夕方、街へ出かける・・・

目が覚めると4時過ぎだ。さて今日は気分もいいので街へ買い物に出かけよう。デイバッグをしょって下へ降りる。帰りに重い荷物を抱えて自転車で坂を上るのは大変なので、ミクロで行くことにする。バス停で待っていると人が集まってくるのだが、本当にバスに乗りに集まってきているのか、見慣れぬ東洋人の顔を見に集まって来ているのかは定かではない。「何がそんなに珍しいの」と聞きたくなるほどじろじろと見られるし注目を浴びる。僕がここに住んでいることはこの地区のほとんどの住人が知っているのに毎日こうだ。しかし都合のいいこともある。他の町に住む協力隊員が訪ねて来る時、このあたりまで来る方法さえ教えておけば、あとはそこらの誰かが僕のアパートまで連れて来てくれるから安心なのだ。

バスは程なくしてやって来た。予想通り乗るのは半分くらいで、僕が乗り込むと三々五々引き上げる人たちがいる。バスの奥に入り込んで大人しく座っているが、常に視線だけは感じる。シリアに来た当初はこんな感覚を楽しむ余裕もあったのだが、これが毎日となると話は別。日本にいる友達に手紙でこんな状況を伝えると、決まって「そんなの気にしなければいいんだよ」なんて脳天気なことを書いてくるが、それができりゃ苦労はしないんだよってなもんである、アホ。

バスが街に入り水車が見えてきたら車掌の兄ちゃんに小銭を渡して降ろしてもらう。カルナックバスの事務所でジブネ(チーズ)のトーストサンドイッチを食べ、いざ買い物に出かける。ここは肥沃な三日月地帯のど真ん中、野菜も果物も種類が豊富でいつでもわんさか店先に並んでいる。今はまだ冬で寒いため果物ではオレンジが一番だが、もう少しして暖かくなってくるとまず杏子が出回り始める。これをアラビア語ではムシムシというので、「日本人が電話に出る時、何でムシムシと言うのか」とよく聞かれた。「あれはムシムシじゃあなくてモシモシだ」と言うと「何だ、変なの」とくる。その杏子の季節が終わり、日差しも強くなってくると甘い甘いサクランボが並び出し、次から次へと続いていく。いずれにしろ果物や野菜はたいていキロ単位での買い物になるので、何種類か買うと結構重くなる。そういえばスーク(市場)では女性の下着もキロ単位で売ってたっけ。金銀細工も重さプラス技術料、銅、真鍮製品も量り売りだ。目方で男が売れるなら、こんな苦労もかけまいに、、、と歌う寅さん、シリアでは目方で男が売れそうだぜ。

さて高いエンゲル指数の元凶である生鮮食料品を買いそろえたところで次は日用雑貨へと買い物は続く。通り沿いには小さな店が軒を連ねており、そのどれかに入れば電球やロウソク、洗剤に歯ブラシなどたいていの物は手にはいる。問題は連れ合いである。しかも知り合いではない。知り合いではない連れ合いがどうして一緒に店に入って来るのかというと、それは追求できないのである。とにかく僕が店に入ると何人かの男達が三々五々店に入ってきて品物を眺め始める。しかしどの店も3畳ほどしかないような小さな店なので、ものすごく邪魔になる。でも、みな同じ客なので文句は言えない。当然彼らは品物を見る振りをしながらちらちらと僕を見ている。あーあ、またか、と思いながら店のおじさんに品物があるかないか聞いたりし始めるとまわりに寄ってきて聞いている。話がうまく通じなくなると誰かが助け船を出したりしてくるので、今度は会話がどんどん大きくふくらんでしまう。つまりみんな基本的に親切で、好奇心が旺盛で、やさしい。人は違っても彼らのリアクションはだいたいいつも同じだ。しかしそれを受け止める僕自身の精神状態によって、そんな状況を素直に面白がって楽しめる時もあれば、ものすごく癇に障って「ほっといてくれ」と叫び出したくなる事もある。こんな気まぐれな日本人をけなげにも助けてあげようとして怒鳴られたシリア人は余程運が悪いとしかいえない。何せ日本人と同じ店に入るなんて10年に一度あるかないかだろうから。僕が買い物を終えて店を出ると、彼らももう用はないとばかりに店を後にする。

