地方へ出張する・・・
当時、タイには北部、東北部、そして南部に地域獣医診断センターがあった(現在では7カ所に増えている)。プロジェクトではこれらのセンターもプロジェクト・サイトに含めており、バンコクの研究所からセンターへと技術移転をはかっていくことが大きな目標にもなっていた。それゆえ僕はプロジェクトの開始直後からこれらのセンターへ出張に出かけようと張り切っていたのであるが、なかなかお許しがもらえずに足止めを喰らっていた。つまりプロジェクトでは、専門家がセンターへ出かけて行って技術指導を行うよりも、センターのスタッフをバンコクへ呼んで一度に技術指導を行った方がより効率的だと考えていたからだ。確かにそうである。3カ所ひとつひとつで同じことを教えるのであれば、バンコクで一度に教えた方が能率的だ。しかしそれはあくまでも能力的に優れた人たち、意欲の高い人たちを対象にした場合に功を奏する方法であろうが、能力や意欲にばらつきがある場合にはうまく事は運ばないだろうと思っていた。また各センターによっても求められるものが違い、使用できる機材の状況も異なる。まあ、僕としてはバンコクにいたくなかったので、「地方へ行きたい行きたい」とだだをこねていた部分もあるのだが、とにかく事あるごとに主張し続けた。そして1年が過ぎた頃、東京の本部から出張のための予算が付いたという知らせが入り、2年目からいよいよ出張に出かけることになる。
僕の出張のパターンは基本的に1回2−3週間、四半期に2回、つまり年8回である。単純に計算して年に少なくとも20週間は出張に出ており、良く動き回ったものだとつくづく思う。基本的に各センターで行った仕事は、バンコクの研究所で開発した診断法の普及とそれを用いたフィールド・ワークであった。もちろんセンターの設備の良し悪しを考慮しながらもう少し突っ込んだラボ・ワークをしたり、問題となる病気の違いを鑑みながらフィールド・ワークのやり方を変えたりと工夫をした。おおむね地域センターは規模が小さいだけに家族的なところがあり、僕にとってものすごく居心地が良かったし、仕事以外でのつきあいも深かった。またフィールドに近く、思いつくとすぐに農家へ出かけられるという足回りの良さも気に入っていた。
出張はもちろん自分で運転して出かけた。スピード違反の取り締まりが結構厳しくて片道で3度も捕まったこともあったが、これは何とか愛想の良さで切り抜けた。それでも車の中が唯一ゆっくりと音楽に耳を傾けることができる場所であったため、診断センターへのドライブが至福の時でもあった。当時はアラニス・モリセットやジョアン・オズボーン、シェリル・クロウといったアメリカでもちょいと癖のある若手の女性歌手がのしてきた頃だったので、結構気に入ってよく聴いていた。イギリス系ではザ・スマッシング・パンプキンズとかザ・ビューティフル・サウスあたりのたそがれ系サウンドにのめり込んでいた。さて、それではひとつひとつ個性的なセンターの様子を紹介していこう。
北部地域獣医診断センターはランパンという街にある。バンコクから北に向かって約700キロの距離だ。そこからひとつ山を越えるとかの有名なチェンマイに着く。センターではほとんどのスタッフが同じ敷地内にある官舎に住んでいるため、家族のようなつき合いをしている。プライバシーや何やらで色々と大変な面もあるのだとは思うが、少なくとも表面上はうまくやっていた。僕は主に免疫・血清学セクションの面々と仕事をしていたのだが、もちろん2−3度通ううちにスタッフ全員と顔見知りになった。
セクションのチーフはチャイワット、小柄で小太りだがかわいい顔をしているおじさんだ。彼の奥さんパチャラは寄生虫セクションで働いており、なかなかの美人で英語もうまい。もうひとりの獣医であるウィチアンは大学を出たばかり、まだバンコクの都会暮らしに未練たらたらといったところ。それでも徐々にランパンの田舎暮らしに慣れつつあった。サイエンティストのニタヤはごく普通の地味な女の子だが、仕事はてきぱきとこなしていた。一番親しくしていたのが獣医助手のセキサンで、タイ人には珍しく大柄で人なつっこく、それでいて何事にも物怖じしないところがあった。
