タイ人と働く・・・

5年間、タイ人と働いていて気になったことがいくつかある。僕らは研究所で働いているわけだからある程度は科学的なことをしているわけである。科学的に仕事を進めていくということは、理論的に物事をこなしていくということだ。しかしラボ・テクニシャンばかりでなく多くの研究者は自分が毎日行っている実験や診断について、その原理を理解していない。すると何かがうまくいかなかった時にその原因を突きとめることができなくなる。つまり失敗した時にその原因がわからないままにお手上げ状態となってしまう。もしくは全く的はずれなところにその原因を探ろうとする。失敗したとわかった人はまだいいかもしれない。下手をすれば失敗したこともわからずにそのまま続けようとする人もいる。

例えば色々な実験をするにあたってバッファーと呼ばれる緩衝液を使う。これは容液のpH(酸性やアルカリ性の度合いを測る指標)が大きく変化しないようにするための液体である。扱う蛋白やDNAの種類によってこのバッファーの種類やpHが細かく定められている。そしてバッファーの種類によってそのpHを調整する時に使う溶液も決まっている。これはラボで働く者にとっては常識のような決まり事なので、実験手順にもあえて書かれていないことが多い。しかし多くのテクニシャンがこのことを知らない。テクニシャンばかりでなく研究者にも知らない人が多い。研究者自身が知らないのであるから、テクニシャンが知らないということを研究者が知るよしもない。そういった状況で研究者はテクニシャンにバッファーを作らせる。そしてそのバッファーを何の疑いもなしに自分の実験に使用するわけであるから、うまくいくはずがない。つまりひとつには基本的な知識が不足しているために根本的なミスを犯す。そしてふたつ目には自分の手足になってくれるテクニシャンをスーパーバイズすることができず、それにもかかわらず彼らの仕事を盲目的に信用してしまっている。最もこれはタイ人の人の良さからくる欠点かもしれないのだが。

まだまだある。タイ人の同僚は、自分や他の人たちが行った実験の結果を疑いもしない。僕などは「得られた結果はまず疑ってかかる」、というのが鉄則と思っているところさえあるが、彼らはこれまた盲目的に信用してしまう。まずありえそうもない値が出てきてもそれを信じて疑わない。例えば、血清に含まれている抗体の量はおおよそ明らかになっている。つまりどのくらいの量の血清からどのくらいの量の抗体が精製できるかということはだいたい見当がつくのである。それにもかかわらずその見当量の4倍も5倍も多い抗体が精製できたと素直に思っている。当然、精製過程か精製後に行った抗体の定量方法に問題があったということは容易に想像がつく。彼らの知識不足から得られるであろう結果を理論的に予測することができないので、間違いを発見できないのである。

そしてまだまだ続く。実験がうまくいかなかった時、その原因を見つけることができない。普通、実験の理論的な背景を理解していれば自ずとどこら辺に原因がありそうか察しがつくのであるが、そのように考えることができる人は本当に少なかった。だからすぐに放っぽり投げてあきらめてしまったりする。「うまくいかなかった原因は何だと思うか」と尋ねると、たいてい的はずれな答えが返ってきた。実験に失敗はつきものであるから、それを解決できないのは致命的だ。寄生虫学研究室でいつも一緒に仕事をしていた若いスティサックやポンサトーンもその代表選手であった。自分で考えて問題を解決する力、間違いを見つける力が欠けている。こういう自分たちの欠点に気がついている立派な方もおり、その点について彼の意見を聞いてみたところ次のような答えが返ってきた。

「タイの学校では先生に言われた通りのことができる子供が一番だ。常に先生の教えに従ってそれからはずれたことをしない子が褒められる。子供の頃から自分で考えて物事を行ったり問題を解決したりする訓練を受けていないんだから、大人になってからもできないのはあたりまえだ。つまり初等教育のあり方に問題があるためで、これはなかなか改善されないだろう。」

 うーむ、大学教育だけでなく初等教育にさかのぼって問題の源があったのか。人を育てるというのは様々な要素が影響し合い、かつ時間のかかるものなのだなあと改めて実感した。

