ハマ獣医研究所に着くと・・・

この獣医研究所は日本から機材供与を受けて開所されたのであるが、程なくしてモスレム同胞団という反政府組織による反乱がこのハマで始まり、その内戦に巻き込まれてせっかくの機材類が壊されてしまったという経緯がある。当時は3人の協力隊員がこの研究所で活動中であったが、彼らのその当時の報告書を読むと戦争の生々しい様子が伝わってくる。戦火が激しさを増して3人がひとつのアパートに身を寄せ、それから3日3晩、外へ出られなかったという。窓からも銃弾が撃ち込まれてくるので窓際では這いつくばって歩かなければならず、生きた心地がしなっかたと書いてある。結局缶詰になってから4日目にひとりが職場の同僚と一緒に外へ出て政府軍の兵士と交渉し、街の外へ逃がしてくれるという約束を取り付けてすぐにみんなで脱出したのだという。さすがにシリアの兵士もそんな時には「ボクラ」とか「インシャッラー」とか言わなかった様で、何はともあれめでたしめでたし。つまり僕はその内戦でズタズタになった研究所の機能を少しずつでも回復させるために派遣されたのであるが、使える機材や薬品類には制限があるため非常にベーシックな検査からの出発となった。

研究所に入るとひとりひとり挨拶を交わし、まずは運転手のアブドーのところへ行って文句を一言、

「今朝は何で待っていてくれなかったんだ。」

「何度もクラクションを鳴らしたんだぞ。聞こえなかったのか。それに何でお前は道路に出ていなかったんだ。」

「だって8時という約束じゃあないか。その5分前には降りて行ったのにもういなかったぞ。」

「クラクションを鳴らしたのに出て来なかったじゃないか。それにジェンマールはもう来ていたぜ。ヨシは先に行っちゃったかと思ったんだ。」

 そばにジェンマールが来てニヤニヤしながら聞いている。

「8時前なのに出かけるわけがないだろう、車で出勤するのが一番楽なんだから。それにジェンマールはジェンマール、俺は俺なの。」

「マーリッシ」

「明日はちゃんと待っててくれよな」

「インシャッラー」

「アッソー」

 てなもんで、いつもと同じ会話を交わして研究室へ向かうことにする。これは儀式のようなもので、とにかく「俺は不満なんだ」という気持ちを表現するために言うことは言うようにしている。これで相手が聞いてくれるかどうかは二の次であり、実のところ変わるわけがないのだ。それでもとにかく文句を言わないとストレスが貯まるので精神衛生上よろしくない。所属する研究室へ向かう廊下でジェンマールが話しかけてくる。

「俺はアブドーに待っていろと言ったのに、あいつが車を出しちゃったんだ。」

「わかった、わかった。ありがとう。こんどはもっと強く言ってくれ。」

「インシャッラー」

寄生虫研究室に入っていくといつも通りハッサンが出迎えてくれる。この研究室にいるのは彼と僕の二人だけ、他の研究室も室員は2−3人だけだ。ハッサンは僕と同い年で、シリア人にしては大柄で体格がいい。性格も陽気だし頭も悪くない。元々ハマの出身で両親もここに住んでいる。シリアの獣医学部のキャンパスはここハマにあるのでほとんどこの街から出たことがないという。最近めでたく結婚して、両親の家を出て奥さんとアパート暮らしを始めたところだ。ひとつ心配なのは彼がてんかん持ちであり、週に1回くらいの頻度で発作を起こす事である。

朝、出勤するとまず紅茶を煎れる。僕もかなりうまくなってきたので最近ではかわりばんこに煎れている。まず、紅茶用のやかんに水を入れて実験用のガスバーナーを使ってお湯を沸かす。沸騰したところで砂糖を沢山投入し、溶けたら適量のお茶っ葉とシナモン・スティックを入れて火を消す。これで数分蒸らせば香りの良いシナモンティーができあがる。一般庶民はシナモンなど入れないのだが、高級志向の僕がスークでシナモン・スティックを1キロほど購入してきた。寄生虫研究室ではシナモンティーが飲めるということで暇な職員が次々とやって来る。誰かが顔を出すと「アハラーン」と言ってハッサンが迎え入れる。そして紅茶を飲みながら愚痴を言い合い、適当なところで話は途切れて来訪者はそれぞれに研究室へ戻っていく。毎朝これの繰り返しである。

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