ベドウィンが暮らす・・・

まずアラブとはどういう人たちを指すのであろうか。古代ギリシャのヘロドトスや他の歴史学者はアラビアに住むすべての人々を「アラブ」と称している。これは聖書や古代アッシリア、バビロニア以前の記述だ。そしてその後何世紀もの間にその地域に暮らす遊牧民だけを指す言葉として生まれ定着したのがベドゥ(ベドウィンはアラビア語では単にベドゥという)という名前であり、本来は「砂漠に暮らす者」「定住しない者」という意味だ。それゆえベドゥの定義は遊牧という生活様式と強い関わりを持つ。程度の差こそあれ、ラクダや羊を飼育しながら餌となる草地を求めて移動する生活を送る人々が、ベドゥという言葉によって他のアラブと区別されるのである。

ベドゥの社会の中にあってはより細かくその言葉を定義している。本当のベドゥとは誇り高い部族に属し、かつ血統の良いラクダを持つ者と考え、それ以外の者達を単に一般的な意味でのベドゥ、もしくはシャルワヤ(羊を飼う者)と呼んでいる。今日ではその違い自体を外部から見極めるのは非常に困難になりつつあるが、彼ら自身の中では未だにはっきりとした認識を持っており、その考え方が結婚に端的に現れる。つまりどの部族の誰がどの部族の誰と結婚するかということが大変重要な決断になるのだ。

一般にベドウィンについて説明する場合、現代に生きるベドウィンの定義を明らかにするよりも昔のベドウィンについて述べる方が余程簡単である。それはもちろん彼らの大部分が既に昔ながらの生活様式を捨てており、現代の新しい要求に適応して暮らしが多様化してきているためである。最近ではベドウィンでさえ車を持つことが普通になった。また多くのベドウィンが教育を受け、職に就き、医者やエンジニアになる者さえいる。家を建てて定住する者もいれば、夏の間は家で暮らし冬の間だけ遊牧をする人たちもいる。ベドウィンの血筋を誇りに思っている人もいれば、逆にそういう血縁がいることを恥と感じている人も多いという。実際、僕の友達の間ではベドウィンの評判はすこぶる悪く、「ベドウィンのテントへ採材に出かける」という話をすると、「彼らは泥棒だから気をつけろ」という忠告をよく受けた。

つまり現在ではベドウィンを曖昧にしか定義することができないのだが、では統計的にはどのくらいの数のベドウィンがいるとされているのだろうか。1959年の記録ではアラビア半島に600万から700万人くらいの人々が暮らしており、その4分の1がベドウィンであると推測されていた。現在ではアラビア半島のベドウィンは約200万人であるから、この地域の人口全体の延びに比べれば微増といったところだ。シリアでは30万人程度と推測され、アラブ諸国全体では多く見積もっても400万から500万人くらいであろうと言われている。もちろんこの数字は広い意味でのベドウィンの数であり、今でも伝統的な暮らしを続けているのはそのうちの10パーセント程度以下、恐らく実態は6−7パーセントであろうと考えられている。

そのベドウィンも地域によって大きくそのスタイルが二分される。ベドウィンと聞いたときに頭に浮かぶイメージは恐らくラクダを遊牧する民であろう。彼らはアラビア半島に暮らすベドウィンである。一方、シリア、ジョルダンあたりを拠点とするベドウィンは羊を遊牧している。この違いはいったいどこから生まれたのだろうかというと、それはもちろん気候がもたらした結果である。アラビア半島は一般に知られた通り暑く乾燥した過酷な土地であるため、毎日水を必要とする羊は飼育できず、乾燥に強いラクダしか生き残れない。一方、シリア、ジョルダンの乾燥地帯は砂漠といっても冬にはかなり冷え込み、より確実な降雨パターンがあり草が育つ。それゆえラクダを飼わずとも、より効率よく増やすことのできる羊が育つ。むしろラクダはその冬の寒さには耐えられず、特に子ラクダは病気にかかって死んでしまうという。加えてシリア・ジョルダンの砂漠は平坦であるため車で走りやすいという利点もある。

アラビア半島のベドウィンは、夏の間、最低3ヶ月間は井戸のあるキャンプ地で過ごす。その間ラクダを放し飼いにするが、ラクダたちは水を飲むためと乳を搾ってもらうために必ずキャンプまで戻って来るという。冬の間は毎3−5日おきに10キロ程移動しながら遊牧生活を送る。年間を通した移動のパターンは年ごとに変わり、また個々の家族の事情にも依存するのだそうだ。更に湾岸戦争といった政治的な事件も影響してくる。特にクウェートでは地雷や不発弾などのためにベドウィンが立ち入れなくなってしまったという。

