リバプールで暮らす・・・
リバプールは労働者階級の街。ここ何年かのサッチャー政権下で経済は疲弊し、市中心部の失業率は30%とも40%とも言われていた。社会保障金のおりる月曜日の朝に郵便局へ行くと、多くの人が窓口に並んでいる。町中には空き家が目立ち、内部は荒れ放題。新しく建築中の建物など滅多に目に入らない。日本から遊びに来る友達夫婦にリバプールーロンドン往復のチケットは25ポンド位だよと事前に教えといたところ、実際ロンドンで切符を買ったら35ポンド取られたという。それで駅員に尋ねたら、リバプールからロンドンを往復する値段とロンドンからリバプールを往復する値段は違うのだと言われたそうだ。うーん、経済格差が電車の運賃にまで反映されている。
犯罪も深刻で、フラットを借りているハーストさん宅は僕の滞在中に3回泥棒に入られた。その後、移った新しいフラットはグランドフロアーで泥棒が入りやすかったこともあり、8ヶ月の間に2回入られてテレビやビデオ、カメラなどの電気製品をごっそり盗まれた。イギリス滞在3年半の間に合計5回だ。シリアでは滞在期間2年9ヶ月で1回入られただけだったので、イギリスの方が治安が悪いと友達に言ったら、そんなのは比較するようなことではないとたしなめられた。
子供たちの悪さも相当なものだ。ダブルデッカー・バスの上に乗っていると、中学生くらいの子供によく火を貸してくれと言われた。男の子に限らない、女の子からも何度か聞かれた。僕はタバコを吸わないので持っていないと言うと、他の人のところへ行く。それで次に声をかけられた人が彼らをたしなめるのかと思いきや、あっさり火をつけてあげるのだから驚く。小銭をせびりに来る子供もいる。ある日、混んでいるバスの中で騒ぎまくっているローティーンが3−4人いた。うるさいのはわかっているが誰も注意しない。その時、ひとりの淑女と呼ぶにふさわしい非の打ち所のないイギリス女性がすくっと立ち上がり、きれいな英語で言った。
「あなたたちいい加減にしなさい。こんなにバスが混んでいるのに迷惑でしょう。大人しくできないんだったら降りなさい。」
ところがこの一言は見事に何の役にも立たなかった。子供たちは女性が叫んでいる途中、まるでポーズ・ボタンを押されたかのように動きを止めたが、彼女が席に着くやいなや何事もなかったようにまた騒ぎ出した。子供ばかりではない。大人でもモラルの低下は相当なもので、土曜や日曜の朝などに町の中心部へ出かけるとあまりのゴミの多さにびっくりする。ゴミ箱はほぼ20メートルおきくらいに設置されているが、人々は全く意に介さずゴミを捨てる。イギリスの街並みは本当にきれいで、花も沢山飾られているが、道路にはゴミが散らかっている。この感覚のずれが僕には理解できなかった。
そのゴミが大量に捨てられる金曜の晩はどんな様子なのであろうか。僕の所属するイミュノロジー・ユニットでも金曜の晩は頻繁に街へ繰り出した。メンバーはだいたいいつも同じイギリス人で、留学生グループは強引に誘ってもなかなか顔を出さなかった。僕はといえば自分に課した「誘われたら断らない」という約束事があったので、ほぼ皆勤賞に近かったと思う。唯一のノンブリティッシュ・メンバーである。女性陣はジル、ブリジット、それに電子顕微鏡室のポーラ、男性陣がリー、グレッグ、そして僕の計6人が基本形であった。
金曜の夕方、このメンバーはまず学校近くのパブで落ち合う。ポスト・オフィスという名前のパブで、道をはさんで反対側に本当の郵便局があるため非常に紛らわしい。最初に出かけた時、実際に僕はこの郵便局の前で待っていた。このパブには学校のスタッフが他にも沢山来るため、人数はいつも膨れ上がる。イギリス人のパブでの飲み方はこんな感じだ。グループで出かけた場合、ひとりずつ順番に全員のドリンクを買う。各人に何が飲みたいのかを聞き、カウンターへ行って注文し、金を払い、全部のドリンクを持って席へ戻る。日本と違って席で待っていても誰も注文取りになど来てくれない。この順番というのは決まっているわけではないので、それぞれが気を利かせなければならない。ずるいやつは全く立とうとしないし、気の利く人はグラスが空になるとすぐに聞いてくれる。こういうところをメンバーはちゃんと見ていて、僕が気を利かせて順番より早く買いに行こうとすると、「ヨシはまだいいよ。」と止められる。みんながよく飲むのはビールだが、注文する時にはラガーかビターかをはっきり伝える。大きいグラスが1パイント、小さいグラスがハーフ・パイントなので、例えば大3杯と小1杯のラガーを頼みたい時は、
「スリー・アンド・ハーフ・パインツ・オブ・ラガー、プリーズ」と叫べば準備してくれる。女性にはレモネードとラガー・ビールを半々で混ぜたシャンティを好む人が多い。スコッチ・ウィスキーを飲む人は稀だが、もちろんボトルは沢山並んでいるので注文できる。パブで困るのはほとんどつまみがないため腹が減る事だ。ピーナッツやポテト・チップス(イギリスではクリスプスといい、チップはフライドポテトを指す)の小さな小さな袋入り程度しか置いていない。
