イギリス文化を思う・・・

若い頃から音楽といえばイギリス系のミュージシャンを好んで聞いていた。T-REXやキッスといったヘビーなバンドではなく、ボズ・スキャッグズ、ロキシー・ミュージック、ケイト・ブッシュ、ジェネシス、スティング、等々、ちょいと粋な人たちで、斜に構えて音楽やってます的な感覚がひねくれた自分の性格に合っていた。特にピーター・ガブリエルの研ぎ澄まされた感性から生まれる音の鋭さと、メロディーの美しさが作り出す世界には感服していた。彼らの音楽にはいいしれない翳りがあり、ゾクゾクするような心地良さが体を駆けめぐる。温泉に浸かって聞いていても鳥肌が立ちそうな音楽だ。それは例えばアメリカのバーバラ・ストライザンドやセリーヌ・ディオンといった大御所の、ここぞとばかりに歌い上げるストレイトさとはかけ離れている。いったいこの違いはどこからくるのだろうか。

映画もしかりだ。日本ではイギリス映画をほとんど見たことがなかったが、イギリス滞在中にすっかりファンになった。僕が好きだったのはまず例外なく労働者階級の人々の日常を描いた作品、例えば日本でもヒットした「フル・モンティ」の様な映画だ。こういう映画には人気の美人女優やハンサムな男優などはほとんど出演しておらず、たいていどちらかといえばグロテスクに近いような人たちが登場する。貧しさに浸かりきった日常の中での喜びや悲しみ、ぬくもりやせつなさを淡々とスクリーンに映し出していく。そこには誇張やわざとらしさというものが感じられず、それでいて見終わった時には体温が11分の7度くらい上昇しているような微熱感を覚える。

イギリスの中でもリバプールは繁栄と没落の両方を経験した数少ない街である。この特異さから多くの映画やドラマの舞台となってきた。「レター・トゥ・ブレジネフ」は2人の女の子がロシア人の船乗りに恋をし、リバプールで失業者としての生活を送るより、ロシアで恋に生きようと当時のブレジネフ書記長へ宛てて「ロシアへ行かせて欲しい」と綴る話。また「シャーリー・ヴァレンタイン」は中年の主婦がギリシャ旅行に出かけ、そこでギリシャ人の男性と恋に落ちる話だが、どちらもハッピー・エンドではない。ごく普通の人々の日常に起こりそうな、これといって珍しくもない出会いや出来事を淡々と描くことにより、心の揺れを言葉少なに浮かび上がらせている。

「ビリー・エリオット」という映画があった。炭坑夫の父と兄を持つ11才のビリーがバレーに目覚める。バレー教室の先生は彼の才能を見抜いて王立のバレー学校に入学させようと試みるが、家族の反対に遭い断念する。しかし、その後父親がその愚かさに気づき、息子をオーディションへと連れて行く。オーディションの最後に、

「踊っている時、どんな気持ちがする。」と審査員に聞かれ、

「よくわからないけど、いい感じだよ。一旦踊り出すとみんな忘れちゃうんだ。何か消えていくような感じがする。消えていくような感じがして、体の中で何かが変わるのがわかるんだ。体の中に火がついたみたいな。僕は確かにそこにいる、鳥のように飛んでる。電気みたいなんだ。」とビリーが答える。このセリフを労働者階級特有のアクセントにのせて訥々と話すビリーから彼の気持ちが押し寄せるように伝わってきて、見るたびに涙をこらえきれなくなる。言葉は文化。同じ英語でもクイーンズ・イングリッシュで語られるのとスカウス(リバプール訛り)で話されるのとでは、自分の中で感じるものが違うから面白い。

さて、僕には映画以上に気に入ったイギリス的なものがある。テレビのコメディードラマだ。日本ではほとんど放送されることはないが、イギリスのテレビ番組の中でも独特のジャンルを形成しており、非常に質の高いコメディーが多い。中には「ハウス・オブ・ウィンザー」の様に王室を風刺したドラマもあるが、映画と同様、ほとんどが労働者階級の暮らしを舞台にしている。やはりかっこいい美男、美女は登場しない。アメリカの「フレンズ」や「アリー・マックビール」といったような洒落たコメディーはまず目にしたことがない。登場人物は下品で、グロテスクで、おどろおどろしくて、それでいて人々の心をつかむ。