北部タイは気候の良さが手伝って、かなり古くから酪農で生計を立てている農家が多い地域であった。トリップスによる衛生上の問題は牛で少なく、いつも豚に被害が発生していた。それゆえセキサンやウィチアンとは豚屋さんへよく出かけた。たいてい一度出かけると帰りには必ず池の上のレストランに寄り、食事をしながら池で釣りなんぞを楽しんだりした。よく食べたのはガイヤーン(焼いた鶏)とソムタム(青いパパイヤのサラダ)だったが、これは両方とも東北タイの料理だ。北部料理といえば宮廷料理が有名なのだが、これは特においしくもない。北部の食べ物で特に僕が気に入っていたのはナム・プリック・ヌンというペーストで、これを油で揚げた豚の皮につけたり、ゆでた野菜につけて食べると辛さが口の中に広がって汗が噴き出てくる。このナン・プリック・ヌンにタガメから採った香料で匂いつけしたものがあり、その姿からはとても想像ができないほどの良い香りが鼻を刺激した。また竹につく白く細長い芋虫を油で揚げたスナックもおいしかった。見た目が悪いので最初抵抗があるが、一口食べ出すとまるでポップコーンの様に軽くてやめられなくなる。果物ではこのあたりはラムヤイ(ロンガン=竜眼)の名産地である。ちょっと種が大きいものの、あのみずみずしく透き通った果肉はさっぱりとした程良い甘さをたくわえ、これも食べ出すと止まらなくなる。シーズンの6−7月頃にランパンへ出張すると、必ず5−6キロは買ってバンコクへおみやげに持って帰った。
北部地域では未だに象を使って山から木を切り出すといった作業を行っているため、診断センターのすぐ近くには象の訓練センターがあった。タイで唯一の機関であり、若い象が山で仕事をするための訓練や、虐待にあったり怪我をした象のリハビリなどを行っていた。この訓練センターからの依頼で定期的な象の健康管理なども行っていたため、何度か採血に出かける機会があった。耳の血管から採血するのだが、調教師の一言でずっとおとなしく我慢している大きな象の姿は何ともいじらしい。牛などは飼い主の言うことなどききやしないが、馬と同じように象もじっとしている。動物も種類によって頭の良し悪しがある。まあ、頭がいいからこそ象は共同作業ができるのだが。そういえばある街のはずれに車を止めて地図を見ていたことがある。ふと顔を上げるとルームミラーに象の姿が映った。後ろの方からゆっくりと歩いてくる。もちろん背中には人が乗っている。その象をやり過ごしてから車を出そうとしばらく待っていた。するとその象は車の横に止まり鼻で運転席の窓ガラスをコンコンとノックする。窓ガラスを開けると、ぺこりとおじぎをして、「サワディー・カッ(こんにちは)」っと言った。もちろん背中に乗っていたおじさんが言ったのだが、僕には大きな象の姿しか目に入らなかったため、まるで象が本当にしゃべったような錯覚を覚えた。象はこんな芸当もできるのである。
さて北部獣医診断センターで忘れてはならないのが「おかまちゃん」の存在である。しかもひとりやふたりではない。何とスタッフの中に4人もオカマちゃんがいた。スタッフ全員で30人くらいの所帯なので1割がオカマということになる。これは高率だといえよう。もともとタイはオカマの多い国である。しかも市民権を得ているようなところがあり、後ろ指をさされるようなことは少ないようだ。しかし、いずれしても診断センターは腐っても国の機関である。そういうところでオカマちゃんが働けるという現実に、正直な話、タイは懐の深い国だなあと感心してしまう。ケツの穴の小さい日本の政府機関では考えられない事だ。そのオカマちゃん達はなかなかのエンターテイナーであった。
研究所と診断センターは年に一度か二度、合同のミーティングを開いていた。活動報告と情報交換が目的だが、だいたい観光地のホテルで行っていたため慰労会という雰囲気が強かった。このような時にタイ人は必ずといっていいほどみんなが楽しめるようなアトラクションを準備する。たいていの場合ゲームであったりカラオケであったりするのだが、彼らオカマちゃんはいつもそれに花を添えてくれた。彼らの出し物は踊りなのだが、きれいに化粧をし、きちんとした衣装も揃える。ある時はコメディータッチのハワイアン、ある時はシリアスなタイ舞踊とバラエティーにも富み、見る者を飽きさせない。女性スタッフもうっとり見とれるほどで、いつもかなりの練習をこなしていたはずだ。
