学校生活を送る・・・
ブリストルで習ってきたことをベースにして少しずつ自分の実験を始めることにした。しかし何よりもまずトリップスを集めなくてはならない。そのためにはどうしても実験動物が必要である。普通マウスやラットに感染させて殖やし、その血液からトリップスだけを採りだして集めるからだ。しかしイギリスでは実験動物を扱うためにライセンスを取る必要がある。獣医でも必要なのかと聞いたら、そうだとあっけなくかわされた。最も一日だけ実験動物を扱うための講義と実習に出席し、あとは実験計画と使用動物などの詳細を記した申請用紙を提出するだけなのだが、それでもO.K.が出るまでに一ヶ月を費やした。イギリスはとにかく実験動物の取り扱いに関して厳しい。注射をするにしてもその用量から注射をする部位まで決められる。
世間の目が実験動物に対してものすごく厳しく、ある意味で常軌を逸しているところがある。僕がリバプールに来て間もない頃、ある大学の実験動物施設で爆破事件があった。爆破されたのは動物が入っていた棟ではなく世話をしている人々が集まる管理室で、数人が亡くなった。その大学では動物を虐待するような実験を行っているとの噂が流れていたらしい。とにかくかなり動物愛護精神が極端で、人は殺しても動物は守るという主義の人たちまでいるということだ。だから実験動物を扱うに当たって、学外の人には絶対に他言するなという厳重な箝口令をしかれた。実際、うちの学校の実験動物施設は一番目立たない5階にあり、しかも入り口にはロックがあって暗証番号を押さないと開かないようになっている。また週末には実験動物反対のデモが大学の前で行われることもあった。現在では医薬品や化粧品、化学調味料に至るまでその安全性は実験動物で調べられており、その恩恵に与っていない人はまずいないだろう。そういうことをがわかっていながらあんなに反対しているのだろうか。理解に苦しむ。
また、動物愛護の先進国といわれながら変な事件も多い。ある日テレビのニュースを見ていたら鼻と耳がなく、顔全体がケロイド状の人が登場した。何だ何だと駆け寄ってよく話を聞いてみると、その人は2ヶ月ばかり前、ドーベルマン2頭に45分間にわたって噛まれ続け、重傷を負ったらしい。そして自分がいかにひどいめに遭ったかを世間に知ってもらうため、テレビに出たのだという。それにしても45分間噛まれ続けたとは恐れ入る。この他にも犬に噛まれて怪我をしたというニュースはよく耳にしたのだが、イギリスの動物愛護も少し焦点がボケているのではないかと疑わしくなった。。
実験動物とはいっても僕にとっては動物に触れられることのできる唯一の場所である。許可が下りると同時に毎日あしげく通うようになった。沢山ある部屋をひとつひとつのぞいて見ると何と猿がいるではないか。世話をしていたガリーに聞くとマルセルがマラリアの感染実験に使っているリス猿だという。ガリーはハンサムなリバプールのあんちゃんで、両親に溺愛されて育ったからか結構わがままなところがあるが性格はいい。リスザルは全部で20匹はいる。施設に毎日顔を出すうちにこのガリーと親しくなり、彼が世話をしている時に部屋へ入れてもらう様になった。猿たちはガリーにはよく慣れていて腕に捕まったりしてまとわりつく。しかし何度も通ううちに僕の肩や頭にも乗るようになり、彼らの鼓動が髪の毛を通して伝わってくるのがわかった。
学校生活もいったん軌道に乗ると単純な毎日の繰り返しになる。ちゃりんこで朝8時半には実験室へ乗り込む。昼は近くのセイヤーズ(リバプールでは有名なパン屋のチェーン店)でパンを買い、コモン・ルームで教室の人たちとだべりながらの食事。午後は実験の続きをやって5時半頃には家路につく。そのうちに運動不足になってきたので、夕方、スポーツ・センターのプールで泳いでから帰るのが日課になった。家に帰って食事をした後、少し休んでからセフトン・パークを1,2周ジョギングするようにもなる。そして実験がうまくいかなくなるにつれてこれがエスカレートし、夕方2キロ泳いで、そのあと公園を3周走る何て日もあった。泳いでいる時やジョギングしている時に結構いいアイディアが浮かんでくるので、実験に煮詰まると体を動かしたくなるのだ。しかもダイエットにもなる。体重は減り続け、肥満児としての最盛期を迎えた小学校6年生以来、初めて普通体に戻ったのではないかと思う。しかしこれも長くは続かず、実験が軌道に乗ってくると、体重の方も上昇カーブに乗り始めた。
