協力隊員として働いて・・・

何かと誤解を受けやすく、またしやすいのが青年海外協力隊の隊員であろう。外部から見れば「純粋にボランティア精神で途上国へ乗り込み、ストイックな生活を送りながら現地の人々のために働く日本の若者」、というイメージを抱く人たちが多いであろうし、また協力隊に応募する人たちの中にも「ぜひ途上国の人たちの役に立ちたい」と意気込んでくる若者がいるはずだ。しかし大半を占める20代の青年にそれだけの期待を負わせることは酷であろうし、またその期待に自分は必ず応えられると思い込んで参加する若者もかなり自信過剰だと思う。協力隊に参加するということの一番の意義は「自分を成長させることができる」ということに尽きるであろうし、それを可能にしてくれるのがホスト国の人たちだ。彼らもまた日本人の若者と働いたことで成長できる面はあるだろう。自分を受け入れてくれた人たちに鍛えられ成長させてもらい、それをいつかどんな形にしろお返しすることができれば、それで協力隊に参加した、もしくはホスト国にとっても受け入れた意味があったのではないかと思う。この様な交流は深く人の心に残るものであり、それが思わぬ時に思わぬところで花を咲かせたりする。

シリアで暮らした2年9ヶ月、僕の毎日は多かれ少なかれここに書いたような出来事の繰り返しであった。研究所での仕事には大きな目標とか、こなしていかなければならない義務が決められていたわけではないので、シリア人スタッフにとっても僕にとっても単調になりがちだ。しかし日々の仕事というのはおおむね単調なものであろうし、その中で教えられることも非常に多い。赴任した当初は研究所のアブドラハーディー所長とよく口論になった。理由は簡単、約束を守らないのだ。アラブ人が約束を守らないのは普通のことである。彼らは、約束をしないで断るよりもとにかく約束をして喜ばせることが相手にとって良いことだと考える風潮がある。道を聞かれた時、相手を喜ばす為に知らなくても適当に答えるのが、彼らにとっては普通のことなのだ。そんなことはこれまで何度も言われてきたし、それまでの経験を通して自分の頭の中でもよくわかっているつもりだった。しかしそれでも約束を破られるとやっぱり頭にくる。大した約束でもないので、別にそれが守られようと守られまいと態勢に影響はないとわかっていながら、それでもやっぱり気に障る。この、頭で理解していることと心で感じる気持ちのギャップは、理性や知性だけでは埋めようもないほど深く、特に最初の一年は腹が立ってくやしくて眠れない夜が続いた。当時、協力隊のファースト・エイド・キットには向精神薬が入っており、大して効きもしなかったがあっという間になくなった。

こういった感情的な問題に対処するには気持ちを切り替えるしかなく、経験を重ねるにつれてその術を磨いていくことはできる。僕の場合シリアでは職場以外の友達の存在が大きかった。例えばハッジ・ブラヒームの肉屋の連中である。職場で嫌なことがあった日には肉屋へ出かけて行って店の前の椅子に座り、くだらないおしゃべりに興じる。別に彼らに仕事の愚痴をこぼすわけでもないし、「かわいそうにかわいそうに」と慰めてもらうわけでもない。それでも騒いでいるうちに何かが吹っ切れて気持ちが軽くなってくるのがわかる。最もこんなことは日本でも多くの人たちがストレス解消にやっていることだろう。しかし見知らぬ土地にひとりで飛び込み、職場以外に自分にとって居心地の良い場所を見つけるというのはそう簡単なことではない。それゆえ海外に住む多くの日本人は日本人同士の狭い社会の中に逃げ込みがちになる。

ストレスが貯まるのは職場だけではない。シリア暮らしで一番のストレスは人の目だった。特にハマという街の土地柄もあってかとにかく注目を浴びるのだ。遠くからちらちらと見ている者、近くに来てじろじろ見つめる者、からかいに来る者、「プスプス」という猫を呼ぶ声で振り向かせようとする者、等々様々。そしてそれを無視すると石を投げる子供までいる。道で友達に会って立ち話をしているとまわりには人垣ができる。こんなことも旅行者ならばそれなりに楽しめるのであろうが、毎日エンドレスに続くと本当に切れる時がある。しかしむこうは不特定多数なのでその怒りをぶつける相手もいないし、じろじろ見つめるのを咎めることもできない。ダマスカスやアレッポのような都会では、観光客で慣れているのか人間関係がドライなのか、とにかくこんなに人目が気にはならない。また逆に小さな村に住んでいる協力隊員に聞くと、任地では村人すべてと知り合いになれるのでそんな苦労はないという。このシリア人の視線攻撃にはなかなか慣れることができず、結局気分が優れないときには外へ出ないという自衛手段を取らざるを得なかった。