プーケットの近くにあるクラビというリゾート地でミーティングが行われた時、バスを借り切りパンガーという景勝地へ観光に出かけた。そこはベトナムのハロン湾の様なところでその一帯の海や陸地に岩山が林立して独特の空気を漂わせている。パンガーでは船に乗り換え、水上に建てられたモスレムの部落を訪ねたり、007のロケで使われた島(のちにジェームズ・ボンド・アイランドと呼ばれるようになった)に上陸したりした。その島でぶらぶらと歩いていたらそのオカマちゃんのうちのふたりとすれ違った。「ヨオ」と声をかけたらしばらく間をおいて「いっしょに写真を撮っていいか」と聞かれた。快く返事をして立ち止まると、ひとりがカメラを構え、もうひとりが僕の方へやって来る。こういう場合、当然のことながら相手は自分の真横に立つと思うのが普通だ。しかし彼は違った。僕の背後にまわり後ろ左斜め横に立ったかと思いきや、左肩の上に顎、つまり顔をのせてきた。正面から見ると顔がふたつ並んでいるという構図だ。こういうポーズで写真を撮ったのは生まれて初めてだったと思う。しかも腰に手を回されて逃げられなくなってしまい、どんな顔をして良いのやらあたふたしてしまった。その僕の左肩に顔を乗せたオカマちゃんはちょっと太り気味なのを気にしてか、仕事が終わるとセンターの敷地内をよくジョギングしていた。その姿もなかなか個性的で未だに目に焼き付いている。ジョギングをする時は軽くにぎった両手を体の横で前後に振るのが普通だろう。ところが彼の場合は、軽くにぎった両手が胸の前で左右に揺れるのだ。しかも両手がシンクロしているので、よくあれで走れるものだと感心していた。足が若干内股気味であったのは言うまでもない。
タイの東北部イサーンは国で一番貧しい地域である。気候が厳しく、特に雨期は蒸し暑くて農作業が過酷な重労働になる。農民は主に米を作って生活の糧としてきたが、気まぐれな天候のせいで全く収穫のできない年などもあり、なかなか生活が安定しない。性産業や労働条件の悪い工場で働かされている子供たちの多くがこの地域の出身であり、お金のために子供を売る親が後を絶たないほど状況は深刻である。この東北部の中心地コンケンに東北地域獣医診断センターがある。
コンケンはバンコクから約500キロ、ほとんど全行程が片側2車線なのでドライブも快適である。途中、コラートというというタイ第二の街を通る。このあたりはタイで一番洪水の被害を受けやすい地域で、例年になく雨量の多い年は大変であった。北部で降った雨がこのあたりの流域で氾濫を起こすためだ。主要幹線だけは盛り土をしてつくられているためかろうじて灌水は免れるが、そのまわりの家は屋根だけ残して水没してしまう。車を運転していると屋根の上でボーっとしている人たちが目に入り、夜はどうするんだろうかと心配になる。またこのあたりにはワニの養殖場が多く、3000匹近いワニが逃げ出したとニュースで報道されていた。ロビーが灌水したあるホテルで、上の階から降りてきた客がロビーに入ろうとしたら危うくワニに咬まれそうになったという、ちょっと眉唾物の話も聞いた。そのコラートを過ぎて少し走るとピーマイというアンコール時代の遺跡がある。アンコール・ワットには遠く及ばないが、それでもタイの遺跡の中ではなかなか趣があって好きだった。ピーマイからコンケンまではもうあとCD2枚くらいの距離にある。
この街の獣医診断センターは数年前までドイツのプロジェクトが入っていた。その影響が大きいと見え、特にシニア・スタッフには地に足の着いた考え方をする人が多い。つまり流行りの技術ばかり追いかけようとするのではなく、フィールドに根ざした仕事を心がけていた。
ここでは寄生虫のセクションでラボ・ワークをしていた。セクション・チーフはマンヴィカという背の高いすらっとした女性だ。そして彼女の旦那は生化学セクションのチーフでサティスという。この夫婦が実質的にこのラボの大黒柱であり、僕はこのふたりといつも動き回っていた。寄生虫セクションにはマンヴィカの下にビナイというまだ若い獣医がいた。こいつはブリラムという田舎の中の田舎出身で、色が黒くちょっとかわいいゴリラのような男である。典型的なイサーンのあんちゃんだ。ところがどっこい、嫁さんはとてつもない色白の美人であった。不釣り合いもいいところで、まさに美女と野獣を地でいく若きカップルだった。そしてもうひとり、働き者で有能なユタチャイという獣医助手がいて、彼のフィールドでの活躍ぶりは素晴らしかった。
