大学に通う・・・

僕が所属していたのは熱帯病の教室で、更にその中のイミュノロジー・ユニット(免疫関連のグループ)にいた。その他の教室には寄生虫、公衆衛生、熱帯小児病、医科昆虫、分子生物、獣医寄生虫などがあり、各教室内は更に細かいグループに分かれている。うちの免疫グループは学校の北側ウィングの1階2部屋と2階の2部屋を使っている。階下の部屋を使っていたのはテクニシャンであり、マスターコース(修士課程)の学生でもあるジルとブリジット、二人ともイギリス人だ。ジルは背が高く、スタイルがよく、コケティッシュな美人で性格もいい。僕が皮肉を言うと必ず「Oh, shut up Yoshi !!」と叫んだ。ブリジットは早口でしゃべりまくる普通の女の子。そして、PhDの学生ではイギリス人のリーとケニア人のディスマスがいる。リーはロンドン出身でコックニー・アクセントが残っている。お父さんがインド系なのでちょっとエキゾチックな顔をしていた。ロンドンの彼女と遠距離恋愛中。ディスマスはひょうひょうとしている。痩せていて落ちぶれたマラソンランナーといったところか。結構なまけものでリーがよく愚痴をこぼしていた。彼のことをみんなはディジーと呼んでいる。恐らく「dizzy(めまいのする、浅はかな)」と引っかけているのだ。

2階はまずイギリス人のテクニシャンのフィルとPhD(博士課程)の学生でブラジル人のシベリ、ジャマイカ系イギリス人のジェニファーの3人が一部屋を使っている。フィルはちょっと科学的なヒッピーという風貌。金髪だが見た目はみすぼらしい外見をしている。リーによればきれいな奥さんがいるらしい(僕の帰国後に離婚されてしまった)。シベリはいかにもマイペースといった典型的ブラジル人。サルバドール出身の音楽好き。ジェニファーはロンドン育ちで肌は黒いがなかなかかわいい。パブリック・スクール(お嬢ちゃまお坊っちゃまが通う全寮制の私立学校)卒。そのせいか「高貴な方」のように話すためアングロサクソン系イギリス人スタッフの反感を買っている。僕はこれは差別ではないかと最初思ったが、つきあってみるとやっぱり性格が悪くてけんかした。そしてその隣の部屋をカレンと僕でシェアするという構図だ。

2階のその奥はスネイク・ベノム・ユニットといって毒蛇の研究をするグループが陣取っており、色々な種類の蛇が100匹以上飼育されていた。ここのメンバーはすべてイギリス人。デイビットは僕のスーパーバイザーのデイビットと似ているが、口先ばかりであんまり信頼のおけそうなタイプではない。ケビンはやさしそうなパパといった感じか。典型的なイギリス人の既婚男性だ。ポーラはとにかく上品ですてきでやさしくて、それが全く嫌味でない。彼女のことを悪くいう人はまずいなかった。ヨーヨーマと知り合いというのもうらやましい。その反面キャロルは人は良いのだが、どこにでもいるイギリスの中年女性を地でいっている。上品になろうと努力はしていたが、僕らは納得していなかった。ポーラとは最初からクォリティ−が違うのだ。もうひとり忘れてならないのがテクニシャンのグレッグ。同じユニットなのにひとり遠く離れたラボでしこしこ働いていた。ハンサムでいい奴でパブはしごグループの常連。

まず、教授でありスーパーバイザーであるマルセルとのディスカッションから始まった。

「現在このユニットで取り組んでいる病気はマラリアとトリパノゾーマ、リーシュマニア何だけど、そのうちどれかにした方が材料が揃っているからやり易いよね。そのどれかを選ぶということでいいかな。」

「トリパノゾーマだったらいいですよ。」

「どうして?」

「その3つの病気の中で経済的に一番問題の大きいズーノーシス(人獣共通伝染病といって、動物と人の両方が感染する病気のこと)ですから。マラリアには猿も感染するけど産業動物には影響ないし、リーシュマニアもイヌは感染するけど家畜衛生ではあまり問題にならない。ところがトリパノゾーマには牛や馬、羊、豚、ラクダなどなど沢山の動物が感染して生産性を下げているでしょう。アフリカ以外で蔓延している種類もあるし世界的に問題だから。」と、結構まともに答える。

「そうか、ヨシは獣医だからな、わかったわかった。じゃあ後でトリップスの文献(科学雑誌に載る研究論文のこと)をひとつ渡すから、それから派生して色々な論文を読み、自分が取り組む研究のストーリーを組み立ててレポートにまとめ、提出して下さい。」

「えっ、博士論文のテーマを自分で考えるんですか。」

「もちろん。」

「あっ、そうですか。ところでトリップスって何ですか。」

「ああ、トリパノゾーマを研究している人たちはトリパノゾーマのことを愛着込めてそう呼ぶんだ。それにトリパノゾーマじゃ長いだろ。じゃあ、頑張って。」

「えっ、終わりなの。」

 という感じであっという間に話し合いは終わった。何か話がぐぐっと掘り下がってこなかったなと感じながら、自分の考えも甘かったと反省することしきり。日本の大学院では教室によって研究の流れというものがあるため、リサーチの学生はその中に組み込まれるのが普通だ。つまりその研究室として取り組んでいる研究テーマの一部を教授から与えられ、それを進めて論文にまとめていく。それゆえ学生の方も研究室を選ぶ段階で、どんな研究を行っている教室なのかをしっかり把握した上で応募する。ところが今回僕はそんなことも怠っており、イギリスに来さえすれば教授が適当なテーマを与えてくれるだろうと考えていた。そういえば日本で修士課程の学生の時、教授に与えられたテーマが嫌で言い争いをし結局自分で考えたことを思い出した。あの日に帰りたくはないが、一旦帰らなければならないようだ。えらいこっちゃ。