まず何よりイギリス・コメディーの特徴は辛辣な皮肉と嫌味につきる。とにかく相手をこき下ろし、馬鹿にし、無礼な言動を繰り返す。相手も黙ってはいない。その罵倒攻撃に対してきちんと反撃を用意している。このやりとりが生み出すおかしさというのは、非常に屈折した笑いであり、アメリカのコメディーにあるようなストレイトな笑いとはかけ離れている。皮肉を込めたカウンターパンチを次々に繰り出すことにより、相手の揚げ足取りのような楽しさを醸し出す。複雑でいてかつ気の利いた笑いが多く、僕はすっかりそれにはまってしまった。

またコメディーの中にはタブーが多い。人種差別、障害者差別的な発言のオンパレードで、動物や老人の虐待もふんだんに盛り込まれている。そういった差別や虐待に対してとてつもなく厳しいイギリス社会にあってこのようなドラマが受け入れられているのは、それらの言動がきわどいところで一線を越えていないためであろう。そのぎりぎりのラインを制作する側も見る側もきちんとわきまえており、それが逆に差別や虐待を笑い飛ばすような原動力になっていると思う。

恐らく日本で一番有名なイギリスのTVコメディーは「ミスター・ビーン」だろうか。あの万人受けする笑いのセンスは抜群であるが、それは必ずしもイギリス的ではない。ローワン・アトキンソンのヒット作「ブラック・アダー」や「ザ・シン・ブルー・ライン」などは、エンドレスに繰り広げられる皮肉と罵倒の嵐で充ち満ちている。コメディーの話を書き出したらきりがないので、このあたりでやめておくことにする。

このひねりにひねられた笑いのセンスは、普通の会話の中でも健在だ。イギリス人は会話の中に皮肉たっぷりのユーモアを散りばめるのが好きだ。それを受けた人は笑ってやり過ごすだけではいけない。また皮肉たっぷりにやり返すのが粋だ。このひねりの利いた皮肉の応酬はなかなか小気味よく、僕はすごく気に入っていた。日本人と話していても最後に何か皮肉のひとつも言ってやらなければ気がすまない、つまり口の減らない自分の感覚とぴったり合い、言われたら受けて立つことが多かった。相手の冗談に笑顔を見せたら負けである。ふん、という顔をしている間に頭の中のバイオロジカル・コンピューターを動かし、ちょっとスノッブで知性の感じられる反撃の言葉を探すのだ。

イギリスにいて日本の文化を知る機会も多かった。王立アカデミーで開催された葛飾北斎の版画展は、日本ではおよそ考えられないくらい多くの北斎を展示していた。北斎による春画も展示しており、それを食い入るように見つめていた小学校高学年くらいの女の子がいて、しばらくその子の反応を眺めていた。テレビのドキュメンタリー番組でも日本にスポットを当てた番組は多かった。建築家の磯崎新さんの活躍を知ったのもイギリスでだった。演出家の蜷川幸雄さんがロイヤル・シェイクスピア・カンパニーを演出して自作の本をエジンバラで上演した様子は「タンゴ・ウィズ・ニナガワ」という番組にまとめられて放映された。この演出の過程で蜷川さんがイギリス人の役者を相手に怒りをあらわにしてしまう場面があるのだが、そんな中にあってもお互いを尊敬しあう気持ちが伝わってきて胸が熱くなる。日本人にも頑張っていらっしゃる方が沢山いることを知り、勇気が湧いてくる。

この他にも日本料理を紹介した「ア・テイスト・オブ・ジャパン(6回シリーズ)」、「スモウ(15回シリーズ)」、「ジャパニーズ:ランゲージ・アンド・ピープル(10回シリーズ)」等々、数え上げたらきりがない。特に相撲は絶大な人気を博し、何度も再放送され、果てはロンドン場所まで開催された。この人気で千代の富士はマダム・タッソーの蝋人形館に展示された2人目の日本人となった。