このイサーンはおそらく最もタイらしい地域だろう。人々は貧しいが人が良く、そして料理もおいしい。ガイヤーン(焼き鳥)やソムタム(千切りにした青いパパイヤのサラダ)、ラーブ(挽肉に香菜を和えた料理)、コー・ムー・ヤーン(豚の喉のあたりの肉を焼いた料理)などをカオ・ニアウ(餅米)と一緒に食べるのがおいしい。しかしかなり内臓系も料理に使われるため、苦手な人は少々気をつけなければならない。ある日、日本から来られたお客さんを案内して、近くの村へ酪農家の見学に出かけた。イサーンの酪農家はほとんどが小規模であり、5−10頭の乳牛しか飼っていない。そんな酪農家を見学に出かけたのである。それまでにも仕事で何度も農家に訪れていた僕はアテンドをセンターのスタッフにまかせ、その村の中をぶらぶら見学して歩いていた。その日はちょうど何かのお祝いごとがある日だったらしく、一軒の大きな家に女子供が集まって食事の準備をしていた。男達は何をしているんだと思いきや、反対側の広場に集まって牛と格闘している。お祝いのために牛を一匹つぶすのだろう。値のはる牛を殺すのだからかなり重要な行事に違いない。しかもかなり大きくて、400キロ以上はありそうであった。さて彼らの解体の手さばきはどんなものかと、そちらの方へとことこと近づいていった。動物を殺すところはあまり外部の人に見られたくないであろうから、追い返されるのではないかと思ったが、そんな僕の心配をよそにみんなニコニコして挨拶を交わす。そこには喉をかき切られて息絶えた牛が横たわっていた。今、死んだばかりだ。これからすぐに解体を始めるというので、その場で見学することにした。
まず皮をはぐ。そこにいたのは5−6人ほどの農家のおっちゃんであったが、2−3人が包丁やナイフを振るいてきぱきと剥いでいく。なかなか慣れた手つきをしており、結構やるな、という感じだ。皮を剥いで牛が丸裸になると今度は内臓にかかる。これもまたサッサと進めていく。病理検査の時に検査官が行う解剖は見とれてしまうほどプロフェッショナルであるが、このおっちゃん達にもそれに近い無駄のなさがあった。腸管を出し終わり、腎臓、脾臓と出していく。と、その時、脾臓を取り上げたおっちゃんが一切れスライスして自分の口に入れた。おいしそうに食べている。唖然として見ている僕。すぐにまわりにいたおっちゃん達にも切って渡し始めた。そして最後に嫌な予感は的中し、僕のところにも差し出された。脾臓なんか焼いたって食べたことがないのに、何で生のままで食べなきゃいけないんだ、と思いつつもこの場の雰囲気を壊したくなかったので、包丁の上に乗せられたスライスを恐る恐る口に運んだ。生臭い。あたりまえか。何を食べているのだかわからないというのが正直な感想だった。歯ごたえはしっかりしていたが味はない。とにかく飲み込んだ。おちゃん達はニヤニヤ笑いながら見ている。そしてラオ・カオ(タイの焼酎)を一杯注いでくれた。そのラオ・カオを一気に飲み干して喉を洗う。すると、40度を超えるラオ・カオが体中に染みこんでカーッと熱くなった。これで完全に吹っ切れ、あとはもう何でもござれと気が大きくなった。
お次は肝臓に移った。僕は肝臓が持つ独特の食感、口腔粘膜にまとわりつくような歯ごたえのなさが大嫌いである。あのもそもそしたみずみずしさのない口当たりが嫌なのだ。が、そんなことをおじさま達はご存じない。すすめられるがままに口に運ぶ。生の肝臓はやっぱりもそもそしていたものの、みずみずしくはあった。しかし単にそれは血で濡れているからという物理的な理由によるためだ。まずくて生臭いことには変わりない。脾臓は二切れ、肝臓も二切れごちそうになった。そして三切れ目を渡され、ろくに噛まずに飲み込もうとした時、戻しそうになり、あやうく踏ん張って何とかこらえることができた。ひとスライス食べるごとにラオ・カオのシングルを一気飲みしているため、体は火照って仕方がない。まだ昼前である。