こんな事が一度あった。ラマダン(イスラムの断食月)を迎え僕も職場の同僚に倣って日中の断食にトライしていた。当時はラマダンが5ー6月と夏至に近い時期であったので、日が昇るのは朝の3時半、沈むのが7時半と日照時間が長く、かつ真夏でとんでもなく暑かった。その日は木曜日、翌日金曜が休みなので僕は夕方のバスに乗って北部の街アレッポへと向かった。アレッポに着いた頃にちょうどその日の断食が明ける予定である。バスの中は冷房がかかってはいたもののそれでも結構暑く、乗客は水も飲めずにいらいらとした様子であった。そのバスの一番前に4−5才の男の子を連れたキリスト教徒らしい女性が座っていた(髪を隠していなかったのでそう思った)。その男の子はなかなか大人しくしていられない様子で、バスの通路を前後に行ったり来たりしながら歩き回っている。自分が座っていた席は真ん中よりも少し後ろといったところか。そのうちに僕の真後ろに座っていたおばさんがその男の子を膝の上にのせて遊ばせ始めた。その子はすぐに前に座っている日本人の存在に気がつき、僕の気を引こうと後ろの髪の毛をくすぐったり息を吹きかけたりし始めた。僕自身は大人げないと思いながらも、とても子供の機嫌を取るような気分ではなかったので無視を決め込んでいた。ところがその子はやめない。それで手で払っていやがっている素振りを見せたり、後ろを振り向いて抱きかかえている女性をにらんだりしたのだが、その女性は男の子を注意するでもなくしたいままにさせている。そのうちに今度は例の「アナ・ヤーバーニー」という唄を歌い始めた。しかも僕の耳元に顔を寄せてである。暑さと断食のストレストも手伝って怒り心頭に発した僕は、すくっと立ち上がり、「いい加減にしろ」と怒鳴ってその子に手を挙げてしまった。頭を平手ではたいたのだが、その勢いで頭が窓ガラスにぶつかり鈍い音がした。インパクトの瞬間にヘッドがくるりと回転するのだ。あーあ、やっちゃった、でももう遅い。もちろんその子は大声を上げて泣き始めた。抱いていた女性は何て事をするんだとばかりにののしり始める。僕はとにかく思っていたことをぶちまけ、後は席に座ってだんまりを決め込んだ。これ以上アラビア語で口論しても勝てるはずがない。バスの中は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、すべての乗客が敵になった。その子の母親も前からやって来て文句を言い始める。アレッポに着いたら警察を呼ぶとも言い出した。「警察かあ、やばいなあ。事務所に連絡がいくだろうなあ。それでなくても俺は問題が多いのになあ。」などと思いを巡らしながら、早くアレッポに着け着けと願っていた。と、その時前の方に座っていたひとりの若者が立ち上がった。彼はその母親に向かって彼女のしつけがなっていないと非難し始めた。

「ラマダン中でみんなイライラしているときに、子供が騒いでいても知らん顔。そしてしまいには子供を他の女性に預けたまま自分はいい気に寝ている。ここはお前の家じゃないんだぞ。」

 これが抜群のカンフル剤になり、その母親はばつが悪そうに子供を連れて自分の席に戻った。バスの中も潮が引くように静けさを取り戻し、カセットテープの音楽が耳に入るようになった。僕はというと「うわー助かった」という感じである。一気に緊張が解けて気が楽になった。とにかく理由は何であれ子供を殴ったのである。言い訳は通用しないし、それ以前にアラビア語でうまく説明できる自信もない。しかもその子が僕にしていたことなど誰も気づいていないのだ。九死に一生を得たとはまさにこのことであり、自分の味方になってくれる人というのはどこにでもいるもんだなあといたく感激した。バスがアレッポに着いた後、その青年を捕まえてお礼を言ったのはもちろんである。彼は何でもないことだと言っていたが、僕にとって彼の行動はとてつもなく大きな意味を持つものだった。

旅行をしている時は気持ちもおおらかであり、まわりの人間の小さなルール違反などは許せるくらいのゆとりが心にある。また自分をはっきりアウトサイダーだと認識しているので、ある程度の引け目からそういう気分にさせられるのかもしれない。ところが一旦住み始めると話は別である。その土地の習慣に染まっていくうちにアウトサイダーという気持ちは薄れ、自分もその土地の人間であるという認識が生まれ、社会の小さな欠点にも目が届くようになる。すると自然に不満も多くなり、まわりの人間のルール違反などが気になりだす。これは別に心にゆとりがなくなったからではなく、生活するという行為から生まれる当然の成り行きだと感じる。あのバスの中での出来事にしても、もしも僕が旅行者だったらきっと我慢できていただろう。長い間ハマで生活し色々なストレスを抱えていくうちに、やはりそれがどこかで爆発してしまう瞬間というのがある。しかしそれを理解してくれる人間がいるというのも事実で、だからこそ救われるのだ。

赴任してまだ間もない頃、ハマ郵便局の局長とけんかをしたことがあった。手紙を渡す渡さないで口論になったのだが、最後に彼の胸を押して捨てぜりふをはき、バスに乗ってアパートへ戻った(こんなことをしているから事務所に連絡がいくのだが)。するとアパートの入り口のところに佇んでいた隣人がニヤニヤ笑って、「お前、郵便局でけんかしたんだってなあ」と言ったのには驚いた。シリアでは噂が伝わるスピードは市営バスの速度よりも速いのだ。当時の在シリア日本大使は、

「シリアではわざわざ予算を使って宣伝をする必要などありません。そっと近くの人の耳元にささやくだけですぐに話は広がりますから。」

 と冗談交じりにおっしゃっておられた。うーん、本当にその通りだなあとアラブ世界の人間関係の強さを改めて認識した。

この2年9ヶ月に及ぶシリアでの経験を通し、頭にシュマーフ(アラブのスカーフ)をかぶりガラビーエを着たむさ苦しい男達から、仕事の面でも生活の面でもどれだけ多くのことを学んだかはかり知れない。特に人とのつき合い方という点で、日本文化と対極にある考え方を持つ人たちとの生活は、僕の心の奥底にあった何かを目覚めさせてくれた。それは一対一の人間関係にこそ文化交流や国際協力の原点があるのではないかという思い。けんかをしようが頭にこようが見知らぬ人々との生活には心躍る何かがあることを実感した。幸いにも自分には獣医という武器がある。これを使ってこれから先も国際協力という仕事を続けていけたら、、、と。日本に帰ってから取り組む事を心に秘め、シリアを後にした。

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