ロンドンのハイド・パークの一角にロイヤル・アルバート・ホールというのがあり、7月から8月にかけてBBCが主催するプロムナード・コンサートが催される。このホールは円形で、真ん中が椅子のない空間になっており、その立ち席で聞く人たちはどんな格好で音楽を楽しんでも良いことになっている。このコンサートに日本のサイトー・キネン・オーケストラがやって来ることになった。このオーケストラがヨーロッパでコンサートを開きはじめてまだ3年目、しかしその人気たるや絶大で、パーフォーマーによって変わるコンサートの値段もサイトー・キネン・オーケストラがトップになった。首尾良くチケットをゲットし、当日は旅行先のアルジェリアからイギリスへ戻ったその足で出かけた。指揮は小沢征爾、ソリストがロストロポーヴィッチでまずはバッハのチェロ協奏曲。聴衆は熱狂的に反応し、ロストロポーヴィッチがアンコールを弾く。次にブラームスの交響曲第一番、僕のお気に入りだ。このオーケストラの弦の音色は絶品で体全体がとろけてしまいそうなほど切なく響く。ラストの盛り上がりも感動的でホール全体を音の厚いヴェールで包み込んでいく。拍手は当然鳴りやまず、小沢さんは何度も呼び戻される。そして最後に和波孝禧さんと現れた。この方は第一ヴァイオリンの最後尾で弾かれていたのだが、日本では有名な盲目のヴァイオリニストだ。日本人として本当に誇らしい気持ちで会場を後にし、夜行列車でリバプールへ戻った。

まだまだ他にもイギリス文化の幅の広さは枚挙にいとまがない。ミュージカル、コンサートがバラエティーに富んでいるのはのは言うまでもない。博物館も充実している。大英博物館のエジプト・コレクションはエジプト国外で随一だろう。ナショナル・ギャラリーで初めて見たオディロン・ルドンのパステル画は、そのまわりだけ光り輝いているような空間を生み出していて、しばらくそこから抜け出すことができなかった。テイト・ギャラリーに展示されているのモディリアニの女は、いつも優しい目をして訪れる人の人生を見つめている。

イギリス文化でひとついただけないものをあげるとしたらやっぱり料理だろうか。これだけ長い歴史がありながら何でこうも料理だけ貧弱なのかと不思議に思う。高級料理には色々なバリエーションがあるのだが、一般庶民の手が届くような値段ではない。一度学校の面々と湖水地方のレストランまで食事に出かけた。タイをしてジャケットを着て来るように言われたので、一張羅のブレザーに大学の校章が入ったネクタイを締めて出かけた。そこは湖に面した民家を改造したレストランで、まずドローイング・ルームへ通される。客を招待した時、食前や食後に談笑する部屋で、応接間といったところか。玄関の隣にあるのが普通だ。そこで食前酒を飲みながら準備ができるまで時間をつぶす。一緒に出かけたイギリス人まで堅くなっているのがわかる。準備ができてダイニングへ通される。席に座ると正面に湖が広がっていた。ワインを選び、メイン・ディッシュを注文する。料理はスープ、前菜、魚と続きここで一旦お休み。口直しにシャーベットがきた。次がメインで肉料理。その後にデザートのトライフルが運ばれ、最後にコーヒーで締めくくり。これでしめて一万円くらいだったと思う。安いんだか高いんだかよくわからないが、一般庶民がこんなところで頻繁に食事を食べられるわけがない。僕だって3年半の滞在中、これが最初で最後のポッシュでスノッブな食事だった。うちの実家の近くの山賀だったらカツ丼が12杯食べられる。僕はよくイギリス人にこう言った。

「世界の食文化に対するイギリスの最大の貢献はフィッシュ・アンド・チップスだな。」

 するとあるときこう切り返された。

「世界の文化に対する日本の最大の貢献はカラオケじゃないか。」

 この時は気の利いた言葉が浮かばず、反論できずに撃沈。不甲斐ない、精進せねば。

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