スポーツは水泳、ジョギングばかりでなく、リーや、グレッグ、ジル、ブリジットあたりとよくバドミントンをした。屋内では何故かバドミントンが盛んで、あとはスカッシュというところか。スポーツ・センターにはバウンシー・バウンシーなる奇妙な器具があった。これは円形の大きなトランポリンの上にまるで鳥かごのようにネットが張ってある。中はやはりネットで4つに仕切られているが、2メートルよりも高い部分は空いている。その仕切りのちょうど真上にバスケットボールが入る程度のゴールがついているという奇妙な遊び器具である。内部の各部屋にひとりずつ入り、ボールをゴールに入れて点を競うのがルールだ。トランポリンの上にボールを落とすと減点になる。これはやってみるとわかるがとんでもなくしんどい競技だった。トランポリンの上に乗っているため常にジャンプをしていなければならず、また狙いを定めづらくてボールがなかなかゴールに入らない。10分もやるとくたくたに疲れてしまうのだが、結構人気のゲームらしく、予約がいつもつまっていた。スポーツ・センターにはこれが3つもあった。
単調な学校生活ではあったが、学内ではそれなりに事件もあった。まず盗みだ。僕のラボでも机の上に置いといたウォークマンとメガネが盗まれた。スポーツ・センターで泳いでいる間に自転車を盗まれたこともある。そのあと買い替えた自転車ではサドルだけ盗まれてしまった。しかも学内に留めておいたのにだ。学校に入る時には身分証明書のチェックを受けるため外部の人間は入りにくい。内部に犯人がいるということだ。その頃、他にも盗みが多発したため、ある教授が研究室内の現金等を保管している部屋に防犯カメラを取り付けた。しかも誰にも内緒でつけたらしい。それで新しい警備員のピーターが室内を物色しているところが見つかり、彼はもちろん解雇されてしまった。しかしもうひとつ、このカメラには面白い現場が映っていたという。その部屋で仕事をしている教授の秘書が、夜中に男を連れ込み机の上で一発やっている現場だった。残念なことにそのテープは出回らなかったが、この話は一瞬にして学内を駆け回り、今でもおもしろおかしく語り継がれているらしい。その秘書も解雇されたのは言うまでもない。
こんな事もあった。カレンと僕がいる研究室はきれいに片づいていて、ゆったりとしたスペースがある。そこにある日ヘビ毒グループのデイビッドとキャロルがでかい機械を運び込んできた。何だこれは、俺は何にも聞いてねえぞ、と思いながらもぐっとこらえて文句は言わなかった。翌日、見たこともない人がやって来て機械を作動し始め、デイビッドとキャロルが説明を受けている。聞いてみると、購入予定の新しい機械の使用法を説明してもらっているという。その機械は非常に不快なブーンという低音のノイズを常に発していてすごく気になる。また人の出入りが多くなり、落ち着かない。とうとう温厚な僕もプッツンしてしまい、
「俺はこんなことをやるという話を全く聞いていない。うるさくて仕事にならないから場所を変えてくれ。」とキャロルに怒鳴ってしまった。新しい国に住み始めると一回はこういう事をやってしまうようだ。儀式のようなものか。カレンが目を丸くして見ている。隣の部屋からデイビッドが飛んで来た。
「ヨシ、少しうるさいのはわかるが、この機械はものすごくデリケートで動かせないんだ。ちょっと動かしただけでも狂ってしまうかもしれない。」
「だって昨日は台車に乗っけて運び込んで来たじゃないか。運び込めるんだから運び出せるだろう。口からでまかせは言わないでくれ。それともこれからずっとここに置いておくつもりか。」と僕。
「今は機械を使っている最中だから動かせないんだ。もうすぐ終わるからがまんしてくれないか。」
「じゃあ、スイッチを切ればいい。何と言おうとこれ以上我慢できない。デイビッドが運び出さないと言い張るのなら、俺が自分で運ぶ。」と啖呵を切った。
これでデイビッドもしぶしぶあきらめ、機械はあっけなく階下へ運び出された。もちろんこの騒動はあっという間に知れ渡り、下の部屋にいるリーとジルが飛んで来た。
「ヨシ、今日はみんなでオセロを見に行く日だぜ。キャロルも一緒に行くのに困るよ。怒るのもいいけど日を選ばなきゃ。」とリーが言う。
すっかり忘れていたが、この日はエブリマン・シアターへ教室のみんなとシェイクスピアのオセロを見に行くことになっていた。
「あら、ヨシはよく言ったわよ。下の機材部屋が空いてるんだから彼らは初めからそこでやれば良かったのよ。いつもああなんだから、これですっきりしたわ。」とジル。
そしてカレンは、
「あたしも言いたかったんだけどさすがに言えなかったわ。日本人でもヨシみたいなのがいるのねえ。これで静かになったわ。」
