シリア - 遊牧編

ハッピネスは辞書にものってるとおりで しあわせなんて 人それぞれ
ハッピネスはテレビでやってるとおりで しあわせなんて それぞれのプログラム
ハッピネスは辞書にものってるとおりで……

- Kei-ichi Suzuki -

ハマで働く・・・

朝8時ちょい前にペントハウスのアパートを出て下へ降りて行く。もう行っちゃったかなあと不安になりながら迎えの車を待つが、10分経ってもやっぱり来ない。近くに住む同僚のジェンマールも姿を見せないのでやっぱり置いてきぼりにされたんだとあきらめ、さてどうやって職場の研究所まで行こうかと思案を巡らす。今日は冬のわりに晴れてるし、水たまりもないようだからちゃりんこで出勤と即決。置いてきぼりにされ少々イライラしているから、混んでいて時間がかかって同乗者の視線に晒されるミクロ(ミニバス)で行くのはやめておいた方が身のためだ。

自転車は400ポンドで買った中国製のオッちゃんバイク。自分が子供の頃は日本でもこんな自転車にリヤカーを取り付けて走っている姿をよく見かけたが、今では買いたくても売ってはいないだろう。この自転車にはギアがついていないのでここハマで乗るには結構きつい。アパートのあるジェヌーブ・サッカネ地区から研究所のあるムサーケン地区まで行くには、街の中心部が集まる谷底のような地区を通っていかなければいけないので、長い長い下り坂と長い長い登り坂が待っている。つまりジェヌーブ・サッカネは台地の上にあり、一本の川を挟んで反対側の台地の上にムサーケンがあるということだ。

このハマという街はシリアで4番目に大きいのだが人口は30万人くらい、 大きな水車と非常に敬虔なイスラム教徒の街として知られている。アーシー(別名オロンテス)という名前の川沿いに発達した街で、中心部のある川の周りには肥沃な河川敷が広がり、その両側に台地が張り出している。この河川敷では農産物が豊富に収穫されるのであるが、それを可能にしているのが世界一でかい水車だ。川に沿って直径10メートル程もある水車がいくつも点在しており、そこから水車が汲み上げた水を畑へ送る背の高い石造りの水道が延びている。中には二連や四連の水車もあり、上流にあるダムが開かれて水量の増える夏の間には勢いよく回って子供たちの格好の水浴び場となる。冬は雨期にあたり、農作物にとって十分な量の雨が降るため灌漑をする必要がなく、上流のダムは閉じられて水車はお休みとなる。余談であるがシリアでギネスブックに載っている世界一が三つ、一つ目は世界最古の都市と言われるダマスカス、二つ目が世界最古のアルファベットであるウガリットの楔形文字、そしてもうひとつ、世界最大の水車としてハマの水車が記録されている。

アパートから自転車に乗って出発するとすぐに長い長い下り坂が続くのでらくちんだ。ほとんどペダルを踏む必要もなく、人でにぎわう商店街を通って街中に分け入って行くと川にぶつかる。左手に水車を見ながら少し進むと郵便局があり、そこから右へ折れてダマスカスへと続く道をひたすら上ることになる。私書箱に手紙が届いていないかチェックするために郵便局へ寄ることにした。朝は結構みんな忙しいのでお茶に誘われるリスクも少なく、運が良ければ誰にも見つからずに手紙だけ受け取ることができる。裏の出入り口からそっと入って行って私書箱を調べ、手紙を取って帰ろうとするといつも異常に陽気でスケベなガードマンに見つかった。

「アッハラーン、ヨシ、調子はどうだい。」

「いいよ、いいよ。おまえに会わなかったらもっと良かったんだけど。」

「ああ、そうかそうか。俺も同じだ。朝っぱらから何で来たんだ。」

「出勤前に手紙を取りに来たんだ。じゃあもう遅くなるから行くよ。」

 この間、ニヤニヤといやらしい笑いを浮かべながら手をつかんだまま離してくれない。

「今来たばかりじゃないか。お茶を煎れるから飲んでいけ。」

「うん、家で飲んできたからいらない。」

「ところでお前、以前から何度もしている約束はいつ守るんだ。」

「えっ、約束って何だったっけ。」

「お前のケツを掘らしてくれるって言っただろう。」

「ああ、あれか。ボクラボクラ(明日明日)、じゃあもう行くからな。マッサラーミ。」

てな調子でやっと解放してもらう。イスラムの戒律を厳しく守る人の住む街だと聞いてきたのに、男たちはやっぱりみんなスケベだ。こればかりは世界中どこも変わらないらしい。しかも相手は女だろうが男だろうが構わないので恐ろしい。

アラブで暮らすときに覚えておかなくてはならない3つの大切な言葉がある。「インシャッラー」「ボクラ」「マーリッシ」で、俗にアラブのIBMと言われている。インシャッラーは「神の思し召しがあれば」という意味でこの3つの中で一番便利な言葉であろう。ボクラは明日を表す言葉だが、実際には「明日以降のいつか」という暗黙の了解がまかり通っている。マーリッシは「まあいいじゃないか」ってな具合に、会話の中でクッションの役割を果たす。だいたいお決まりのパターンは、何かを約束した時に「いつだ」と聞くと「ボクラ」、そして会話の最後に「インシャッラー」。翌日、約束破りをなじると「マーリッシ」ということになる。

さて郵便局を無事に脱出して、長い長い坂道をひたすら上り始める。この坂道の両側には色々な店が並んでおり、お気に入りのサンドイッチ屋も右手に見えてくる。サンドイッチ屋の先には国立大学の獣医学部キャンパスが広がる。たいていの場合根性がちょちょ切れて途中から手押しになってしまうのだが、こればかりはどうしようもない。とにかく坂道を上りきるとあとはまっすぐ進み、左側にある消防署の敷地内を通って行くとその奥に僕の職場である獣医研究所がある。

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