それでもまだバンケットは終わらない。次はタン(舌)に移った。牛のタンはでかい。全長は30センチくらいあるのではないだろうか。しかも太い。別にタンは嫌いではないが、もちろん料理してある場合の話である。この生タンは脾臓や肝臓に比べればまだましだった。コリコリしていて歯ごたえもある。血が少ない分、生臭さも控えめだ。しかし口の中で牛のタンを噛んでいると思うと、まるで牛とディープ・キスをしているような感じがしてあまりいい気分はしない。と、ここで暇をもてあましていたサティスや他のタイ人スタッフもやって来た。それで彼らに生肉のご馳走をすすめてみたところ、何と嫌がるではないか。場の雰囲気というものを考えない奴らだ。しかしサティスによればそれが普通だという。イサーンの農民には生で内臓や肉を食べる習慣は残っているが、普通のタイ人で食べる人はほとんどいないらしい。サティスに通訳してもらうと、このおじさん達も「僕みたいにすすめられるままに食べる人は初めて見た」と言っているという。何だ、それならば無理をして食べるんじゃあなかったと後悔したが、すごく喜んでくれたみたいだったのでまあよしとしなければいけない。そうこうしているうちに農家の見学が終わったらしく、車が僕らをピックアップしにやって来た。女性陣が作っていた、餅米とバナナを竹の葉で包んで蒸した料理と竹に入れて炊いた餅米(日本のお赤飯のような色をしている)をおみやげにいただき、真っ赤な顔でお礼を言い、くらくらする頭で車に乗り込んだ。
さて、南部地域獣医診断センターは半島中央部のツンソンという街にある。バンコクからは800キロ近く離れており、かつ全長の3分の2以上が片側一車線道路であったため、たいてい途中のスラタニという街に一泊して2日がかりの行程だ。緑の大地を走ってきて、遠くに岩山がいくつも見えてくるともう街は近い。岩山には洞穴が多く、お寺としてリクライニング・ブッダなどを安置しているところもある。この岩山に囲まれた街ツンソンは、鉄道や道路の分岐点にあたるため交通量は多い。しかし街にはこれといった産業がないために、どれも通過するばかりで実際に立ち寄る人は少ない。それゆえ街にあるホテルは数少なく、まともな設備を備えていないため、僕はセンター内にある官舎のひとつを改造したゲストハウスに寝泊まりしていた。南部タイは雨季、乾季の区別がはっきりせず、一年中同じような気候が続く。日中は暑いものの朝晩は比較的さわやかで過ごしやすく、クーラー大好き人間の僕でさえ扇風機ひとつあれば快適に過ごせた。夏の東京を思わせるバンコクの蒸し暑さに比べれば、雲泥の差がある。ゲストハウスの中にはヤモリは沢山いたが、ゴキブリがほとんどいなかったので救われた。
ツンソンはタイのどこからもかなり離れたところに位置する街であったために、勤務地としては一番敬遠されるところだ。それゆえこのセンターではドクター・ニミットという立派な所長を初め、スタッフの多くがもう長年このツンソンに腰を据えていた。その分チームワークも良いのだが、馴れ合いで済まされ易いという欠点もある。僕がいっしょに仕事をしていた獣医のブーンラートもやはり南部の出身だった。南部の人間は闘鶏が好きで気が荒いところがある。農家のおっちゃんも何かとうるさい人が多くてフィールドでの仕事が若干しにくい。しかしこのブーンラートは東北タイの人間のようにおっとりしており、農家でもなかなかはっきりと物事を伝えられずに見ていて歯がゆかった。方やもうひとり、獣医助手のパイブーンは東北タイ出身であったが南部の人間のようなところがあり、てきぱき仕事を進めハキハキ話すため農家での受けが良かった。フィールドでの仕事は農家との相性もあるので結構むずかしい。
食事にしても他の地域とは異なり、よりマレイシア料理に近いものが多くなる様だった。センター内に小さな食堂がありいつもそこで昼食を済ませるのだが、メニューは基本的にチキン・カレー、フィッシュ・カレー、ポーク・カレーの3つである。この他に油で揚げた魚かタイ風卵焼きがある程度だ。実際カレーといってもとろみはなく、サラッとしていてご飯にかけてもすぐにしみこんでしまうのが悲しかった。しかし南部でしか食べられないものもある。サトーと呼ばれる豆は50センチくらいの長いさやに大きな豆が15個くらい入っている。これには独特の臭みがあってタイ人にも嫌いな人が多い。食べた後におしっこをするとそれまで匂うくらいだ。このサトーにオキアミから作ったナム・プリック・カピという辛い辛いペーストをつけて食べるのがおつで、ああツンソンに来たなあと強く感じさせてくれる味だった。