という訳でタックルする病気だけは決めたが、研究の詳細は自分次第となった。それから約1ヶ月間、マルセルがくれた一本の文献を出発点に、図書館で膨大な数の論文を読む日々が続いた。各文献の最後には必ず参考にした論文のリストがついているので、その中から役に立ちそうな文献を選び出し、図書館に数あるジャーナルの中から欲しい論文を探し出す。そしてそれをコピーして読みあさるという作業の繰り返しで、大学受験の時からひどくなった肩こりにまた苦しめられた。図書館で囁きあうようにおしゃべりに花を咲かせる他の学生に、「うっせえな、静かにしろよ」と怒鳴りたくなる気持ちを抑え、コピーしては読み、疲れると講義室へ出かけて行ってボケーッと寄生虫や衛生の話に耳を傾けた。「第二次大戦後、下水施設の普及により、日本では大幅な衛生改善が実現された」などとどこかの教室の先生がしゃべっている。

そうこうするうちにそのトリパノゾーマ症という病気の全体像がぼんやりと頭に浮かんできた。まんざら自分も馬鹿ではなかったようでホッとひと安心。いったんその病気に由来する問題点と、世界で行われている現時点での研究の進み具合がわかってくると後は早い。その解決していない問題の中から自分にとって一番興味のある部分を選べばよいのだ。自分の頭の中に出来上がった研究のストーリーを文章にまとめて提出し、何とかマルセルのお許しを取り付けて長かった図書館生活に別れを告げた。

さて、このトリパノゾーマという寄生虫はいったいどんな伝染病を引き起こすのであろうか。日本にはない病気なので、僕も数年前に読んだナショナル・ジェオグラフィック誌の特集記事程度の知識しか持ち合わせていなかった。トリップスは寄生虫の中でも原虫と呼ばれる仲間に属する単細胞の生物で、人に感染すると「眠り病」を引き起こすことが知られている。オタマジャクシの頭としっぽを持って引き延ばしたような形をしており、オタマジャクシ同様にくねくねと泳ぐように動く。ツェツェバエという吸血昆虫によって媒介され、動物が感染するとこの虫が血液中に現れる。人では病勢が進行すると虫が脊髄にまで入り込んでくるため、最終的に中枢神経系がやられ、眠るように死んでしまう。牛や豚では死んでしまうほど症状は悪くならない。むしろほとんどが無症状のままで過ぎてしまうが、乳量が下がったり流産をしたり増体量が落ちたりと経済的な被害を及ぼしている。またこのように無症状で感染している動物は、自然界でこの病気の蔓延を維持させているレゼルボア(感染巣)と考えられており、特にアフリカでは野生動物が多いため事態はなかなか改善されない。

治療薬はある。では何が問題なのかといえば、診断が難しいのだ。この虫は血液の中で自由に暮らすため、免疫反応、つまりは病原体をやっつけるために動物のリンパ球が作り出す抗体の攻撃に曝されやすい。それゆえトリップスはその免疫反応に対抗するための防御機構をちゃんと備えている。全身を厚いタンパク質で出来た膜で覆い、身を守るのだ。感染した動物がその膜に特異的な抗体を作り出すと、今度はその膜を取り替えてしまうのである。つまり洋服を着替えると思えばいい。しかもトリップスは、少なくとも千着以上の洋服を持っているというから驚く。この交換はだいたい一週間から10日のサイクルで起こるため、それに伴って血液中の虫の数も変動することになる。虫の数が増えてくると抗体が出現して攻撃を受けるため、今度は数が減る。そこで虫は服を取り替えることによってその前の服に特異的な抗体の攻撃を回避し、再び増殖を始めるというイタチごっこを繰り返すのだ。このトリップスの虫体数の変動が診断に大きく影響してしまうことになる。血液を採ってそれを顕微鏡で見て虫を探すという方法では、1ccの血液中に百万匹の虫がいてもなかなか見つからないのだが、抗体にやられて虫体数が減っている時にはそのレベルを大きく下回るため見つからなくなってしまう。それで感染しているのに虫が見つからず、陰性と診断されてしまう事が多くなる。

以上のような理由から虫を検出して診断を行うのではなく、その虫に由来するタンパク質(抗原という)を検出することによって診断する方法が開発されてきた。虫が抗体にやられてバラバラになってしまっていても、抗原はまだまだ沢山血液中に残っているので、顕微鏡では見えないものの量としては多いからだ。僕が考えたのはこの方法を野外で使えるようにすること、しかも3種類あるトリップスを区別できるような診断法を開発し、それを持ってアフリカへ出かけようというリサーチ・プランを立てた。

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