シリアではいくつか覚えておかなければならない重要なサインがある。サインといっても交通標識とかではなく、身振り手振りのことだ。まず、買い物の時によく目にするのが顔をちょっと上に動かす仕草、ひどい奴になると眉毛だけ動かして終わり。これは「ノー」という意味で、店に入って「○○あるかい」と聞くと店の主人がにこりともせずに眉毛を上げるという感じで使われる。シリアに来てまだ間もない頃は意味がわからずに何度も同じ質問を繰り返したものだ。眉毛の動きだけなので見逃してはならない。しかも一瞬だ。これをされると何とも奇妙な感じがして、実はあるのに隠しているんじゃあないかという気持ちをぬぐうことができず、「あっそう」と店を後にする踏ん切りがつかない。手をかえ品をかえながら何とか真実を探ろうとすれど、店の主人は非情で眉毛を動かすだけである。「返事をしろ、返事を」と言いたくなる気持ちを抑えて帰るのが常だ。これはもちろんシリア人がみんな使うサインで、子供でさえ素早く眉毛を動かすので癪に障る。眉毛の薄い僕がやっても相手がなかなか気づいてくれないのはつらい。

お次は右手の指をすぼめて上に向けるという仕草。これはちょっと待て(スタンナ・シュワイエ)、という意味であらゆる状況下で多用、いや濫用されている。走り始めたバスに乗ろうと前方から歩いて近づいてくる客が運転手に向かって、会話がヒートアップしてきてしゃべりやめない相手に対して、我先にと押しかける客に対して店の主人が等々様々。これも使い始めると便利だが、やられた方はあまりいい気がしない。

そのすぼめた指をちょっと開いて反時計回りにくるくる回すと「何」とか「何で」という意味になる。僕のような見知らぬ日本人が突然店に入っていくと、それだけで驚いてフリーズしてしまう主人が多いのだが、そんな人はたいてい驚きの表情で僕の顔を見つめながらしきりに半開きの指をくるくる、このサインを繰り返す。「何しに来た」と問いかけているのだろうが、いつもおしゃべりなシリア人が黙ったままこれを繰り返す姿は何とも滑稽だ。また得体の知れない東洋人がアラビア語なんか話せないだろうと、はなから決めてかかっている人も多く、そんな人たちは僕の話を聞こうともせずにずっと手をくるくる回したまんま、周りの人に何か言われてようやく僕がアラビア語を話していることに気づくという始末、やれやれ。

そしてもうひとつ、一番変なのが「まあ、まあ、まあ」という非常に日本的な癒し系の身振りだ。それは「何、何」サインの開いた指であごをつかむという意外さで、あろうことか自分のあごばかりでなく相手のあごをつかむこともある。これで「まあ、まあ、いいじゃないか、頼むよ。」とか「そんな事気にすんなよ、興奮するなってば。」という気持ちを表す。これを相手にされると確かに馬鹿馬鹿しくなって肩の力が抜けるのだが、逆に相手に自分のあごをつかまれると「ふざけるんじゃない」と余計に激昂してしまう。道ばたで値段の交渉でもしているのか口げんかしている男たちをよく見かけるが、話の途中でお互いにあごをつかみ合っているというのは見ていてなかなか微笑ましい。

さてこの三つのサイン、郷に入っては郷に従う協力隊員ももちろん多用する。例えばダマスカスの街角の少し離れたところに仲間の隊員を見つけたとする。まずその人の名前を呼んで注意を引く。これは普通の日本人といっしょである。と次の瞬間、名前を呼ばれた相手がその離れたところで手を上げて指を開き加減にし、くるくると回し出す。つまり「何か用か」と聞いているのである。声をかけた隊員はそれを見て、手の指をすぼめ上に向けて前へ出す。「ちょっと待て」のサインだ。そして待っている相手のところへ近づいていく。

「昼飯つきあえよ」

 それを聞いて相手は眉毛を上げる。「いやだ」と言っているのだ。

「いいじゃないか、たまには」

 また眉毛を上げる。

「そんなつれないこと言わんでさあ。」

 と言いながら自分のあごをつかんでおねだりする。シリア人になりきっている隊員はもっとしつこく食い下がり、仕舞いに相手のあごをつかみだす、といった具合だ。端で見ているとアホ丸出しで笑えるが、やっている本人たちはそれが身に付いてしまっているので全く普通の感覚でおり、おかしいとも何とも思っていないから怖い。

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