こんな辺鄙なところで若者達がくすぶっているのだから、宴会ともなると大騒ぎとなる。僕はよくスポンサーになってセンター内でバーベキュー・パーティーなどを催した。こういうことをオーガナイズさせると普段では考えられないくらいに素早く仕事を割り振り、てきぱきと準備を進めるからタイ人はわからない。南部センターにはカラオケ・マシンも常備されており、わざわざ照明にも工夫を凝らしたりする。ある時、パーティーの勢いがなかなか消えず、ディスコへ行こうということになった。ツンソンにディスコ何かあるのかと半信半疑で出かけたら、やはりそこは安っぽいナイトクラブのようなところだった。舞台ではバンドの演奏に合わせて歌手がタイの演歌を歌っている。その前のスペースでお客さんとホステスがチークなんぞを踊っている。我々10人ほどの席にもホステスさんが何人かやってきて水割りを作ってくれたりしているが、みんな場違いな雰囲気にのまれて大人しくなってしまった。と、その時、ぞろぞろと暗い店内に入ってきたのはアメリカ軍の若い兵士達だった。私服こそ着ていたが髪の毛の刈り方ですぐにわかる。それにまだ幼い顔をした10人以上のグループだったのですごく目立った。こんな田舎のベースにも米軍が駐留しているのか。束の間の自由時間を楽しみに来たのだろうが、ツンソンではろくな店がない。彼らこそ場違いもいいところで、英語が全く話せないホステスさん達はおたおたしている。結局、彼らもこれではどうしようもないと思ったのだろう、あきらめてすぐに店を後にした。そして僕らも彼らにみならってクラブを出た。
さて、若いスタッフはこのままでは収まらない。ツンソンから車で約1時間の距離にある港町、ナコン・シ・タマラートのディスコまで行くことになる。しかしナコン・シのどこにディスコがあるのだか誰も知らず、30分くらいさんざん探しまわってようやく到着。さすがにここは普通のディスコで、店の雰囲気もそれっぽい。タイのディスコは色々なバンドが30分くらいずつ演奏するところが多い。生バンドとDJが交互に音楽を受け持つ感じだ。演奏はなかなかうまく、下手なDJがアメリカやイギリスの曲を流すよりもよほど臨場感があって面白い。その頃はよく渡辺美里の曲もかかっていた。そんなところでへとへとになるまで踊り疲れると、帰途につく前に必ずお粥を食べに行く。夜中の1時2時でもお粥を出す店は開いているのがタイのすごいところだ。パック・ブーン・ファイ・デーンなど青物の炒め物やさっぱりとした漬け物系をつつきながらお粥をかっ込み、ようやくセンターへ戻った頃には既に3時をまわっていた。
肝心の仕事はというと、南部では何故か病気が少なかった。特に僕が担当していた原虫病に限っていえば、ほとんど症状が目に見えて悪くなるような症例がなく、農家まわりをしても全く張り合いがないくらいに牛は健康だった。病気自体がないのではなく、原虫に対する抗体を調べてみると、7割以上の牛がバベシアやトリパノゾーマに感染している。つまりほとんどが不顕性(症状が現れない状態)感染で、病原体は持っているが共存している状態にあるのだ。もちろん寄生虫にとってはそれが願ってもない状態である。自分の宿主である動物を病気にして殺してしまっては、自分も死んでしまうからだ。しかし普通、不顕性に感染していても何かの拍子に症状が出たりする牛がかなりいるものであるが、ここ南部ではそんなことも稀だった。トリップスひとつをとってみても、北部では豚に、そして東北部では牛に病原性が強いにもかかわらず、ここ南部ではほとんど臨床的に問題はなかった。というわけで病気が少ないことは農家にとって最善のことなのであるが、僕ら獣医にとってはちょっと寂しい気がするのである。 (2002年 プロジェクト長期専門家 柏崎 佳人 記、「タイ国立家畜衛生研究所計画」フェーズ2プロジェクト 元長期専門家)
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