スティサックやポンサトーンに失敗の原因を聞かれると、僕はいつもヒントだけ与えてなるべく彼らだけでその理由が見つけられるように配慮した。最初のうちはとんちんかんであった彼らの答えも、時が経つにつれて核心に近づくようになってくる。失敗の原因候補がいくつかわかればあとは簡単だ。それをひとつひとつ確かめていけばいいのである。最初は何をするにもいちいちお膳立てをしてあげなければできなかったふたりだったが、僕が帰る頃には自分で計画を立てて仕事を進められるようになっていた。日本人専門家による「脅し」と「なだめすかし」の波状攻撃も少しは成果が上がったように思う。

そして更にもうひとつ。タイ人は本を読むことが嫌いだ。だから知識が乏しいのだろう。問題があった時に本を読んでその原因を探ろうとする意欲がなく、すぐに人に聞いて済ませようとする。また研究者にとっては文献を読みあさるという作業が大切である。同じ分野で働く他の研究者がどんな仕事をしているのかを知らなければ、自分がするべき仕事の方向性さえ見えてこない。本を読まないタイ人は、当然の事ながら文献も読まない。それゆえアイディアに乏しく、他の研究者が他の国で行った研究を焼き直しするようなことばかりしている。ある人が行った研究をタイで繰り返し、タイでは初めての試みであると喜んでいたりする。つまりオリジナリティーに乏しいのだ。最もこれはタイに限ったことではなく、発展途上にある国では一般的な現象かもしれない。アイディアよりもテクニックを重視する傾向があり、特に最先端の技術は誰でも習いたがる。ところがそれを使って何をするのかというアイディアが何もない。本来であればこれは逆であるべきで、まずアイディアがあり、次にそれを実現させるために必要なテクニックを修得するというのが順当な流れだ。目的があってこその技術なのだが、タイ人には技術を習得することが目的になってしまっている人が多く見られた。

そしてそして悪口はまだ続く。これは欧米の研究者に倣っての習慣だと思うが、獣医のような研究者には自分で動かない人が多い。自ら実験室に立って実際に手を動かすということをせず、部下のテクニシャンやラボ・ワーカーに指示だけ出して自分はデスク・ワークを決め込む。これが欧米でできるのはテクニシャンやラボ・ワーカーの質が非常に高く、彼らの技術力は恐らく研究者よりも優れているからだ。だから研究者は安心して彼らにまかせていられるのである。ところがタイのテクニシャンはとてもそんなレベルにはない。まともな訓練など受けてきてはいないので、バッファーでさえ作れない。つまりそれなりの仕事をさせるのであればそれなりの訓練をしなければいけないのに、それさえ与えず単に実験の手順だけ渡して仕事をさせる。指示されたテクニシャンはわけもわからないまま、ひたすら手順の通りに仕事を進め、とにかく一応の結果を出す。僕であったらそんな結果など全く信用などしないが、人の良いタイ人研究者はその結果を持って議論を始めたりする。研究者自身にテクニシャンを訓練するだけの力量がないのが問題である。

そして更にもうひとつつけ加えるなら、ひとつの実験を分業したりしてしまうことも問題だ。個人個人のプライベートな予定に合わせ、溶液作りは誰々、このステップは誰々、次のステップは誰々というようにひとつの流れを分けてしまう。すると問題が起こった時にどこのステップに原因があったのかわからなくなってしまうのだ。多くの人が関われば関わるほど責任感が薄れ、いい加減になる。またこれは複数の人間を対象にしてテクニックを教える時などにも同じ事が起こった。例えば2人にあるテクニックを教えるとする。するとこのふたりは分業を始めてしまい、結果的にどちらもきちんと技術を習得できないことが多かった。教えている最中に携帯が鳴ってはせきをはずす。お客さんが来たといっては話を始める。しかしその間にも、もうひとりの相棒が仕事を進めてしまうため、抜けた部分ができてしまうのだ。それゆえ僕は基本的に1対1でしか実験の手技などを教えることはしなかった。これだと効率は悪くなるかもしれないがすみからすみまで目が行き届き、相手の理解度もよくわかる。それに試験官を振りながら色々な世間話に花を咲かせるのも面白かった。