そのポスト・オフィスで2−3杯飲むと次のパブへ向かう。我々が行くのはフィルハーモニックという名前のパブ。キャンパス内にあるでかい工場のようなメトロポリタン大聖堂から、アングリカン(英国国教会)のリバプール大聖堂へ続く道の途中、右側にある。エブリマン・シアター前を過ぎて少し歩いたところだ。はす向かいには確か世界で5番目に古いロイヤル・リバプール・フィルハーモニック・オーケストラのホールがある。現在で創立160周年くらいか。ロビーのボックス・オフィスでは当日でも簡単にチケットが手に入るため、暇があるとよく聞きに出かけた。
そのフィルハーモニックというパブはリバプールでも特に有名な所だ。この街が栄えた19世紀に船大工達が作ったというパブで、内装がものすごく凝っている。特に男子トイレのモザイクは有名で、一度見学に入ってきた日本人の女の子がいて驚いたことがあった。僕らは冬の寒い時は暖炉の前に陣取り、たわいもない話を続ける。ここはかなりポピュラーなパブなので、遅くなると椅子がなくなり立ったまま飲むはめになる。
次に向かうのはその時の気分によって変わる。よく出かけたのはスワンという名前のパブで、過激でもなしスローでもなしという感じの音楽が流れている。客層は20代から30代といったところか。三軒目で飲む頃になると時間も10時を過ぎ、パブの中は人とその熱気であふれる。カウンターでドリンクを買うのも大変だ。やたら騒がしいため話をするのも大変で、僕はたいていラガーを飲みながら音楽を聴いていた。11時半頃になるとパブを後にして食事へ出かける。夜遅くまで開いているのはインド料理の店が多く、僕らもたいていカレーとパッパドンを食べる。それが済むと今度は腹ごしらえにナイトクラブへ直行。いわゆるディスコで、バーやキャバレーのようなところではない。これがまた裏寂れた通りにあり、昼間でもひとりではたどり着けないだろう。たいてい入り口のまわりに若者がたむろしているので場所が確認できるという感じ。男だけでは中に入れてくれないので、彼らは女の子のグループが来ないかと待っている。ここは入場料を取られるが大した金ではない。グランド・フロアーがパブと同じようなスペースで、階段を下りるとそこはディスコ、みんな踊りまくっている。ビートルズが出演していたことで有名になったキャバーン・クラブも今ではディスコだ。曲はブリティッシュ・ロックとアメリカン・ポップスの混ぜこぜ、チークなど野暮な曲はほとんど流さない。そういえばラテン系もなかったな。ここで2時間くらい踊りまくってその週の憂さを晴らし、2時か3時頃にクラブを出る。天気がいい夜だと1時間くらい歩いてフラットまで帰った。これだから土曜の午前中はたいてい死んでいた。
しかし日曜は店がほとんど閉まってしまうため、土曜の午後には起き出さないと買い物ができなくなる。それにフットボールのマッチも土曜午後3時から始まるのが普通だ。実験動物ユニットで働いているガリーがエバートンのサポーターなので、よくゲームへ連れて行ってもらった。ゲートで7ポンド払うとすぐに中へ入れてくれる。エバートンのホーム・スタジアムは客席とフィールドの仕切りが全くなく、客席からすぐにフィールドへ降りて行ける。そのためフーリガンが何をするかわからないリバプールでは、フィールドとの境目にずらっと警官が並ぶ。ピッチは緑がまぶしいほどだが、この警官がかなり邪魔だ。ホームのサポーターと相手チームのサポーターはスタンドが全く別、出入り口も違うためにけんかに発展することは少ないらしい。エバートンは一応プレミアリーグに名を連ねてはいるもののリーグ内の順位は常に下位、リバプールの華やかさとは比べようもない。ちょうどマンチェスター・シティーとユナイテッドの関係に似ているか。それゆえエバートンやシティーのサポーターはずっとせつない人生を歩まされ続けてきた。僕もあれだけ試合を見に行ったのに、エバートンが勝ったゲームを思い出せない。
街が混み合っている平日は、逆に博物館へ出かけるとすいていて気分がいい。ウォーカー・アート・ギャラリーは展示もさることながらエントランス・ホールのカフェテリアがいい雰囲気を持っている。スペースが広くゆったりと落ち着けるため、ここでまずいコーヒーを飲み、バターをたっぷり塗ったスコーンを食べながら本を読むのが好きだった。アルバート・ドックにあるテイト・ギャラリーは現代美術の展示が充実しており、個人的にはギフト・ショップが品揃え豊富で気に入っていた。
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