しているからといって必ずしも流産を起こすとは限らないからである。とは言うものの、ここでできる検査は他にないし事は急を要するため、とにかく治療を試みることにした。カッコよく言うと診断的治療というやつである。トリップスにタイする治療をしてみてこの地域における流産の発生が減少すればラッキー、もしも変わらなければまた他に原因を探すことになる。僕らはトリパノゾーマが流産を起こす妊娠5ヶ月から8ヶ月の牛を対象に注射をしてまわった(牛の妊娠期間は280日で人間と同じ)。流産が発生した農家では全頭に、それ以外ではアブが多い農家をまず集中してやっつけた。農家のおじさんには虫除けのネットを牛舎のまわりに張るよう指導し、また牛につける防虫剤も配った。そしてめでたく僕らのカンは当たり、それ以来流産の発生もパッタリやんでしまった。
そのルイの街から50キロほど北に車を走らせるとメコン川にぶつかる。川幅はそれほど広くないが、水量は豊かで流れが速い。河原は広くて砂が堆積しており、その砂には砂金が沢山混ざっている。最もあまり純度が良い金ではないため、この河原の砂から金を取り出しても大して儲からないという。まあ、採算が合わないから放ってあるのだろうが、それにしても何と自然の恵みに満ちた川なのであろうか。このメコンの恩恵に与って生活を送っている人たちが中国から果てはベトナムに至るまで何十万、何百万といるのだろう。このあたりでは川が人を育てているのかもしれない。
この川岸には相撲の枡席のような板の間がいくつも並んでいる。最もひとつひとつは枡席よりもずっと大きく、10人くらいが車座になって座れるくらいの広さがある。屋根もついているので雨が降っても心配はない。壁はないので風が通り景色も楽しめる。これがお気に入りのレストランで、コンケンへ帰る日などは仕事を半日で終えてよくここまでやって来た。オススメは、メコンで捕れる小エビを生きたまま刻んだ香菜や唐辛子と混ぜ、タイ料理独特の調味料で味付けしたクン・テンという料理である。これはエビがまだ生きていて飛び跳ねるため、料理が乗った皿の上にもう一枚透明な皿をかぶせて運ばれてくる。その透明な皿を通して中をのぞき、エビが死にかけたところで皿を取り食べ始めるのがよろしい。餅米と一緒に口に運ぶと豊かなメコンの味が楽しめる。
もうひとつオススメの料理はゲーン・ソンというスープである。ルイはマカム(タマリンド)の産地として有名な場所であり、その実から作ったこのスープは酸っぱ辛い微妙なおいしさを楽しませてくれる。普通、火のついた固形燃料が入った台の上に乗せられた、ペッサーと呼ばれる魚の形をした底の浅い鍋(むしろ鉄板に近いが)に入って登場する。スープの中身は油で揚げた大きなプラー・チョン(雷魚)丸ごと一匹と、パカシェーという名前の茎茎した野菜である。これを注文する時は、ゲーン・ソン・ペッサー・プラー・チョン・トート(揚げる)・サイ(入れる)・パカシェーと言えばよい。魚が丸ごと一匹入っているくらいなので、スープといっても食べ応えはある。それに煮詰まってくるとスープをどんどん足してくれるので経済的でもある。僕はルイに来ると必ず一度はこのゲーン・ソンとクン・テンを食べ、腹の虫を満足させていた。
ある晩、県の畜産事務所の所長さんの招待を受け、食事を一緒にした。その人はサティスよりも若いくらいの年齢で、なかなかやり手の所長らしい。ここルイで手柄を上げ、もっと上のポストを狙っているに違いない。そういう野望のある人はよくしゃべる。家族とも離れて暮らしているからだろう、話を聞いてもらいたいのだと思う。そのためその日の夕食も終わったのが真夜中近くになってしまった。さてこれでぐっすり眠れると思ったのだが甘い甘い、その所長さんがもう一軒連れて行きたいところがあると言い出した。彼は酒を飲まないのでいったいどこへ行くのだろうと不思議に思う。しかし断るわけにもいかないのでみんなでついて行くことになってしまった。そこは街から車で15分ほど走ったところにある何の変哲もないみすぼらしい店だ。店の前で女の人が何かを暖めていたがそれだけで、店の中にはテーブルと椅子の他に何もない。いったい何が出てくるのかと思いきや、それはマグカップに入った暖かいミルクだった。その所長さんはしきりに「うまいだろう、うまいだろう」と言って飲んでいる。うーん、僕にとっては暖かい牛乳以外の何ものでもなかった。何で夜中の12時過ぎに、男ばかり6人で、車に15分も揺られ、牛乳を飲みに行かなければならないのだろうか。これには何か深いわけがあるのだろうか。所長さんはルイ産の牛乳を試飲させたかったのだろうか。それに何で夜中の12時過ぎに牛乳屋が店を開けているのだろうか。と、頭の中はハテナ・マークであふれかえる。幸いなことにその店ではあまり長くならず、1時にはホテルへ戻って眠りにつくことができた。フィールド・ワークがある日の朝は7時にホテルを出発することになっているのだ。