ざっと思いついただけでもこんなに問題点が見えてくる。しかしよく考えてみればこんなタイ人の考え方、働き方もごく自然な事なのかもしれない。熱帯の国タイではあくせく働く必要などなっかたのだろう。住む家がなくても凍えて死んだりはしないし、食べ物を買うお金がなくてもフルーツはあちこちになっている。そう遠くない昔にそんな暮らしをしてきた人々が、近代化の波にのまれて都会の中で暮らすようになったわけだ。おっとりのんびり仕事を進め、理論的というよりも直感的に物事を考えるのは仕方がないのかもしれない。まして僕の同僚達は国家公務員である。適当にやっていれば給料がもらえる。あくせく働いても同じ金額である。しかもめったに解雇などされることもない。これでは「一生懸命に仕事をしろ」と口を酸っぱく言ったところで耳にはいるわけがないのは明らかだ。

ではどうすればいいのだろうか。彼らを「実験がしたい、フィールドで働きたい」と思わせるためには何かしらのモーティベーションが必要である。その頃、僕が考え得るモーティベーションは5つあった。ひとつ目はお金。仕事をした分だけ給料が上がれば一生懸命に働く人は多いだろう。次が上司からの命令。かなり上の方から命令が下ると目の色を変えて仕事をする。3つ目が昇進だ。仕事の内容が昇進につながればそれなりに力を入れて仕事をするはずである。4つ目は責任を持たせること。プロジェクト活動のひとつとして決められている事をタイ側スタッフに丸投げしてしまい、僕はサポートする側にまわると案外責任感を発揮するかもしれない。そして最後に個人的な興味だろう。研究内容やフィールド・ワーク自体に興味を持っていれば、これは非常に強いモーティベーションになる。実際、日本の研究者の多くがこの個人的な興味から日夜研究や開発に明け暮れている。それは「プロジェクトX」を見れば一目瞭然である。

そこで「タイでは」と考えると、まずひとつ目の「お金」は却下される。給料に関しては全くタイ側の問題であり、プロジェクトとしても彼らの仕事に対する報酬は支払わないことになっていた。ふたつ目の「命令」をモーティベーションとするのも望み薄だ。例えば畜産局の局長から命令されればラボのスタッフはそれに従うが、単に室長あたりから指示をされたくらいではうやむやになるだけだ。強いペナルティーが伴わない「命令」はモーティベーションとしては弱い。しかし「昇進」については望みがありそうだ。タイの公務員は等級で分けられている。これは必ずしも年功序列で決まるものではない。昇級を望む者はそれまでの自分の業績をレポートにまとめ、それを昇級委員会に提出する。そして委員会が正当と認めれば昇級されるという仕組みになっている。研究所の職員である場合、科学ジャーナルに発表した論文の数や質などが大きく審査の結果を左右するため、良い研究をすることが昇級につながっていくわけだ。これは良いモーティベーションになるだろうと考えられる。次の「責任」については未知数だった。ひとつの仕事を成し遂げることに喜びを感じるような人間であれば任せても大丈夫だろう。しかしそうでなければプロジェクトとしての評価に関わる問題となるため、いずれどこかの段階で手を出さざるを得なくなる。そして一番強いモーティベーションとなりうる「興味」についても未知数だった。興味を持ってもらえるような指導を試みることはできるが、実際にその人が興味を持つようになるかどうかは全く本人次第だ。しかしこれはトライする価値が十分にある。

「モーティベーション」という観点から考えると、民間企業はすごくはっきりしている。お金を儲けることが最大の目標であり、そのために従業員一同仕事に励むわけだ。タイでも企業間の競争は激しくなりつつあり、特にアジア経済危機以降はサービスや対応が向上してきたように思えた。ところが公務員はといえば話は別だ。一応国民に奉仕するために働いているとは言っても、日本でもタイでもそんな公務員は稀だろう。みんなのんびり構えていて危機感に乏しい。そんな人たちとプロジェクトを動かしていくためには、それなりのモーティベーションが必要となるのも当然のことと言えた。

と、以上まとまりもなく長々と書いてしまったが、結論として僕が気を遣っていたのは、なるべく仕事を面白く興味深いものに組み立てること、最初の道筋は引いてあげるがその後はカウンターパートの自主性にまかせること、そして得られた結果は科学ジャーナルへの投稿論文とか学会発表という目に見える形で残すことの3点だった。これはタイで働いている間に自然と行き着いたやり方であったが、後々考えてみれば、相手に興味を持たせ、仕事に責任を持たせ、それを昇進につなげるという流れに沿っており、自分は思ったよりは理論的なのかもしれないと少しほくそ笑んだわけである。 (2002 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記、「タイ国立家畜衛生研究所計画」フェーズ2プロジェクト 元長期専門家)

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