ラクダは冬が繁殖シーズンであるが、流産、死産、難産が多く、人手を煩わせずに種をつける事さえ難しいらしい。人の手を借りないと雌を妊娠させられないとは、ラクダの雄も結構だらしないもんだ。子が生まれると雌は乳用に残すが、雄ラクダは非生産的で荷役以外には役に立たないため、小さいうちに食べられてしまう。本で読んだ話だが、母親が死んでしまった子ラクダを他のラクダに育てさせるためにこんな事をしたそうだ。まず子供を産んだばかりのラクダの肛門を糸で縫い合わせて閉じ、便が出ないようにしてしまう。そのまま数日間放置して、腹がふくれて苦しくなってきたところで抜糸する。と、当然のごとく大量の便をして開放感を覚えるので、その直後に育てさせたい子ラクダをあてがう。つまりラクダが苦しみの末に大量の糞をしたことを子供を産んだと勘違いさせて育てさせたのだという。これがうまく成功したのかどうかは知らないが、誇り高きベドウィンの知恵も案外底が浅いなあと少し親近感を覚えてしまった。

近年では定住するベドウィンが増えている。ベドウィンは元々砂漠の案内役、運搬役であったのだが、車の導入によってこれが用無しになってしまった。またベドウィン自身も遊牧に車を導入したことにより、恒常的に現金が必要になってしまった。それゆえ定職について賃金を稼いだり子供に教育を受けさせるために、定住するかもしくは家族と別居するかという選択を強いられることになった。遊牧民としての生活と現在の社会システムはなかなか相容れないものなのだ。しかし定住をすることによって現金が入ってくるようになると、当然の事ながら羊の餌も飼えるようになってきた。すると今度は、草の有無に左右されないより柔軟な生活を楽しめるようにもなり、好きな時に再び遊牧へ出られるようになってきたという。

さて、そのベドウィンの結婚観とはどんなものなのであろうか。そこには二つの基本的な考え方がある。ひとつに「結婚は生まれてくる子供のためにアレンジされるものであり、その組み合わせは部族の純粋性を保てるように選ばなければならない」ということ。そしてもうひとつは「いずれの男にとっても理想の妻はその姉妹である」ということだ。しかしながらベドウィンの社会でも近親相姦は禁止されているため、許されうる最上の組み合わせは最初のいとこ同士ということになる。結婚は家族のために行われる社会的な契約であるが、ベドウィンの詩や歌に多くのロマンスが満ちていることからも愛がその一役を担うことはもちろん否定できない。特にシリアやジョルダンのベドウィンの間では若者同士がスーク(市場)などで出会うのはごく普通のことであり、車やバイクに乗って意中の女性のテントを訪れることも可能である。しかしやはり結婚ということになるとある程度は部族の習慣に左右され、形式に乗っ取って正式にアレンジされるという。男性に意中の女性がいる場合、彼は早いうちにいとことの結婚の意思がないことを宣言してしまったりするそうだ。また女性に意中の男性がいる場合は、親がアレンジした結婚相手の持参金の額を吊り上げたりして、先方が申し出を撤回するように画策する人もいるらしい。結婚の年齢は女性が16才から22才、男性が18才から30才である。

それでは離婚はどうなのであろう。驚いたことにベドウィンの離婚の方法は江戸時代の日本のそれとよく似ている。夫が離婚したいと思ったときはそれを家族に宣言するだけでいとも簡単に成立してしまうという。その場合もちろん妻は持参金を返す必要はない。妻の方から離婚したい場合は、ただ両親のテントへ帰ってしまえば成立するとのこと、これまたあっけないほどに簡単だ。その場合、夫は妻を説得することはできるが強制はできず、最終的に妻の決断が優先される。そして持参金の返還については両家の交渉にゆだねられるという。男社会だとばかり思っていたベドウィンの世界でも、しっかり女性の権利は守られていた。ベドウィンの男もつらいのである。

余談になるがハマの街のはずれ、砂漠の入り口にマザーレブという地区があり、食肉用の羊を肥育する農家が見渡す限り立ち並んでいる。最もそのほとんどが高い塀で囲まれているために中を伺い知ることはできないが、仕事の採材で一歩中へ踏み入ると実に沢山の羊にめえめえと鳴き声を浴びせられて驚く。羊ばかりではなくラクダを何十頭も飼育している農家もあり、よくちゃりんこを走らせて遊びに行ってはラクダに乗せてもらった。そこの地区の広場では金曜を除く毎朝、羊の市場が開かれている。農家のおっさんやベドウィンの男達が売りたい羊を何十頭もその広場に連れて来て、地面に張られた縄につないでおく。羊を買いたい人はスークを歩いて見て回り、気に入った羊がいると飼い主と値段の交渉をする。人によっては2両連結トラックなどでやって来て、何百頭と買って帰る。ここはシリアでも一番大きな羊の市場であり、アラブの匂いが凝縮された場所。ハマでは一番のおすすめ観光スポットである。

次へ