と女性二人が僕の側につき、リーは苦笑いしていた。この後1時間位して、この日休暇で自宅にいたマルセルまで学校に現れた。どうもデイビッドから連絡が入ったらしい。怒られるのかと思いきや、反対に事前に断らなかったことをしきりに謝られ、僕も少しだけ反省した。
さてこの日の晩どうなったかというと、キャロルはさすがに大人で、この事件のことなど何も気にしていないかのように振る舞ってくれた。シアターに入る前に地下のビストロで食事をした時、キャロルからオセロのストーリーについて講義を受け、芝居を十分に堪能することができた。見終わった後はもちろんみんなでパブに寄り、ビールを引っかけてから家路についた。
ある日、アン王女が学校にやって来ることになった。王女はこの学校のパトロンになっているという。王女に話しかけられたら、「Yes, ma'am」と返事をしろとのお達しが学内を回った。辞書で引いてみるとマダムの縮約形と出ている。他の王室ブラザーズに倣ってアン王女もバツイチなんだから「Miss」って言っちゃだめかなあとジルに聞いたら、あっさり却下。リーはラボの部屋で10センチくらいある毛むくじゃらのタランチュラと東南アジアからの積み荷に紛れ込んでいたというサソリを飼っている。科学博物館でバイトをしていて、どうもそこからもらってくるらしい。しかし管理部にそれを隠しなさいと指導され、どこに置こうかと真剣に悩んでいた。サソリは子供を生んだばかりで、まだ白いベイビー達を背中に抱えている。棚はどこもいっぱいで、水槽のようなでかい容器など入る場所はどこにもない。結局リーはあろうことかこの生き物が入った二つの容器を、特別にきれいな状態で実験をする時に使うクリーンベンチの中に入れてしまった。殺菌のための紫外線をつけてやろうかとも思ったが、そこは大人になって我慢我慢。
さて当日の朝、登校してみると物々しい数の警官が学校を取り巻いていた。でかい車の中で何頭かのイヌが盛んに吠えている。学内へ入ろうとすると厳重なチェック。昼過ぎまで出られなくなるよと言われ、入る前にセイヤーズでパンを買って来ることにした。アン王女が到着したのは昼近くだろうか、パン食べようかなあと思っていた時だ。学内を案内されて回っておられたが、ついに僕らのいるウィングへは来られなかった。それでこの機会にとにかく一目見ておこうとロビーへ特別出張。アン王女は黒っぽいシックなスーツに身を包んでおられ、実際に近くで拝見した印象はさっぱりした気の良いおばさんといったところか。まわりにいたイギリス人の、特に女性陣は盛んに褒めちぎっていた。王室は馬鹿にされているのかと思いきや、やはり間近に接すると圧倒されてしまうのか。王女はこの後しばらくしてからめでたく再婚された。
この学校にいるとこんな触発される機会も多かった。その当時、アフリカのスーダン南部で内戦が続き、伝染病、特にリーシュマニア病が蔓延していた。恐らくこんな事は日本では全く報道されないだろう。その事態を憂慮したのはフランスの「国境なき医師団」だ。彼らは全く外交的な交渉を行わないうちに、つまりスーダン政府の許可も取らずに飛行機で現地へ乗り入れるという強硬手段に出た。そして医療活動を行い人々の手当を続けているという。その地から最近一時的に戻ったメンバーの二人が学校に来て現地の報告会を開いた。まずは現地の様子を映したビデオが流され、言葉を失う。真っ茶色の乾いた大地に同じ色に汚れた半裸の人々が横たわっている。笑顔など全く見られない。緊迫した絶望的な空気がスクリーンから流れてきて息苦しくなる。カメラマンが近づくと食べ物をくれと手を差し出す。今、この同じ時間にこの地球上でこんな風に生き延びている人たちがいるということが信じられない。ビデオの後に彼らの報告が始まる。現地はもう無法地帯だという。人々は極限まで追いつめられており、手にしたものは何であれひったくる。何の希望も持てない状況を毎日見ていて、彼らでさえ耐えられなくなると。そのプレゼンテーションの後にボランティアを募っていた。どんな短い期間でもいいから参加して欲しいと訴える。学生の7割以上が熱帯病に通じた医者であるこの学校でプレゼンを行ったのはそのためだ。普通の医学部に行っても医者の卵はいるが、医者は少ない。僕が医者だったら参加したいところだが、それもできない。ルワンダ内戦の時も報告があったが、こういう映像を見、報告を聞くたびに心臓がどきどきして落ち着かなくなるのは僕だけだろうか。日本では景気が悪くなってきたと騒いでいるが、いったいそれが何なのだろう。世界には景気なんていう言葉が何の意味も持たない場所もあるというのに。無力感が漂いため息が洩れ聞こえる講義室を後にした。
次へ
|