ルイでは朝食もまた楽しみだった。毎朝必ず同じレストランへ食べに出かけ、そこで事務所のスタッフ3人と落ち合うことに決まっていた。その店で食べるのはトム・ルアッド・ムー(最後のムーが豚を意味する)というスープである。これはクリアー・スープであっさり系、味は日本人好みかもしれない。しかし中に入っているのは、豚の血を固まらせたブロック(赤い豆腐のようだ)、豚肉、豚の内臓(腸、肝臓、脾臓、心臓)等々盛り沢山で、日本人好みでないかもしれない。しかし僕好みではある。これを白いご飯と食べ、食後にはアイス・コーヒーを飲んで、幸せな気分でフィールドへ出かけて行く。
ルイへ通い始めて2年も経った頃だろうか、新しい地域に再び牛が導入されることになり、僕たちはその中の10軒の農家を対象にして経時的な調査を行うことにした。牛が導入されて間もなく訪ねてみると、どの農家でも必ず1−2頭は様子のおかしい牛がいた。元気がなく動きが緩慢なのですぐにわかる。しかし農家のおじさん、おばさん達はそんな牛の様子に全く気がついていなかった。弱っている牛を無理矢理立たせようとしたり、餌を食べていないことに気がつきさえしていない。牛は立たないのではなくて、具合が悪くて立てないんだと説明するだけでも時間がかかる。初めて牛を飼う人たちなので、牛がどういう状態の時に具合が悪いのか見当もつかなかったようだ。だるそうにしている牛の体温を測ると40度以上もある。粘膜を見ると蒼白だ、ひどい貧血を起こしていた。おそらくアナプラズマだろうと当たりをつけて薬を注射する。
ある農家に行ってみると牛がみんな痩せている。どうしたのかとサティスがおやじさんに尋ねると、こういう答えが返ってきた。
「こいつらは全然、乳を出さない。これじゃ金に何ねえ。だから牛が乳を出すようになったら餌をやる。それまでは餌なんてやんねえんだ。」
勘弁して欲しい。これを聞いてサティスがおやじさんに噛んで含めるように説明する。
「人間だってご飯食べなきゃ元気が出ないだろ。おかあちゃんだって栄養つけなきゃ母乳が出ないだろ。牛だってそれと同じなんだよ。餌を食べなきゃ乳は出ない。ちゃんと栄養つけさせないとみんな死んじゃうぞ。」
おやじさんは渋々頷いて餌をやると約束してくれた。
さて、この地域でも流産が起こり始めたのだが、どうもトリパノゾーマが原因ではないように考えられた。それは前の経験をふまえて、チャンプラサートが妊娠5−8ヶ月にある牛を対象に予防的処置を施していたにもかかわらず発生し始めたからだ。他の原因を考えてみる。キャンピロバクターは人工授精で妊娠させる乳牛では稀だ。レプトスピラの可能性はあるが、その場合、もっと子牛で感染例が増えてもおかしくない。ブルセラは検査をしたが陰性だった。するとウィルス感染による流産だろうか。そうなるとちょっと厄介である。そんな折り、短期の専門家がネオスポラという病気の検査キットを日本から持って来てくださった。
このネオスポラという病気は比較的最近になってから発見された病気で、一躍牛の流産原因ではトップの座に躍り出た輝かしい病原体である。これも原虫の一種で、猫から人に感染するトキソプラズマという原虫に最も近い。ネオスポラは三日月といおうかバナナといおうかそんな形をしており、脳の中にシスト(嚢胞)を形成する。虫がこのシストの中に大人しく留まっているうちはよいのであるが、このシストが破れてネオスポラが活発に動き出すと色々な症状が出る。もちろん脳の組織を壊すわけだから神経症状も出るし、胎盤で悪さをすると流産を起こすことになる。この虫は最初イヌで見つかった。母犬から子犬に胎盤を通して感染し、生まれてきた子犬は四肢の麻痺などの神経症状を出して死んでしまうことがある。牛でも同じだ。感染した雌牛は流産を起こしやすくなる。また奇形の子牛や、神経症状を呈する子牛を産むこともある。陽性の親からは9割近い確率で陽性の子供が生まれるため、なかなか厄介な病気である。治療薬がなく、現在のところ徐々に陽性の牛を淘汰していくしかコントロールの有効な手段がない。
それで早速この病気の診断を試みた。すると流産した牛のほとんどがこの病気にかかっており、流産していない牛の陽性率に比べると格段に高く、統計学的にこの地域での流産の原因はネオスポラであると結論づけられた。しかし原因はわかったものの、今回はそれに対して何の対策も取ることができなかった。治療薬もワクチンもないのだからお手上げである。陽性の牛を減らすには折を見てその牛を殺すしかない。しかしそんなことは5頭しか飼育していない農家にはまず無理な話である。幸いなのはネオスポラに感染していたとしても必ずしも流産するとは限らず、また成牛ではそれ以外の症状はまず現れないということか。トリパノゾーマの時はクリーンヒットを飛ばしたのだが、この時は農家の役に立てず何とも歯がゆい思いをした。
この地域の農家は非常に貧しい。一番最初にルイを訪れた時、彼らの住んでいる家を見て驚いた。それは板壁も満足にないような小屋で、当初それは仕事の最中に休むための休憩所であり、本当の家はどこか近くにあるのだろうと僕は思っていたくらいだ。最もそんな家でもテレビだけは揃えており、ちょっとリッチな農家にはコンポーネントステレオなどもあって驚いた。収入はもちろん低い。酪農を初めてから収入が安定し、増えてきたということだが、それでもひと月の稼ぎはたかだか2000バーツ(当時約8000円)程度である。バンコクで華やかな暮らしをする人々がいる一方で、タイの農民はまだまだ貧しい暮らしを強いられている。
僕らが農家へ行くと採材はユタチャイ、ユット、ソンクランの3人がすべてパーフェクトにこなしてくれる。下手に僕などが手を出そうものなら彼らのチームワークが乱れてしまうので、すべてお任せにしておいた方が事はスムーズに運ぶのだ。サティスはまず牛の体格を評価し、次に農家のおじさんと話をしながら牛の乳量、分娩日もしくは予定日、最近の病歴、などを聞き出していく。年数が経つにつれて新たに牛を飼ったり、売ったり、子供が成長してきたりするので、そこらあたりの関係も詳しく調べなければいけない。僕はというとそれぞれの牛の台帳をおじさんに借りて、サティスが書き込んでいくデータが本当かどうかをチェックする。特に牛の誕生日や分娩日は間違って覚えているおじさんが多いので注意が必要だ。牛舎の片隅に座り、下手なタイ語を駆使しながらおじさんと一緒に台帳を調べていると、僕らのまわりの時間だけがゆっくりやさしく流れていくようで何ともいい気分になる。
ひと通り終わると今度はサティスとチャンプラサートが近所の人たちも集めて世間話を始める。とはいってもつまらないうわさ話などをするのではなく、酪農に素人な農家の人たちにどうしたら牛はしあわせに感じ乳を沢山出すようになるかを、わかりやすく説明するのである。衛生管理の仕方、乳の搾り方、餌のやり方、等々。やさしい言葉でひとつひとつ質問に答え、時間をかけて話をする。僕はこういう時間が農家の人たちにとって一番大切なのだろうと思っていた。時間をかけることで信頼関係ができ、僕らを受け入れるようになってくれる。それゆえ僕は手持ちぶさたではあったが絶対に急がせることはしなかった。2月頃に行くとタマリンドの季節であちこちに実がなっている。それを取っては殻を破って実を食べ、ユットやソンクランと種の飛ばしっこ何かをしながらのんびり待っていた。毎回必ず食事を用意してくれる農家もあり、パパイヤの代わりに瓜を使ったソムタムや、揚げた魚、トム・リアンという酸味の強いスープ、ラープやヤム等々、いつも沢山のご馳走を揃えてくれた。
酪農を初めて2−3年もすると今度は農家によって様々な面で差がはっきりしてきた。つまり色々と工夫をしてやりくりしている農家は牛の頭数も増え、収入も倍くらいにふくらんでいる。しかし無駄の多い大ざっぱな経営をしている農家では、頭数も乳量も増えていなかった。人のちょっとした工夫によって、短期間のうちにこれだけの差がついてしまうのかと思うほどその違いは歴然としており、こればかりは僕らにもいかんともしがたい現実であった。僕らのこんなフィールド・ワークは少しずつ実を結び、あちこちの地域からお呼びがかかるようになっていった。 (2002年 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記、「タイ国立家畜衛生研究所計画」フェーズ2プロジェクト 元長期専門家)
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